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独学「禅のすすめ 道元のことば」より その4

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その4。

p19『典座教訓』道元より
道元”如何是文字? 如何是弁道?”
典座”一二三四五 遍界かつて蔵さず”

文字とは何か、修行とは何か。
文字は文字であり、修行でないものは何もない
~ここまで~

言葉は言葉であって、それ以上でもそれ以下でもない。
中国古来の、論語は「実践」してこそ。読むだけなら馬鹿と同じ。という教訓だ。

論語は、日本の道徳的な規範の原点であるわけだけど、
本を読んで、判ったような、出来たような顔をする人は多い。

理想的な人格「君子」の実践というのは、とても重くて。
分かったような顔をするくらいが、関の山だったりする。

でもそれって、読むだけのバカと同じ。
そう、論語は言っている。

分かったような顔をして語ることは、傲慢だ。
実践出来ていないのに、知識だけで偉そうにする行為は虚勢だ。
それで、さも実践しているかの様に虚勢に虚勢を重ねていく。
これを「小人の行い」と、論語は云う。

分かったような顔をしなくてもいい。
無理をして自分を「君子」にしても、実践の重さで潰れてしまう。
実際に、私は自分で自分を潰してしまったのだ。

出来ることを、自分の範囲で、日々実践する。
偉そうに、理想ぶる必要なんか、どこにもない。

1つ、自分への教訓として忘れないでおきたいのは。
高所から物を申している時点で、論語の「道」からは遠い人だ。

色々な、高名な作家を巡り歩いたことがあるけれど。
語っている言葉と、その実践に大きな差があることは、悲しい。
その落差が大きければ大きい程に、その姿は醜い。

それを、ここ数年、実感した。
やってみて、分かった。

分かったことは、論語に書いてあった。
やっと論語の意味が、1つ、分かった。

それで、自分の居る世界が、見えるようになった。

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論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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