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「中国文明論集」より、陶磁史の視点 第一回

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少し変わったネタでありますが、歴史学的な視点についての抜粋感想記事。魯山人とか柳宗悦、また岡倉天心という辺りは、およそ陶芸に関わっていれば多少なりとも知識はあろうし、人によっては繰り返し読む事もあろうかと思うわけです。そういった辺りの抜粋記事も面白いものですが、少しく変わった視点を紹介しようかと。

著者は歴史学者。東洋史学を志す者にとっては巨匠といっても好い方でありまして、偉大なる昭和期の歴史学者さんであります。唐九郎さんと同じ辺りの世代でありますから、昭和期の偉人に数え上げられる学者さんと云っても過言ではなかろうかと思います。あ。時折出てきますが、小生は東洋史学部卒であります。「小生」などという云い回しを用いる様になったのは、ココに居たせいです。また、茶道史で有名な桑田忠親氏も歴史学者。茶道方面の方は御存知かと思いますが、桑田氏は東京。ほぼ同年の方で京都の歴史学派を率いておられたのが宮崎氏という話です。

さておき、歴史学的な実証方法というものは、およそ論の述べ方を見れば瞭然というもので、1つの言葉を丁寧に扱い、当時の背景などと照らし、本当に、確実に「真」と出来るもの以外には根拠を置かないという姿勢です。また埋まらぬ空白に対しても、丁寧に、丁寧に、埋められるだけの外堀を全て埋めた状態で、最後に推測を行うという姿勢。反省を行いながらの仕事。およそ陶芸における桃山陶技や宋青磁の絶技再現などに於いて充分に参考になるもの。憶測を行う際の手法として、歴史学というものは、かように繊細であります。

少し長くなりますが、第一回を早速に。


東洋史論:「中国における奢侈の変遷ー羨不足論ー」より抜粋・雑感。
(※元本は宮崎氏の東洋史論文集です。)

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他人の奢侈をするのを調べて何が面白いかと云うと、この奢侈というものに依って当時の社会状態がよく判るからであります。どうせ奢侈にふけるというのは、当時の有力者に違いありませぬ。その人たちが、何か奢侈をやろう、何か贅沢なことをしようという時には、あらゆる智慧を搾り、あらゆる能力を発揮するものであります。つまり人力と物力を総動員してやるから、この点は戦争と大変似ております。
(中略)
時代を経るに従って社会が進歩する、そうすると前には奢侈であると思われたことが、最早今日では奢侈でなくなってしまう。そこでまた新しい奢侈の方法を考える。時に依るとその逆もありますが、とにかく社会が進歩する、それに応じて奢侈のやり方が進歩してくるわけです。そういうことを、『塩鉄論』の著者は、ちゃんとこの羨不足篇の中で云うているのであります。もっともこの『塩鉄論』の著者桓寛は大変に保守的な人でありまして、(・・・)これは人間が悪い方に堕落して行くのだという風に考えているようでありますが~以下略
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⇒二千年前の中国の書物・『塩鉄論』の話より、奢侈というものは何か、という事について書かれている。奢侈論というのは、一見して関係無い様に思うかもしれないが、桃山時代の奢侈こそ茶道であり、また昭和バブル期の奢侈の1つにも陶芸がありました。今となっては「嗜好品」に分類される作家モノの陶磁器でありますから、1つ、知識として教養を得る事は大切な事であろうかと思います。嗜好品は誰の為のものであり、どういったものであるのか。奢侈の変遷・進歩とは、即ち流行物の変化であり、利休の美、織部の美、遠州の美と変遷した陶磁史を指しているのです。二千年前の『塩鉄論』に依れば、また歴史学者の見地に拠れば、それは当然に「社会に応じて奢侈のやり方は進歩(退歩・変化)するのである」ということです。また、奢侈を決めるのは、有力者、つまり極一部の者であって、大衆ではないという観点も、事実として受け止める必要があります。

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古代における奢侈の代表は殷の紂王でありますが、そういう(酒池肉林)行為を今日から見て、一体どこが奢侈であったかと云うと、結局分量が多過ぎるというだけであります。(・・・)これは今日日本でも、例えば田舎などで招待されて行くと口を割っても御飯を食べさせようという歓待方があり、あるいは高等学校生徒が酒は飲め飲めというように分量を貴ぶ。まぁ殷の紂王の奢侈は高等学校生徒の程度に毛の生えたものと言って宜しい。元来奢侈という文字からして、奢は大きな者と書き、侈は多い人と書き、いずれも分量的な意味を離れない。大きくて多い。これが中国における奢侈の原義であります。その他珍しい玉であるとか、あまり世の中にないような物を貴ぶということが頻りに記録に見えております。

珍奇を貴ぶにしても、その貴び方が、量を貴ぶということに依っても判るように、本当に自分が見て楽しむのではなくして、人に見せる、人に誇るための奢りであります。これは紂王の酒池肉林のことについても言えるのでありまして、酒池肉林というほどの酒を沢山集めても、紂王が自分で飲んだ酒の分量は知れたものであって、他の人に飲ませて、人に見せるための奢侈をしている。
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⇒贅沢とは何か。量を貴ぶという手法は、即ち他人に誇示するためのもの。人に見せるための贅沢とは、人に見せるための技法行使であり、人に見せるための道具陳列であろうか。それらは「古代の贅沢手法から一歩の領域も出ておらず、高校生の酒盛りに等しい」とは、なかなかに耳の痛い分析である。無駄に珍奇な道具を並べただけの茶会というのは、つまり酒池肉林の趣向ということに相成りますから、心したいものです。

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中世、唐頃までの人のやり方を見ますと、ある人は長生きをしたいために、玉を粉にして飲みます。(・・・)当時は貴族政治であって、貴族と云うものは一般の人とは血筋が違っている。普通の平民とは種が異なっているということが、貴族のいばる理論的根拠であった。種が良ければ芽を出したものも良いに決まっているという考え方から、この考えを以て総てのことを類推し、演繹して行った。豚を養うにも、豚よりは人間の方が上等であるから、豚の乳よりは人間の乳が上等である。上等な乳で養ったものは、下等な乳で養ったものよりは上等なものになる。結論として、豚の仔を、人間の乳で養えば良い豚になるというような考え方が基礎になっているのであります。
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⇒つまり、ブランド信仰。量より質。しかし浅い。「人間国宝が作ったものが、悪かろう筈が無い」という筆法。上等な地位にある人間の造るものはすべからく上等と類推するのである。こういった観念的な喜びを贅沢としたのが中世的な、およそ唐の時代、7世紀頃までの贅沢手法であったわけです。新しいモノ、またブランド信仰の強い日本というものは、さて成熟しているのかどうなのか。唐物ならばOK!という手法であります。桃山時代のものならば、およそ現代のものよりも全て素晴らしい、という判断など、中世的な未熟なる視点。薪窯信仰とか、赤松信仰とか、天然原料信仰とか。須らく、イメージで上等、下等を決めるのが中世。 良いモノ⇒きっとスゴイ肩書の人、また古いモノに違いないという期待も、裏の発想に相当します。例は悪いですが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と同じもの。

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もう少し合理的な奢侈のやり方が、唐の末か、宋の初め頃から始まって来るのです。(・・・)「石炭で炊いた飯はどこでも同じではありませぬか」と言うと、「いやその石炭にも法がある。炭を使う時には一度焼いて煙の気を取ってしまってから料理につかうべきものである(・・・)」と言うたそうであります。思うままに火力を支配するということがこの時代に行われたので、(・・・)中華料理がうまくなったのも、おそらくこの頃からであろうと思います。(・・・)それから陶磁器は世界で最初に中国で、宋の時代に完成された。現今世界の陶磁器の祖先は宋の陶磁であるといっても宜しい位でありまして、宋代に陶器が堅牢に優美に、単に実用品のみならず立派な工芸品としての価値を有するに至ったのであります。(・・・)どういう性質を持っているかを研究し、そういしてその性質を生かして使う。こういうことが宋の頃に行われたのであります。
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⇒要は本質的な価値を愉しむことが出来るという事でしょうか。料理ならば味に徹底して深化させ、味に付属するものであれば素材は当然の如く、調理から果ては見た目まで、味に関わるものを全て究めるという方向性になるわけです。宋代は陶磁器のみならず、禅や茶道の発祥の頃でありまして、徹底的に完成されたもの、素晴らしきものが多く登場しております。

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例えば庭を1つ造るにしても、徽宗皇帝の庭の作り方は前の時代とは違っている。なるべく自然に近いものにする。築山でも樹木でも最も自然の趣を存せしめる。家を建てるにしてもなるべく木地を表わす様に努める。これが一代前の六朝の時でありますと、木地が見えるとみっともないと云うので、それを錦などで覆う。柱掛や壁掛で覆い尽くすというのが、贅沢だとされておった。(・・・)岩などをもってくると、その岩に彩色を施したものであります。(・・・)徽宗皇帝などはちゃんとその趣きを解して、最も自然のままに、岩は岩のように、木は木のように、あまり小細工を施さない様にして、気品のある奢侈を行っております。もっともあまり奢侈をし過ぎたので国が滅んでしまいましたから、その点は誉められませぬが、そのやり方は非常に合理的であります。
(・・・)硯の中で特に尊重されたのは端渓の硯でありますが、(・・・)この石の質が非常に緻密でして、細かい粒子から成り立っている。しかもその粒子が非常に硬い(・・・)ある者には眼(ガン)という渦巻きのようなmのが出ている事があります。本来から云えば硯の疵(キズ)であります。ところが当時の人はこの疵を生かして装飾にする。これをなるべく端の方に持って行き、池の付近に置いて一種の装飾にして単調を破る。(・・・)適当な疵ならばその疵を尊重するというところまで進んできている。
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⇒何が合理で、何が非合理か。歴史学者は、言葉を精密な意味に還元して選択する。木地を覆い隠す様に壁紙で覆い、畳を黒塗りすると云う様な手法は、いわゆる小細工。奇抜性はあるが、気品が無い。珍奇で埋めるなら、それは酒池肉林の手法にまで堕ちている。本質をしっかりと突き詰めるのが合理。決して、経済的な均衡を合理とは云わぬ。徽宗は宋磁の立役者と言える。禅にも流れたこの精神は日本の茶道にも底通していくことになる。利休の調和美、織部の破調美、遠州の端正美にしても、全ては彼らの400年前、徽宗皇帝の時代に完成されているのである。知らずに「日本独自の美的感覚」とか「キズを美と見立てたのは織部が初めて」と云う様な云い回しを見掛けることがあるが、とても恥ずかしい話である。芸術論者は此の手の知識教養が浅いように感じることがある。 実物、実践ともに宋代は最高峰のものが突出している。

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時には奢侈が邪道に陥ることがある。端渓の石が宝石の様に尊重されますと、硯を造る職人がなるべく大きな石を、小さく削らずに使おうと云う考えを起こす。つまり石を惜しむのであります。それがためには、出てきた形をあまり変えずに使いたい。出てきた形まで生かそうとする。これはある程度まで同感出来る事であります。しかしそれも時によりけりで、どんな形の石でも、そのまま何とかこじつけて硯の形にしようと苦しくなる。出て来る硯石の偶然の格好に支配されるということになると、これは堕落であります。偶然形の非常に大きな石が出てきたので、(・・・)職工が何とかこじつけて、蛙や蓮の葉をあちらに付けてみたりこちらに付けてみたりして拵えたのが、あの硯でありますが、どうも悪趣味です。やはりある限度においては、惜しくても大きさを減らして切らなければ本当に気品のあるものは出来上がらない。勇気がないと、そこに趣味の堕落が生じて来るのであります。そういう趣味の昂揚と低下とが、不思議に政治能力の盛衰と並行しているのも注意すべき現象です。
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⇒工芸論に踏み込んでいる。この硯をヨシとせば、もちろん肩書で云えば「自然美の尊重」であるが、実物は上品ではない。つまりは「自然美」という観念で判断していることになり、中世的な視点に堕落しているのである。しかし商売上、教育上、日本での美術品販売や芸術家論というのは、「作者・肩書先行」の教育が行われ、人々は中世的な判断力に、意図的に留められているかの様である。大衆は愚かであるべきで、云われるままに、云われたものを買わせた方が、経済的に合理的なのである。やはり政治に似ているというべきか。


余。

この論文は二次大戦の、「贅沢は敵」という時代の産物。故に、上記の抜粋部分こそ歴史学であるとしても、抜粋しなかった結論部分は戦時統制的、賛美的なものになっている。また戦後には共産主義賛美の傾向が出たり、歴史家の文章も時代の政治背景に無縁でいることは難しい。だからこそ、論文を元に論文を書いてはならないのである。常に原典に当たる。原典の背景も調べるのが理想。そういった姿勢は、陶器もまた同じ。釉薬屋の云う織部と、唐九郎の云う織部と、本歌の織部は別のものである。

以上、第一回まで。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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