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「中国文明論集」より、陶磁史の視点 第七回

第七回。
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東洋史論:「宋代文化の一面」より抜粋・雑感。
(※元本は宮崎氏の東洋史論文集です。)

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北宋の仁宗皇帝の治世四十一年は、中国の長い歴史の中でも稀に見る太平の世の中、風は枝を鳴らさず、雨は土くれを破らずといわれるほどで、小説集に収められた恋物語など、大てい、宋は仁宗皇帝の慶歴年間に、というところから始まっている。(中略)彼らはどこまでも自由でありたかった。何者にも屈したくない。何でも自分の思うがままに振るまいたい。ところがそういう彼らを抑えつけて束縛するものがある。それは古い中国の伝統を象徴するかの如き、儒教の権威である。

いったい権威というものは生物で、だんだん成長する。古い権威があると、そこへ次第に新しい権威がつけ加わって、それがあたかも原来の権威であったかの様に威力を振るうものである。儒教の権威といっても、孔子の権威はわずかのもので、それに後から色々な権威が付加されて出来あがったものである。王安石はこの付加された権威を取り去って、純粋の権威だけを裸にしようとした。
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人民の哀しき時代は、結局は権力層が闘争によって自滅・疲弊したことで終焉を迎え、手枷・足枷から解放されて新たなる時代へと向かう。その自由への希求が、様々な活力の原動力となり、新しい太平の世を手にする事となる。その歴史は、日本で言えば戦国時代を経ての桃山時代であろうか。

>以下も引用、適宜中略
宋代家法の喪失によって起こった知識人の間の思想解放と同じ様なことが、芸術界にも現れている。それは師法の喪失からくる新気風の発生である。唐代まで書にも画にも厳格な師法というものがあった。もちろんこの師法の権威も次第に成長し変化するもので、それと共に無数に分化していくが、苟も書画の道に入るには、師について徒弟的な訓練を受けねばならなかった。云い換えれば、一度は師法という型に投げ込まれて、自分の個性を殺してしまった上で始めて一人前になるのである。ところがこんなくだらない修行はやめにして、画ならば直接自然について学ぶ、書ならばなるべく古人の筆跡を選択して学ぶというやり方が、五代の頃から始まった。画の世界ではそれが南画の成立となって現れている。

欧陽脩はいう「唐代以前の人はまた幼少の物心のつかない頃から専心に書を習わされて、年が長ずるに及んで自由の境地に達しえた。ところが今の人は晩年になってから書を学び出すので頭ばかり働いて手が動かぬ。」。唐までの書は幼少の時から師法で鍛えられた書であり、宋以後の書は、十分に目が肥え、書に対する興味を覚えてから習い出した書である。前者はいわば書家の書であり、後者はいわば素人の芸である。どちらがいいかはにわかに断言出来ないが、腕から入って目の開けた書は完成しすぎて面白くない。目が肥えてから習い出した書は、技は未熟だがその素人くさい初心なところがかえって面白いという見方も成り立つ。そこには多分に個性が生かされているからである。『続書譜』にも、書は古人を学ぶと共に、「時に新意を出せ」とつけ加えることを忘れない。宋人の書で現今までも尊重されているのは有名な詩人、従って強い個性の持主の書が多い。

運筆の法についても宋人は型に拘泥しない。蘇東坡は「筆の持ち方はどうでもいい。要するにいい字が書ければそれでいいんだ」といって肘を机につけたまま書いていたという。それよりは道具を精選する方が大事だ。あたかも宋代にはこの要求に応じて地方地方に固有の特産品が現れた。曰く、湖州の筆墨、宣州の紙、端州の硯、これも各地の個性を活かして大量的に優秀な小品を提供したものといえる。

権威に反抗しようとした宋代自身がかえって新しい権威をもたされて後世に圧力を加えるようになった。いずれの時代もそうであろうが、特に1つの革新期に当たる宋代は、後世に及ぼした影響を通じてばかり眺めてはならない。
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地方の特産。脅威的なことであるが、凄絶なる宋磁の産地も一箇所ではなく、各地方から独特の、それも歴史的に超一流の産物が同時多発的に生産されている。これは日本に於ける桃山時代も同じことである。師を持たない人々の、自由なる作品群を指して、後世にして芸術と呼称されているが、当時で言えば「新意の在るもの」ということである。

その核心というものは、王安石が永年に渡って膨張した孔子の付属権威を取り払った如き思想。純粋なものを原典として精選して、それを出発点とする作法である。常に自然を、常に史上最高の物を師とするコト。宋の至高芸術作品も、その様にして産まれたという歴史を持つ。「幼少から鍛えられた玄人芸」や「著名な師の劣化コピー」から解放された世界の産物。桃山時代とて、その作り手は戦乱と飢餓に苦しんだ人々であって、幼少より作陶術に専念出来るわけもなく、農業や剣術の稽古こそが生存に必須なる仕事だった人々である。長次郎だって、作陶に入るのは壮年となってからであり、瓦職人であったもの。昨今の昭和の巨匠に於いても、驚くほどに全員が師を持たず、独自の境地から切り開いたものばかりである。歴史教養に優れた魯山人など、上記と同じことを信条として作陶したことが知られている。ただ新しく自由であればOK、というものではない。 私は個人的に魯氏の作陶理論に共鳴するが、その底本は宋代の思想を踏まえているのである。

また、自由精神が権威となってしまってはダメである。また自由といっても、「際限無き自由」に在っては現実と乖離して「自堕落」と化す。常に原点に帰る。それが核心の原動力ということであろう。枝葉に拘泥してはならない。「自由」が「自由という権威」に変貌した時、「自由」という名の「不自由」となる。「自由」や「個性」という名の下に奴隷となっては、もはや自由精神は名目的・表層的な言葉遊びとなり、その本質は権威主義・保守主義と何も変わらない。振りかえって現代。自由を謳いあげた昭和期を経て、現在は「自由という名の不自由」に陥っている様に感じる。自由であるという「権威」を振り回している、個人主義・自由主義が「侵されざる権威」として、人々の間に暴威を奮ってはいないだろうか。

「古人の跡を求めず、古人の求むる処を求めよ。」

繰り返し核心として叫ばれてきたものは、常に芯となる精神。形式に陥るというのは、常に枝葉にコダワルということである。湖州の筆墨、宣州の紙、端州の硯。それを最上とした瞬間に、それは権威主義へと転化する。新しき筆墨の産地を「殺す」のである。道の言葉で言えば「慢心」であろうか。それは「停滞」の始まりであり、人々が哀しき時代へと向かう「折り返し地点」となるのである。上り調子の時代には、人々は権威に任せ、頼り、権威を信奉すればよい。しかし、下り調子の時には、それは権威主義・停滞の促進となる。「上り坂の儒家、下り坂の老荘」と云う様に、その原点の心は戦国時代の思想家こそが肝要なるものとなる。必然として、唐代に至る下り坂の仏教時代を転換した宋王朝は、正に上り坂として朱子学を発達させることになります。

「中国文明論集」より、陶磁史の視点 第六回

第六回。
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東洋史論:「六朝隋唐の時代」より抜粋・雑感。
(※元本は宮崎氏の東洋史論文集です。)

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悲劇が起こるには、それが起こりうる社会的背景がある。みんなが欲張りで、権勢にあこがれる。上部の権力に対しては、ひたすらおもねればおもねるほど、今度は下層に対しては自己の権力を笠にきて威圧しに出る。後漢の時代は名節が尊ばれたなどというのは、大きな空言で、口では綺麗なことを言っている間に、実質は止め処ないまでに堕落していったのである。この間に立って、善良な気の良い人間は生きていけない。運の悪い者はずんずん落伍してしまうのだ。それというのも、この時代から、世情が過酷なまでにきびしく、一度社会的な地位を失えば、二度と取り返せない。駆け落ちしても暮らしていける場所がない、最後的な悲劇を生み出す原因が至るところに充満してきたからである。詩人はいったい気が弱い。いな、気が弱いからこそ詩など作るのだ。従ってこの時代の詩に哀調が多いのも当然である。(中略)これが王者の詩かと疑いたくなる底のものである。救いようの無い絶望感をこめた詩は唐代まで続く。有名な白楽天の「折臂翁」の詩がそれを代表する。(中略)生に執着する強気の人間でなければ生存を続けられない時代であった。それは単に悪い時代というだけではない。前よりも絶えず悪くなり続ける時代であったのだ。
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何だか現代の話の様であるが、1000年以上も前の歴史の話。論文が書かれた時代とて戦後復興期である。現代とて、職に執着しなければ職もなく、金銭をしっかりと求めなければ十分な収入を得る事は出来ない。気を抜いて人生を歩むには、とても厳しい時代である。そしてまた、”前よりも絶えず悪くなり続ける時代”が続いている。いや、まだ時代という程の年月は過ぎていないかもしれない。しかし宮崎歴史観に依れば、その周期は後漢を頂上として唐末まで、500年もの長きに渡って悪く、哀しい時代へと転がり続けたのである。時代の流転というものが十年や二十年の短期ばかりではないことに、戦慄するばかりである。

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現実の歴史には、どこまで古い時代へ遡っても、王道楽土の黄金時代などはなかったであろう。しかし概して住み好かった時代と、誠にもって住みにくい時代との区別はある。そして一概に古い時代ほど住みにくく、時代が下がるに従って住みよくなったともいえない。(中略)中国史上、人権の尊重された時代などはなかったといってしまえばそれまでだが、しかしその中においても、自ずから程度の差というものがある。(中略)後漢末の董卓の乱が始まって以来、中国の内部は戦乱に明け暮れする、兵馬倥偬の時代となった。それは時には異民族と異民族の戦争であり、時に異民族と中国人との戦争であり、時に中国人と中国人との戦争であったが、戦争である点に変わりはなく、人民は塗炭の苦しみに陥った。しかも単に戦争の傍杖に苦しんだばかりでなく、戦争をしなければならない立場にある政府からの重圧に苦しんだのである。人民は常時戒厳令下におかれ、政府の戦争目的の犠牲となって、次第にその権利を無視されてきたのである。
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「戦争」を「経済戦争」と読み換えれば、これも現代そのものであろう。中国産に対抗する国内産業、中国に拠点を置いて国内産業に対峙する国内間の競争、安い中国産と安い台湾産のせめぎ合い。TPPも同じことだろうか。日本という国を云々するコトは大切だが、その大義名分の元に苦しむのは、社長や政治家ではなく、常に国民である。如何なる理由や大義を掲げた所で、それによって人民の苦しみは軽減されるものではない。経済云々の犠牲としての派遣という雇用形態にしてもそうだが、止むを得ないとしても、しかし苦しむのは常に大衆である。住みよい時代と、住みにくい時代。後漢から唐朝に向かっても科学は進歩し、政治も巧くなっていった。しかし、それと人々の苦しみ、哀しみというものは無関係な変動を辿っていた。科学が進歩するのに、人々はより哀しい、住みにくい時代へと転がり落ちて行く。

子供の頃は、科学の進歩こそが夢を開くかの様に教育されたものである。しかし戦後の歴史研究大家にして、そんな絵空事が通じる様に歴史が出来ていない事が指摘されていた。器も同じく、如何に技術が進歩したとしても、夢の様な器は一向に登場する気配が無い。いや、むしろ技術の進歩と共に、その本質は退化さえしているかに感じる程である。経済を優先したことで、機械製の怜悧なる器に彩られる結果に堕ちて来たのが現代の食卓である。科学の進歩、携帯電話や電気自動車で人々が幸せになるなどというのは絵空事だ。それは、我々も身を以て体験しているのである。科学の歴史で云えば現代は大躍進であるかもしれない。しかし、人民の歴史で言えば哀しい時代である。それは、「唐朝の輝かしい王朝史と、唐朝の哀しき人民史との乖離」を指摘した宮崎論の様に、しっかりと指摘されるべきものだ。

人民の苦しみが転がり堕ちた底の時代、唐末。人々の哀愁は仏教の流行を呼び込み、禅の成立へと繋がる。人々は唐の滅亡と共に再び自由なる時代を取り戻し、芸術においても世界最高峰の宋磁を獲得するに至るのである。茶道の原型が形成された時代。真なる革新、「住みよき時代」とは。

「中国文明論集」より、陶磁史の視点 第五回

九月以来の第五回。
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東洋史論:「周漢文化の基盤」より抜粋・雑感。
(※元本は宮崎氏の東洋史論文集です。)

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市とは原来、小品を倍々するための特定の地区であるが、漢頃までは、市は単に買物籠をさげて必要な物資を買い求めて用がすめばさっさと帰る事務的な昨日を果たすばかりでなく、同時に人民の遊びの場であり、盛大な社交場であったのである。朝はやく市の門が開くと都民はどっと市に市になだれこみ、夕方市の門が閉じるまでぶらぶらして時間をつぶすのである。戦国時代の有名な剣客の荊軻(ケイカ)が酒に酔いつぶれ、友人に琵琶をひかせて歌ったり泣いたりしたのは燕国の市である。秦の呂不韋がその編纂した『呂氏春秋』を展示して一字を改める者には千金を与えようと懸賞したのは咸陽の市の門であり、後漢の王允が本屋で立ち読みしては勉強したのは洛陽の市である。こういう市の中でもひまつぶしに適したのは酒屋、肉屋、それに易者の店であったらしく特に易者の所ではやや高級な学問的な団論が交されたであろう。

市は開放的な社交場であるが、都市国家には別に封建的な社交場があって、それは祭祀の場所である。(中略)同時に政治の場でもあった。いわゆる祭政一致であって、国家の大事件を決定するには占卜を行い、戦争に勝てば宗廟に犠牲をあ下げて保護の恩を謝するのである。
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”文化”とは何だろうか。上記は古い時代、二千年も昔の市場の話であるが、人の感覚というものは、それほどに変わっていないのであろう。少なくとも、昭和頃の商店街などには、こういった風情があったかに想像することが出来る。現代式にはインターネット上の世界にて、様々な議論が交わされる。宮崎市定氏の歴史観に依れば、中国の停滞は「封建的な社交場」が、「自由なる市」を圧迫し、「宮廷」という社交場こそが全ての言論を統率することに依って始まるのである、と論じている。

言論の自由を云い、唱える事は容易である。しかし、そも言論自由の歴史とは何か、と問うた時、何か官憲と人民の関係を想像する人が多いかもしれないが、歴史観的に云えば、言論の統率権限にも焦点が来る。封建的な社交場とは、現代で云えば政治であろうし、マスコミであろう。少数の人選を行って、彼らに言論を統率させる。しかし、昔の様に、手間や無駄が多いとしても、本当の意味で大勢が寄り集まって論壇を繰り返す中で産まれるもの。孔子を筆頭とする極めて洗練された高度な思想。諸子百家の思想が産まれた時代背景は後者であり、各国の市場を代表する論者として台頭するもの。そこに、各国の王が時に信認を与え、抜擢を行った結果、彼らの思想が現代に受け継がれ、読み継がれているのである。

宮廷社交場とは、今で云う政治やマスコミ、偉い人。つまり、全員参加では無く、特定の者が言論を決定するという方式。それが、自由なる市を圧倒する環境を作ってしまった場合、宮崎論曰く、「人民は自由人たる誇りと自覚を失い、皇帝の臣民であるという卑屈な態度を植え付けられて、ここに中国は中世的な停滞が始まるのである」と断じている。

政治の停滞、経済の停滞、文化の停滞。もちろん、歴史論としては「400年に渡る圧迫の末に成立したもの」であるからして、非常に長大な事象の話である。一部の精鋭が全てを統率するという仕組みも、当初は良いとして、永年継続すれば問題が生じる。栄華なる手法は、いつまでも栄華なる手法では無いという、伝統にも通じる思想。400年の長期王朝というものは稀有な歴史であるが、それ以降に顕著なる思想家は出て来ない。あくまで宮廷社交場の中の思想家輩出であり、百家争鳴という時代が再び訪れる事が無くなってしまったのである。

まぁ云えば。昭和期に於ける百家争鳴の陶芸家黎明期に対し、日展や工芸会など政治の関わる無形文化財や文化勲章に率いられた陶芸界の時代に入ってしまうと、何か著名な作家の子息子弟、特定者の推薦が重要になり、百家争鳴という時代が失われたとみる事が出来る。桃山時代以後の、江戸時代における茶陶なども似たようなもので、自由なる桃山時代に対し、遠州七窯になればもう、随分と画一的になっている。

こういった「停滞」というものも、歴史論的に見れば当然の流れであろうか。人々の上に立つ者。帝王学の必須教養として「歴史教養」が挙げられるのは当然であるが、「暗記」や、「面白い伝記」ばかりを追う中では、難しい話だろう。停滞を見透かし、革新を進めてこその伝統の旗手であろうけれど、薄っぺらい革新論や停滞論は、全く「書生論」であろうか。とかく、「新しいもの=革新」、「旧来のもの=停滞」という観念的な書生議論は白紙にしなければならない。歴史的に見て、革新を掲げた大半が失敗の歴史を経験している。「革新」というものが非常に難解であることを、まずは胆に銘じるべきであろうか。そして同時に、「難しき革新」を行うには経験も必要であろう。利休の茶道革新が60歳以降であったとしても、それ以前に革新について試行錯誤が在ったであろうコトは当然だろう。60歳になれば突然に能力が上昇する筈も無いし、突然に茶碗が巧くなったりするものでは無い。

停滞の判断。革新も勉強無しには成りませんね。
何の努力もなしで成功ってのは虫が良いもの。

歴史を鑑として現代を見てみると、色々なコトを想います。


以上まで。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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