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「中国文明論集」より、陶磁史の視点 第四回

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第四回は簡潔に。ってか、一度書いた記事が消えたのですよ。

東洋史論:「中国の歴史思想」より抜粋・雑感。
(※元本は宮崎氏の東洋史論文集です。)

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歴史をかに理解すべきかという問題は、歴史学の専門家と非専門家とではその受取り方がちがう。というのは、一般の人にとっては歴史事実は始めからそこにあった自明なもの、与えられたものとして、それをどう理解するかだけが問題なのであるが、歴史の専門家にとってはそうはいかない。歴史学者にあってはまず自分で史料から歴史事実を汲みとり、造りあげることから取りかからねばならぬのである。

儒教のいうところによる、と周が殷に替った革命の際には、平和的手段によってのではなく、凄まじい戦争によってであった。(・・・)ところが現在ある『書経』のこの部分、及びその他のある部分は、孟子時代の『書経』ではなく、遥かに後世、晋代の偽作であることが、清朝の考証学者[エンジャクキョ]によって証明された。(・・・)儒家が解釈するような、聖君の武王と無道な紂王との対決だという結論は怪しくなり、単に武力においてすぐれた周が、先進国の殷に打ち勝っただけの話になってしまう。
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考証の作法として、歴史学ほどに整ったモノはないのではなかろうか。誤まった情報や、誇張表現に溢れた現代においても、その良心を柱として学問を積み重ねるものである。例えば利休の『南方録』が、江戸中期頃の偽作であることなどが付きとめられているし、利休好み、利休所持というようなものが気儘に増加されていることなどが知られる様になったのは、歴史学者の成果である。こういった作法は、中国の史官、つまり歴史を忠実に書き遺すという官僚であり、最も清廉な官僚が執った仕事の作法。茶道のみならず、あらゆるものに於いて大いに参考にされるべきであろう。

陶芸に於いても、桃山技法の再現などに於いては、常識的とされている手法が多くある。しかしその実、当時の薪事情としても赤松の生息環境、材木の用途、伐採権の存在など、考証を積んでいくと多種の知識が必要なのだが、例えば芸術評論家や陶芸家など、中途半端な読みかじりの知識で議論を行う姿が見受けられ、果ては書籍となっていることさえ珍しくは無い。本当にその調合であろうか、さてどうだろうか。必ず、原典史料に帰って、自分で組み立てるという作業を癖にしてみるべきだろう。史料というのは、書籍、実経験はもとより、陶片や伝世品なども含まれる。

その際には、「専門家」として、書籍の信頼性、また陶片の信頼性、伝世品ならば、その信頼性までも調べるべきで、怪しいものを混ぜ込んで理論を組み立てた場合、全くその理論は使えないどころか、誤まった方式を導くこともある。確認を怠ったことによる好例が永仁の壷事件であろう。今や骨董にしても伝世と云われるものにしても、偽物が非常に横行している。現代の偽作もあるし、江戸時代の偽作もあろうことは、利休神話を見れば当然に疑うべきものである。

本当に信頼出来るもの。確実な史料だけを抽出すれば、全く変わった視点が得られることもある。そこに忠実に在らんとすれば、全く別に手法になることもあろうし、云われてきた手法と同じ事もあろう。そういった作業を、自分で組み立てて検証するというのは、工芸家にとっても決して、負の財産ではなく、見に付いた経験・知識・教養となるのではないだろうか。

以上、今日は1つだけ。

「中国文明論集」より、陶磁史の視点 第三回

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台風一過。仕事が進まぬので今日も小難しい話、第三回。

東洋史論:「中国火葬考」より抜粋・雑感。
(※元本は宮崎氏の東洋史論文集です。)

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死生観に従ってそれに対応する埋葬の方法が発生する事は勿論だが、また何とはなしに発達した埋葬の習俗に従って、それを説明するような死生観が生ずる場合も考えられるはずである。中国人の埋葬の起源を説明した最も古い記録は『孟子』(・・・)自然に肉体の腐朽するまでこれを保存しなければならぬ。これには土葬が最も適当であり、出来るならば防腐剤を用いてその腐朽を出来る限り延ばすのが孝子の勤めだということになる。こういう考え方は清朝まで続いた。
しかし一旦仏教による火葬法が伝えられると、それが仏教と共に次第に中国人の社会に浸透していくことを免れなかった。(・・・)宋元明の三王朝はいずれもその天下一統の始めに、火葬禁止の命令を発布している(・・・)朝廷の火葬禁止はとかく有名無実に流れる傾向があった。(・・・)仏教は必ずしも火葬に固執するわけではないが、中国における火葬は仏教からの影響なしに在考えられぬ。(・・・)火葬を論ずるには、勢い仏教と儒教との勢力消長の大勢を背景において見直さなければならない。
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伝統的な習俗の変遷について述べられた論考。我々は、ともすれば直近の経験や、知りたる事象から類推を行うけれど、そも火葬と土葬についてさえ、日本では今現在においても土葬の風習が残っている地方があり、現に私の在住する地区でも数年前まで行われてきたのである。死者に対する敬意を同じくする仏教と儒教、その思想は交錯し、時に対立する歴史を持つとはいえ、互いに理想郷の世界を求めるものである。細かく見た時に、仏教にも宗旨対立があり、儒教にも学派というものが生じた歴史がある。これは別の視点で言えば、陶芸の各派ということも同じであるし、茶道の流派についても同じことであろう。それが何を引き起こしたか、という事は、なかなか、数十年単位の話であるからして、歴史に学ぶことは大いに参考になるものである。

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現実の動きとしては、民族主義的な傾向を持つ新儒教の土葬法が、世界主義的な仏教の火葬法を、次第に駆逐しだしたのである。われわれはここに歴史の発展が必ずしも世界的に合理的な方向にばかり発展するとは限らないという一例証を見る事が出来ると思う。(・・・)歴史研究にはある一時期を取り上げてその詳細な断面図のようなものを作製することは是非必要である。しかしそこから余り多くのことを永い年代の前後にわたって推測することは慎まなければならない。清代の社会は宋代の社会より全般的に見て進歩しているには違いないが、時には宋代の方が進んでいた点もないとは言えない。同様にして同じ清代でも、後の時代ほど前の時代より進んできたとは云い切れぬのである。
乾隆頃から中国の社会では次第に火葬法がすたれて土葬が普遍化し、それは一時の好景気時代に起った趨勢ではあるが、一旦習俗として成立してしまうと、今度は習俗に反して火葬を行う事は大なる非難を招く原因となった。ついで世上が一転して嘉慶以後の不景気時代に入ると、土葬のための土地入手が極度に困難となった。そこに起こったのが、最も忌むべき停葬の風である。屍骸を入れた棺を路傍、田間、所かまわずに放置しておくのである。(・・・)これは恐るべき歴史の逆転である。
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古代に於いて、遺骸を山間に捨てる人々の風習を咎めたのが儒教であった。そうして始まった土葬の風習であるが、簡便・合理という点から、已む無きには火葬を併用する歴史を経て行く。その火葬の風習を退けたのが、儒教に忠実たらんとした清代。それが停葬という、正に「遺骸を放置する」という儒教以前の状態を眼前に蘇らせたという話である。

対立する思想。現在の日本では逆に、火葬の風習が完全に土葬を駆逐してしまったが、それは何と云えば、政治による決定によるのであって、信仰による変化ではない。腐敗という化学的な現象を批判するのであって、土地とか思想は全く関係のないものである。遺骸を業火で焼くというのは、儒教的に数千年の永きに渡って「最低の行為」とされてきたものが、この数十年で、いとも容易く覆されていく。仏教的には「どのようにしても好い」のだから、およそ土葬が残りそうなものであるが、それほどに現代の変革は速断である。問題は、理想を追って火葬にしたのではなく、合理との競争で廃滅させたのであるから、これが、理想一本槍で失敗した乾隆帝の土葬推進策と、成否はともかく、さて進歩的な政策であったのはどちらかと云えば、どうだろうか。

歴史は必ずしも進歩するとは限らず、また憶断というものもアテにならない。故に歴史を見れば「未来など判らない」という事が「判る」のである。例えば日本も、仏教、儒教、神道、自然信仰などなど、永きに渡る伝統的思想の柱を固定せず、また教えることも無くなって、半世紀。人を善に導いて来た教科書を捨て去って、機械や科学など、人間そのもの、己を信仰する世界と言えるのではないだろうか。さて、これが自由なのかどうかは、やはり歴史となって後に判ることなのであろう。新時代であるからと云って、即ち「進歩した」とは云えないのである。「新」は必ずしも「真」ではない。また「理想一辺倒」も弊害が大きいのである。儒教はこれを「中庸」と云う。すべからく全てを見通しているのが二千年前の『論語』であることは、とても興味深い。

「中国文明論集」より、陶磁史の視点 第二回

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小難しい話、第二回です。宮崎氏の文章は、歴史学者さんとしてはとても判り易く、楽しい文体だと思うのです。暇な時間を使って書いているので、暇な時間に読んでみてください。

東洋史論:「宋代における石炭と鉄」より抜粋・雑感。
(※元本は宮崎氏の東洋史論文集です。)

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三、四千年間、世界文化の先頭に立っていた西アジアは、その文化の先進性の故に、西アジアの自然を収奪し過ぎた結果、地力の消耗を来たして、少なくも十世紀頃になるとその文化・社会に一種の行き詰まり現象が現れてきたと思われる。地力の消耗の中で特に著しいのは森林資源の枯渇である。(・・・)燃料の不足は生産活動を拘束する。殊に金属の生産を阻害すること甚だしい。西アジアにおける金属加工品、精製品の名声は、どうも西アジアに金属地金が豊富であったためでなく、少量の輸入地金を最大限に加工費をとって再輸出せんとする努力の表れと見られる。古い歴史によって支えられた高度の技術を持ちながら、西アジアの産業はともすれば、次第に土地から浮きあがろうとする不安を蔽うことが出来なくなった。
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高名なるペルシア銀器、イスラム青の器。技術は、資源と密接な関係にある。やはり磁器などに於いても、資源の希少性が、かの精華に昇華させたのである。貴重な磁土、貴重なコバルトを用いて制作するのであるから、勢い、そこには精緻なる技術が鍛えられるのである。日本ではおよそ、自然なる資源を用いるに際して、そこに敬意を払い、祀りを行ってそれを用いている。如何に水が豊富であろうとも、水神を祀り、大切にそれを扱ってきた。貴重な資源であれば尚更である。現代の様に「あるだけ使ってしまう」という発想では、到底、その心情は測り知ることが出来ないだろう。これは理論でもなく、思想でもなく、「実感」の話である。

現代。陶芸に於いては、量産食器を造るために、貴重な粘土資源を有する山を、数年で1つ、潰しているのである。古琵琶湖が堆積させた粘土というものを、山ごと1つ、潰して行くのである。山中のことであるが故に気付かぬかもしれないが、瀬戸・美濃辺りの「キャニオン」などと呼ばれる地域を見に行けば、山中に高大な平野が広がる恐ろしき光景がある。人々が器を、百円の価値しか見なくなった時、やはり工芸としても、そこに精緻なる技術は育たない。豊富なる資源を大切にしてきたからこその、高度な技術工芸と見るなら、「内情は資源の使い倒し」である現代に於いて、その技術が低下するのは当然の流れであると見て良いのではないだろうか。日本工芸二千年の歴史に於いて、かように土を粗末に扱った時代というものは、例を見ないのである。「技術立国」なる言葉は、今の工芸には正に空虚な言葉である。貴重な輸入貴金属を用いる科学技術が発達し、地力を用いる工芸が衰退しているのは、この歴史観に従えば、まず当然の帰結であると云える。要は、資源の豊富さよりも、資源を如何に大切に生かすか、という話になる。「量」は古代、「名目」が中世、「活用」が近世の文明である。

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西アジアを停滞に陥れた燃料問題が、中国に於いては巧みな解決を遂げ、いわば燃料革命とも称すべき文化の発展が見られたという事実である。唐末から宋にかけて石炭の利用が普及し、これに伴って万般の生産が刺激され、夥しい物量の算出が可能となり、その物量を土台としたのが宋代の新文化であったのである。宋代文化の高度性は、単に精神的なものでなく、豊富なる物量を背景にして始めて可能であったと言える。
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枯渇によって育てられた技術が、突如として豊富なる資源に出会って「華」を開く。厳しき時代に禅を生み出し、その精神性の高きもので以て、豊富な物量を差配したのである。桃山時代も同じことで、乱世における森林資源の枯渇、食糧難というものから解放された「直後」の時代である。細かいコトを云えば、モノを造るのも、文化を造るのも人間なのである。艱難に耐え、不足の中で最大限に活用をする精神を得た人間が物量を差配する時、全ての物が活かされた時代、即ち宮崎史観による「最も高度な文明」という時代が生じるのである。苦労を知らぬ人間には不可能、苦労あってこその文明開化。宋の高度な文明は、詩聖や禅僧に代表される精神性を以て、万物を生産したというものである。その時代の工芸品を造るのは「人」であるからして、如何に材料が豊富で、その質が向上したとしても、「製造する道具たる人間の質」が低下すれば、その範囲でしか文物は生産出来ないのである。魯山人を初め、「人間力こそが決定的な作陶能力である」と喝破する工芸の巨匠は、それこそ枚挙することが出来るのであって、広く歴史的に見ても、狭く個人作家の視点に立っても、人間力こそが文明を決めるのである。戦後の日本復興とて、これもまた同じことなのである。昭和の偉人作家は皆、その半生で資源枯渇なる戦争を経験して精神を磨いた人々だ。

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石炭は、製鉄に利用されたのみならず、また製陶にも用いられた。そのことは『宋会要』食貨巻五十五、窯務の条に(・・・)とあり、在京の陶磁製造所では、その燃料に薪と石炭を併用したのであった。華北における製陶の中心はいうまでもなく磁州であり、磁州焼が普及した結果、「瓷器」に代って「磁器」という言葉が用いられるようになったほどである。さて磁州は鉄鉱と共に石炭を産するので、製鉄の要地でもあるが(・・・)先の引用文の続きに(・・・)特に在京窯務は宮中用の上製品を製作しなければならなかったので、石炭を避けて薪に頼ることにしたかったのであろう。しかし磁州のような大衆器物には石炭が盛んに使用されたと思われる。
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森林資源の少ない中国北方は石炭を燃料に、華南では薪材を燃料として、精緻なる宋磁を造り出したことは常識的に知られているものであるが、歴史的な視点として考えれば、当然に宮中用というものは、即ち国の総力を用いて制作するわけであるからして、「石炭が豊富であるから石炭を用いた」という様な発想が、こと官窯に於いては通用しないという事である。「磁器」の由来についても少しく豆知識であるが、磁器という言葉自体、やはりその故郷は世界最高峰の精華陶技を誇った「宋磁」の世界に発しているのであり、なかなかに歴史浪漫のある経緯ではないだろうか。

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宋が大量の鉄生産手段を有したのは、国防上に好条件であったが、しかし困ったことには宋にとっての最大の敵国であった遼も同様にその国内に鉄と石炭の資源を有していた。(・・・)宋に行われたコークス製鉄法を遼が知らない筈はなかった。遼が宋の北辺で東は日本海から西は中央アジアに至る大帝国を建設したについては、その鉄の威力による所が多かったことは疑いない。遼はこの武力的優位を守るために、領内の鉄が、特に西方に向かって流出することを極度に警戒し、(・・・)隣接する蒙古部族すら、長くその箭鏃(矢)に骨角を使用せざるを得なかった。(・・・)金代になって、金はこの鉄禁を維持するに熱心でなく、そのために鉄器が蒙古族の中に流入し、蒙古人はこの鉄を用いて武器を製したので。あたかも虎が翼を得たように、また掣すべからざるに至ったのであるという。
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文明の伝染。鉄の量産技術は宋の高度な文明を成立させたが、同時にそれが蒙古に翼を与えたこととなり、却って蒙古帝国に呑みこまれることとなった。そうして元以降、その文明の精緻なるは次第に低下することとなる。著名なる染付が典型とされており、以降は「量」を貴びて紋様を次第に増殖させ、色彩は単一から過剰なる量へ。技術こそ高度であるが、文明の程度が著しく低下するのである。かくして史上最高の陶世界が失われた。現代も、技術こそ機械製の陶磁器は高度である。薄く、軽く、丈夫で、耐久性も高く、均一・均質であって、紋様も伝統的なものを踏襲することが多い。しかしその世界は明々白々に、「文明の低下」を確認させるのである。文明の高きは、力の低下を呼ぶ。それは国力の低下である。そのジレンマは文明論として宮崎氏も指摘するものである。文明は常に進化しているが、人は波の如くに進退を繰り返している。過去と現在を比する際、ともすれば現代を無条件で進歩的だと判断するが、それは技術進化の話である。人間力まで進歩したと考えるのは、現代人の我田引水ではないだろうか。

論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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