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偽物と本物

最近少しはニュースを見る余裕があるので見ていたのですが、食品の偽物が云々と、少し前から騒がれているというか、ある意味では今更という感もあるニュースでしょうか。報道しているマスコミも、随分と偽装に長けている側面がありますから、はてさて。

陶器も。随分前に書いたと思いますが、偽物というか、偽装というか、そういうものが多い。初耳の人はビックリすることが多いわけですが、根本的には販売している販売店から百貨店までが「あたかも伝統品の如く」に売ってきたわけですから、知らぬ人の多さと云えば、なんとも情けない限りというのが現実。工芸品を取材したようなテレビ番組も知れたものが多い。作っている作家も、頓着せずに「そんなものだ」と考えている節さえある。

昔はすべてが本物だった、というわけでもないですが。今の時代が、現実的には「偽装無しに商売が成立しない」と云う状態に転落しているのは確かであろうかと思います。若い作家も、その多くが「どうやって良いものを作るか」よりも「どうやって宣伝するか」が重要であることを認識して、実際に行動しています。マスコミとの繋がり、雑誌社への売り込み、イベント、フェイスブック。少し昔であれば「そんな時間があればロクロでも挽いてろ!」という様な時代があり、実際に良いものを作ることが売上に繋がる様な時代も、そう遠くない昔に在ったわけですが、現代はそれを許しません。

私はあくまで外野なのですが。信楽も随分と宣伝やイベントに力を入れている様で、その努力は大したものであろうかと想像されるもの。低迷する売上の底支えとして大いに役立っていることであろうかと思うのです。今は機械製の量産品しか売れません。ホテルや料亭の食器なども基本的には「上質な機械製品」であり、作家の品は無縁です。根本的に需要が無いというか、手工業の価格は完全に機械製品のコストに打ち負かされてしまっています。

そういった中で。宣伝やイベントというのは、言い方は悪いですが、印象操作によって売上を引き上げる手段。作品をアートだの芸術品だのと持ち上げるのも同じ。マスコミはすぐに「アート作品に出会う」とか「日常生活に芸術を」などと云うが、そういう類のもの。実際にマスコミに取り上げられると売上は相当に上がる。

しかし。ちょっと考えてほしい。「品物は同じであるにも関わらず価格を釣り上げる」というのは商業的には良いかもしれないが、職人的には否定されてきた行為。人間国宝になるだけで10倍の価格になるというのは、商業的、他人事的には理解出来るが、道義的には褒められたものではない。そういった感覚は若い作家程に多いと感じられたものであるが、同じ人々が「根底の同一である手法」に頼っていることには違和感がある。広告で売れる。それに惑わされて、作品で勝負するべきというような純粋な感覚はどこかへ行ってしまったのか。産地の改革に最も必要な純粋な感覚は、簡単に現実に打ち負かされてしまったのでしょうか。

実際。基本職人というのは稼業的に貧乏に属するものですから、売上に囚われて人格を損なう人は少なくありません。特に職人師弟関係の喪失してしまった現在では、それを是正したり、指針を示す人も不在であることが多いもの。道義を大事にした職人の心意気というものは、むしろ古臭いものとして敬遠される。しかし一方で職人魂などと広告する。芸術でもなんでもないものを、「芸術市」などと称する。アートとは何ぞという勉強もせずに「アート」「アート」と連呼する。内実と宣伝の乖離。

やり口が非常にマスコミ的。ネットになっただけで、それを次世代への改革と考える節さえあるわけですが、昭和の時代にマスコミ宣伝で大量販売をした古臭い手法に他ならないわけです。いわば現在ニュースになっている、偽装。中身に芸術などなく、アートなども無いのに、これを「芸術」だの「アート」だのと言い張る。心意気なども知らず、伝統も踏まえていないのに「伝統」を高らかに謳い上げる。

私はあまり信楽の街に近寄らない。

信楽の素晴らしさ。自然雄大なる、土そのものの魅力を最大限に引き出した焼物こそが信楽焼。釉薬という衣装を持たず、表も裏もなく、土のままの姿で、ありのままに、石をもそのままに、水の漏れるをも気にせずに、ドッシリと構えた姿こそが信楽の本領なのである。

一方で現実の街並みはどうか。

販売店の旗、旗、旗。イベントの旗、旗、旗。プレハブ倉庫が立ち並ぶ街。その中に並ぶ御土産用の偽信楽焼。窯元直営だろうが、陶器卸だろうが、販売店の品は、信楽焼でもなんでもない焼物が95%~100%。1つも信楽焼の無い店さえ見ることが可能な街並み。伝産マークに見せかけた「金色の信楽焼シール」が貼られた、単なる「信楽産」の品々。「信楽で作られているものが信楽焼」と云う。その内実は、他産地で売り上げのよいものをコピーして、コピーされて、受賞した作家作品の劣化量産品を作り、土も信楽産でも何でもないものを使っている。

いや、何も信楽だけがこういった状態というわけではないが、
他の焼物産地に伝統回帰が見られるのに比較して、信楽は堕落最先端を走る産地である。

作家市1つでもそうだ。100人の作家が集まっても、焼き締め茶陶は1店のみ。
他は茶味の無い、芸術的な方向性の水指が少しある程度。広く見て2~3店。
ウチもそうだが。基本的に原価無視で出店している。釉薬品の方が売れるからね。

一般客は増えるかもしれない。売上も増えるかもしれない。しかし、信楽焼のファンは街を訪れる度に失望するだろう。実際に作家市についても、年々と焼き締めを楽しみに来る人が減少している。以前は一日中焼き締めの陶芸談義をしたくらいに信楽焼のファンが来ていたものであるが、年を重ねるほどに少なくなっている。では、このまま信楽の宣伝を進めて、この街の未来はどうなっていくのか。

量産品では美濃に太刀打ちできない。小さな無個性な産地が個性・特産品を認識してもらうのに必死になっている一方、自らそれを放棄しつつ、しかし表向きには「信楽焼」を喧伝している一大産地がある。「信楽焼=粉引」というような、およそ信じられないような愚策の向きさえある。そうして、不幸なことにそれが功を奏して成功している様な節さえある。その成功が、更なる伝統放棄を加速させていく。

この街は、「信楽焼」から何1つとして学んでいない。

一体どこに温故知新があるのか。新時代の信楽焼があるのか。どこに素朴があり、伝統があり、山中の陶家があるのか。誇張と華美を追い求め、ピカピカに光らせたタヌキを設置する。そういった欲望でバブルの時代に出来上がった街。それが、欲望そのままに寂れてきた街並み。広告宣伝で新しい時代を築こうとする若者の動き。伝えられたものは「商魂」なのか。

おそらくは信楽に限った話ではない。他産地も、すでに潰れた産地も、また陶芸にかかわらず色々な産地でも、同じような動きを見るような気がする。小さな村の「村興し」にしても、広告やイベントを主体にしていることが多い。観光バスの誘致。村自体を活性化するのではなく、観光バスの停留所を作って観光地化するのが「村興し」なのでしょうか。若者の流出を止められなければ観光バスだけが来ても仕方がない。足元から考えられた企画と云うのは非常に難しいものであるが、難しいだけに、安易な発想だけを先行させてしまっているのではないか。


先日の運動会にて、米作りに参加しないか?という誘いを頂いた。
私の住む集落は、草刈り1つにしても綺麗なものだ。丁寧な仕事が村の景観を維持している。

古来、日本伝統の基礎は稲作農業であるだけに。基礎感覚の勉強をさせて頂くのも大きいのでは?と思いつつ。基礎の大切さ。とはいえ時間的なものもありますので思案すべきも多く。

昨日はそんな思案事の日を過ごしておりました。

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論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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