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岡倉天心「茶の本」に見る思想5 「第四章」より

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第四章「茶室」

元より茶道について紹介する書籍であるが、第一章で茶道の本質を、二章で歴史、三章でその目的とする精神性を紹介した上で、ようやく具体的な各論に入って来る。「形質というものが本質では無い」という茶道の立脚する位置を呈しているというものであろうか。西洋人の興味を引くようなもの、即ち着物に代表されるエキゾチックな東洋神秘の紹介に陥らなかった辺り、さすがのものだと感じ入る。

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石造や煉瓦作りの建築の伝統によって育てられた欧州建築家の目には、木材や竹を用いるわが日本式建築法は建築としての部類に入れる価値はほとんどない様に思われる。(中略)茶室(数寄屋)は単なる小屋で、それ以外のものをてらうものではない、いわゆる茅屋に過ぎない。(中略)それは「不完全崇拝」にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させるからには「数寄屋」である。(中略)今日、日本の普通の家屋の内部はその装飾の配合が極端に簡素なため、外国人にはほとんど没趣味なものに見える。
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建築1つを取っても、ここ半世紀の内に日本も西洋化してしまったと云える。それ以前は木造建築、見事な赤松の梁が姿を魅せた建築が、全く日本のどこに在っても、それこそ馬小屋や牛小屋であってさえ見られたものであり、当然に地元の材木を中心に用いていた。だからまぁ云えば、和風建築に対する一般の人々の感慨も、「金銭価値を想像するが結果の称賛」であったりするものだ。用材のことなどは、全く論外ということで、無理解なものとなってしまっている。現代、一般の人々が和風建築を見る目は、憧れというようなものであろうか。一種の異文化体験的な快感で以て観ている面があるのかもしれない。

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茶室は見たところ何の印象も与えない。それは日本のいちばん狭い家よりも狭い。それにその建築に用いられている材用は、清貧を想わせるように出来ている。しかしこれは全て、深遠な芸術的配慮の結果であって、細部に至るまで、立派な宮殿寺院を建てるに費やす以上の周到な注意をもって細工が施されているということを忘れてはならない。
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柳理論の云う処の「民藝的簡素」と、茶の云う「清貧思想」の差異であろう。馬小屋の様に茶室を作ったとすれば、やはり馬小屋なのである。飯椀を造ったら、やはり飯椀なのである。一見すれば「丼鉢」であるものが、実は精魂込められた「茶碗」であるという様な辺りに似ている。井戸茶碗にしても、多大なる数量を挽いた中から、「唯一絶対的に美しいもの1つ」を採り上げている。簡素であるが、非常に精緻な結果であり、非常なる労力が払われている。竹1つにしても、竹自体は粗雑なものかもしれないが、原料を吟味するのは大変な労力であるし、それを効果的に用いるには非常なる感覚が要求されるのである。粗雑を粗雑のままに用いるのが民藝、粗雑に精緻なる美を持ちこむのが茶道かと判じているのだが、どうだろうか。少なくとも「周到な細工」というのが、「絢爛豪華たる平等院のような様式美」ではなく、寧ろその対極であることは云うまでも無い。

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茶の湯の基をなしたものは他ではない、菩薩達磨の像の前で同じ碗から次々に茶を飲むという禅僧たちの始めた儀式であったということは既に述べたとおりである。が、さらにここに付言してよかろうと思われることは、禅院の仏壇は、床の間ー絵や花を置いて客を教化する日本間の上座ーの原型であったということである。わが国の偉い茶人は皆、禅を修めた人であった。そして禅の精神を現実生活の中へ入れようと企てた。こういうわけで、茶室は茶の湯の他の設備と同様に禅の教義を多く反映している。正統の茶室の広さは四畳半で、維摩の経文の一節によって定められている。
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物事の根本は本質。およそ本質さえ外していなければ、形質は時代と共に変質をしていくものであるが、本質だけは不変を固守しなければ換骨奪胎して別のものとなってしまう。伝統の時代に沿いたる変化というものは、およそそういったものである。即ち、各家庭はともかくとして、少なくとも「茶室という茶道の場」を自称するならば、「床の間は仏壇であり教化の場である」というものが本質になる。床の間たる仏壇は、小さくなっても、場所が変わってもよいだろうけれど、仏壇は仏壇でなければならず、また「善徳」の象徴である「仏」が存在しなければならない。時にそれは自然草花に代替され、高僧の掛軸など禅語に代替される。「仏」を「徳」と置き換えれば、それは自然美を礼讃することにも代替されていく。しかし「仏像」を「美術品」と扱ってのオブジェ代替などというのは換骨奪胎である。茶の「基」、「本質」が何かというのは、最も基本的なことになるから心しておかねばならない。

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「庭石は三度洗い石灯籠や庭木にはよく水を撒き、苔は生き生きした緑色に輝いています。地面には小枝一本も木の葉一枚もありません。」 「馬鹿もの、露地の掃除はそんなふうにするものではない。」と云って利休は叱った。利休は庭に降り立ち一樹を揺すって、庭一面に、秋の錦、黄金の木の葉を散り敷かせた。利休の求めたものは清潔のみではなくて美と自然とであった。
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清潔の更に上。「清浄とは何か」という事を考えさせられる。他に例を採れば、極めて普通の事を云っていることが分かるのかもしれない。魯氏の云う「美食」とは、「おいしい」(味)だけではなく、器との一体感や演出などの美しさを兼ね備えてこそ、最も「美味しい」、即ち「美味」というものに至る。では最高に美味しいものを提供するのに、汎用的であるからと云って白い磁器ばかりを用いるというのは、相対的には「一種の手抜き」と判じる事が出来る。同じく、露地を清浄にするという事も、「清潔にすること」に加えて「自然美による精神的な浄化感」というものを加えて「清浄」となる。なんとも、漢字というものは実に精妙に出来ているものだが、我々凡人は簡単に見落としてしまう。目に見えているものが、見えていない。これを目暗(メクラ)という。 判っていても墜ちる穴。難しいものだ。

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人はいろいろな音楽を同時に聴くことは出来ぬ。美しいものの真の理解は中心点に注意を集中することによってのみ出来る。かくのごとく、わが茶室の装飾法は、現今西洋に行われている装飾法、すなわち屋内がしばしば博物館に変わっている様な装飾法とは趣を異にしていることがわかるだろう。(中略)、(西洋的装飾法は)単に俗な富を誇示しているに過ぎない感を与える。一個の傑作品でも、絶えず眺めて楽しむには多大な観賞力を要する。してみれば欧米の家庭にしばしば見るような色彩混沌たる間に毎日毎日生きている人達の風雅な心はさぞかし際限もなく深いものであろう。
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皮肉屋となっている文章。だがこれは、当時の日本に対する皮肉でもあっただろう。道具茶の時代、西洋建築の盛んな時代であって、日本建築の捨てられし時代。ずらりと並べ立てた宝物。美術品に囲まれて育ったからと云って、美術の申し子となるとは限らない。美術画廊、美術館など、毎日を美術品に囲まれている人々だって、意外な程に何も知らない場合がある。親の茶道具だって、簡単に投げ売られて行く。美術品というのは、観賞力が無い者にとってみればガラクタに等しい。単なる換金価値、即ち「札束を並べて悦に入るが如し」と云われても止むを得ないだろう。云うまでも無く観賞力とは即ち人間能力であるからして、磨かなければ育つものではない。 そこが難しい。

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今日は工業主義のために真の風流を楽しむことは世界至るところで、益々困難になっていく。我々は今までよりも一層、茶室を必要とするのではなかろうか。
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飛行機が開発され、鉄道が敷かれ、車が交錯し、電話が通じる。全ては工業主義というものであるが、その潮流は二度に渡る世界大戦で加速され、圧倒的な主流として君臨している。現代となっては、柱一本、窓一枚、服一枚に靴一足、茶碗1つに箸、料理の燃料から保存まで、全ては工業製品の世界である。均整の世界。風流に欠けたものである。しかしこうなってしまっては、そも風流という概念さえ、「忙しきビジネスの世界」によって、「必要性を想う暇も無い」ようになっているのではないだろうか。 今は茶室よりも「茶」が必要な時代と判じてみたい。


以上、第四章「茶室」より抜粋・雑感まで。

岡倉天心「茶の本」に見る思想4 「第三章」より

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第三章「道教と禅道」

何気なく設定されている章題であるが、茶道の正体としての道教・禅道を説いている。道教と禅道ともに難解である事でも知られているが、酷似というよりも、そも禅道は道教・仏教・儒教の混合体である事を知らなければならず、様々な歴史的背景を踏まえておく必要がある。禅仏教が中国で創始されていく時代は唐宋の時代。栄枯の波も激しく、時に権力が目まぐるしく交代し、時に中国が南北二つに割れた時代。儒教という道徳も危うく、道教という精神的強靭さが見直され、仏教という名の下に人々は信仰を頼った時代。宗教のみならず、陶芸や詩文を始めとした芸術・文化に於いても、人類史上屈指の精彩を誇るものを産み出した時代。その時代の宗教こそ、道教の仮の姿である茶道を内包した禅道である。

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茶と禅の関係は世間周知のことである。茶の湯は禅の儀式の発達したものであるということは既に述べたところであるが、道教の始祖老子の名もまた茶の沿革と密接な関係がある。風俗習慣の起源に関するシナの教科書に、客に茶を供するの礼は老子の高弟関尹に始まり、函谷関で「老哲人」にまず一盌の金色の仙薬を捧げたと書いてある。
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現代的な視点で云えば、日本における神々「仙人」という感覚というものは道教であろう。そういった意味で現代としては語られる処の少ないというか、何か胡乱な宗教の如くに軽蔑する向きもあろうかと思う。例えば劉邦の名軍師として知られる張良は神仙思想により水銀を過剰に飲用していたとか、そういった非化学的な話もある。茶の湯の儀式も同じく、宗教性が感じられるというか、どうにもその「儀式性」を、「感覚的に忌避」する人が多いのではないか、と思う。しかし、如何に宗教色を薄めたとしても、その源流が「禅の儀式」であり、「一座の建立」という事も難しいのだから、あまり欺瞞を用いるのも如何なものかと思う。堂々と「茶と禅の関係」を前面に出してよいのではなかろうか。座禅体験なども、大いに流行している時代である。

豆知識的なことを付属させておくと、「金色の仙薬」を捧げた場所「函谷関」というのは、中国の「内地」と「蛮族の地」の境界である著名な要害。しかし同時に、老子が「内地という俗世」を捨てて「蛮族の地」へと旅立った地でもある。1つ、茶を呈する「茶室」というものの根本に、「市中の山居」とか「俗世と切り離された空間」という概念があると聞くものであるが、その根本にある思想を示唆している様にも感じる。

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翻訳は常に反逆であって、明朝の一作家の言の如く、よくいったところでただ錦の裏を見るに過ぎぬ。縦横の糸はみなあるが色彩・意匠の精緻は見られない。が、要するに容易に説明できるところに何の大教理が存在しよう。古の聖人は決してその教えに系統を立てなかった。彼らは逆説をもってこれを述べた。というのは、半面の真理を伝えんことを恐れたからである。彼らの始め語るや愚者のごとく、終わりに聞くものをして賢ならしめた。老子みずからその奇警な言でいうに、「下士は道を聞きて大いにこれを笑う。笑わざればもって道となすに足らず。」と。
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高雅な比喩表現は中国文学の真骨頂であり知識人の教養であったわけであるが、その話ではない。要は聖人の言葉は、それ自体を引用することが精々のことであって、翻訳などをしたりする程に、言葉は「錦の裏地」として誤解を招いて行くことになる。「下士は道を聞きて大いにこれを笑う。笑わざればもって道となすに足らず。」という老子の言葉を「解説抜きで直接に引用する意義」を説いている。禅の云う「不立文字」などの源流にもなるのでしょうか。ともあれ、必ず原典に当たらなければ真理というものは見えないことが多いもの。例えば陶芸とて、「古伊賀」を見ずに、「写しモノ」を観て忠実に作ったとして、そこに真理は無いし名品も無いのである。いかに特徴・約束事を文章に並べた処で、本歌を見たことが無ければ何の意味も無く、むしろ無用な約束主義的陶器・人物を産み出すだけである。

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道教を解せんとするには多少儒教の心得がいる。この逆も同じである。
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儒教は中国のみならず東洋、もちろん日本の伝統的道徳の要である。中国は儒教を柱としているけれど、風俗には道教があり、仏教信仰がある。それは皇帝と云っても同じことで、中華皇帝の肖像を見れば数珠を下げていることに気付くだろう。即ち、日常道徳には相関的な影響が生じる。儒教・道教ともに紀元前から根付いているものであるからして、禅の発祥した12世紀の頃には深い交わりがある。江戸時代の言葉に「上り坂の儒教、下り坂の道教」と云われる様に、儒・仏・道は常に相関しており、中国のみならず、日本の信仰をも集めていた歴史がある。それは何世紀もの期間であって、数十年などという短期間の流行などとは無縁のものであった。

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世の中そのものが馬鹿馬鹿しいのに、誰がよく真面目でいられよう!と言い、商売の精神が至るところに現れている。義だ!貞節だ!などと云うが、真善の小売をして悦に入っている商売人を見よ。人はいわゆる宗教さえも購うことができる。(中略)教会からその付属物を取り去って見よ、あとに何が残るか。(中略)天国へ行く切符代の御祈祷も、立派な公民の免許状も。めいめい早く能を隠すがよい。もし本当に重宝だと世間へ知れたならば、すぐに競売に出されて最高入札者の手に落とされよう。男も女も、何ゆえにかほど自己を広告したいのか。奴隷制度の昔に起源する一種の本能に過ぎないのではないか。
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激越な宗教批判。海外の現地で、よくぞ書けた話である。戒名云々などの話は現代にもあるが敬遠しておこう。ちなみに「戒名を求めない人が偉い」という話ではない。「世の中を斜めに見て、真の善行を積まずに居る人々」、及び「真の善行が、僅かな金銭で代替出来ると考える浅薄な考え方」、及び「その浅薄な考え方に乗る商売人」、これらを批判しているのである。市井の免罪符は大衆だけが求めるもの。しかし世を知る最高権力者・中華皇帝さえもが求めたものがある。全ての付属物を取り去って在ろうとした宗教の産物である。

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儒教徒や仏教徒とは異なって、道教は浮世をこんなものだとあきらめ、この憂き世の中にも美を見いだそうと努めている。
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先の言葉を借りれば、「世の中そのものが馬鹿馬鹿しいけれど、私は真面目で居てみよう」ということになるだろうか。下り坂の道教という言葉の示すもの。俗世と茶室。憂き世と正面から向き合って、これと対決せずに居る思想体系が道教、即ち「老子哲学」であろうか。

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物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると、老子は主張した。(中略)たとえば水指の役に立つところは、水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。
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茶の点てられない茶碗を、茶碗とは云わぬ。水を受けられない水指を、水指と云わぬ。では、人はどうだろう。付属物を取り去った上で、人と云える存在であるだろうか。生きているだけでは畜生類と変わらない。人とは。「人と云える」とは。

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禅は正統の仏道の訓えとしばしば相反した。ちょうど道教が儒教と相反したように。(中略)祖師を除いて禅僧はことごとく禅林の世話に関する何か特別の仕事を課せられた。そして妙なことには、新参者には比較的軽い務めを与えられたが、非常に立派な修行を積んだ僧には比較的うるさい下賤な仕事が課せられた。こういう勤めが禅修行の一部をなしたものであって、いかなる些細な行動も絶対完全に行わなければならないのであった。こういうふうにして、庭の草をむしりながらでも、蕪を切りながらでも、御茶をくみながらでも、重要な議論が次から次へと行われた。茶道の一切の理想は、人生の些事の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものである。道教は審美的理想の基礎を与え、禅はこれを実際的なものとした。
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分かった様な気がするだけで、実際には小生のような凡夫に感得することは難しい話。そも系統も体系も無いというのが分かる程度のことであって、己のマニュアル主義的な感覚の強さを知るだけである。茶道では、例えば柄杓を置く1つの動作にさえ厳しい美を求められる。一服の茶を、呈するも、受けるも、その動作の儀式には「人生の些事の中に偉大を考える」という事を象徴しているのだろう。しかしどれもこれも、後解説であって、自己が実行するには遠いことを感じるのみである。


以上、第三章より引用・解説。

岡倉天心「茶の本」に見る思想3 「第二章」より

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第二章「茶の諸流」より

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茶は芸術品であるから、その最も気高い味を出すには名人を要する。茶にも色々ある、絵画には傑作と駄作ー概して後者ーがあると同様に。と言っても、立派な茶を点てるのにこれぞという秘法はない。ティシアン、雪村のごとき名画を作製するおに何も規則が無いのと同様に。(中略)真の美は必ず常にここに存するのである。芸術と人生のこの単純な根本的法則を、社会が認めないために、われわれはなんという損失をこうむっていることであろう。
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およそ、現代にも存在する病であろう。”軽く薄く精密なるを以て「是」とする根性”と云うのは、マニュアル式の評価方式を用いることの典型的な弊害であって、これが和陶を駄目にしてきた側面は強い。写しモノというが、形を似せても異なる結果となるのである。1つの富士を描くに、描き手によって感じ方が違うのである。全ては「選択方法」に拠るのではなく、「描き手の感性」によって選ばれているのであって、それを後付けで法則化して「美の法則」なるものを打ち立てて「分かった様なツモリ」になってしまうというのは、とても危険な事である。よく知られる処では名人でさえも陥るもので、柳宗悦氏の「民芸論」、または骨董系の「約束事」など様々にある。定型文でしかモノを評価出来ないという事だ。

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疲労を癒し、精神を爽やかにし、意思を強くし、視力をととのえる効能があるために大いに重んぜられた。ただに内服薬として服用せられたのみならず、しばしばリューマチお痛みを軽減するために、煉薬として外用薬にお用いられた。道教徒は、不死の霊薬の重要な成分たることを主張した。仏教徒は、彼等が長時間の黙想中に、睡魔予防剤ついて広くこれを服用した。
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茶が古来用いられてきた効能は薬。寝る前に濃茶を飲むと、まぁ眠れない、眠れない。化学的な事は知りませんが気分もスッキリ致します。道教と云えば不老不死の仙薬を求めたり、某ゾンビ映画など、変わったことをしている様な印象があるかもしれません。しかし元を辿れば日本の妖怪伝説など民間神話などと変わりの無いもの。今だって各地に様々な怪しい(?)式・祀り」というものが伝えられております。西洋にも似たような話はありますか。その基本は自然に対する畏怖。実際、夜中の森林などは恐ろしいものがありますし、野生の動物に感じる恐怖、樹木の強靭さなど、自然の脅威というものは、実感すれば本当に寒気のするものが多いです。そういった中から、人間の存在の小なるを感じ、自然を祀る。何とも自然な感情の流れであろうかと思うのです。人間、怖いものは怖い。科学がどうとか、御託ではありませんよね。

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仏教徒の間では、道教の教義を多く交えた南方の禅宗が苦心丹精の茶の儀式を組み立てた。僧らは菩提達磨の像の前に集まって、ただ一個の碗から聖餐のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して十五世紀における日本の茶の湯となった。
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茶道の歴史を日本史の中だけで見た場合、酒肴・遊興・賭博の茶というものを利休が革命的に変更したなどと語るものがありますが、本来の姿に立ち返れば利休は茶を「禅茶に回帰」させ、更に昇華させたと見る方が正鵠です。茶の木を持ち帰ったのも、その道具を招聘したのも、茶の姿も、元来は禅僧が持ち帰ったもので、その祖は全て中国。掛けモノや唐物の存在も、元より禅茶の創成期に用いられた茶道具を崇拝する側面があり、単なる純粋美学などとは無縁のもの。遊興・賭博の茶こそが異端であり、邪道であったわけです。

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今や茶は生の術に関する宗教である。茶は純粋と都雅を崇拝すること、すなわち主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無情の幸福を作り出す神聖な儀式を行う口実となった。茶室は寂寞たる人世の荒野における沃地であった。疲れた旅人はここに会して芸術鑑賞という共同の泉から渇をいやすことができた。(中略)その全ての背後には微妙な哲理が潜んでいた。茶道は道教の仮の姿であった。
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「下り坂の道教」と言われる様に、道教は浮世に幸福を見出す側面がある。戦国時代の混沌に発達したこと、また祖を辿れば中国が分断された宗の時代に創始されたものであることを思えば、その心が垣間見えるのかもしれない。その観点に立ってこそ、打ち捨てられた雑器に見出す破調の美があり、純朴なる器の美が存在する事になる。有名な言葉で言えば、「国破れて山河あり」という考え方である。唐王朝が打ち倒される中での言葉。不幸なる、混沌なる時代。心を修めた者が集い、互いに一服の茶を分け合って精神力を鍛え上げていく。茶室も、茶道具も、およそこの価値観で統一・調和されたものが用いられ、山河たる自然の恵みと共に一服の清涼を頂戴する。茶は「荒野の中の沃地」であり、「沃地の中の御殿」ではない。その思想は、世の混沌とした時代、また道・仏・儒の混然とした時代に生まれた「禅仏教」の思想であろう。


以上、第二章より抜粋。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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