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老子読解 その四

老子読解 その四。

とても歩みが遅いのですが、少しづつでも勉強を。 時々禅語的?な言葉もあり、雑感を書くのに困ることが在ります。それはそれで未熟ながらに。

「帰根第十六」より抜粋雑感。
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根に帰るを静と曰い、是を復命と謂う
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通釈より「万物は生じても、全てはやがて、根源である道に復帰していく。」という話であるとか。工藝にせよ茶道にせよ、伝統というものには色々な横道や邪道というものが出て来るわけだが、大きな流れを見て行けば、自ずと収束する方向は定まっていて、無用なものはやがて失われるのが原則。「根に帰らない者」というのは、「横道に逸れる者」や「根を持たない者」という辺りでしょうか。およそ何事も突き詰めていけば原則・基礎というものは不可欠。例えば茶道では「利休に帰るべし」という事が原則となるだろう。根が枯れない限りに於いて伝統は持続可能であるが、根が腐ってしまえばこれも不可能になる。帰るべき場所、基本原則とはとても大切なものだ。


「淳風第十七」より抜粋雑感。
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太上は下之有るを知るのみ。
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通釈「最も理想的な君主というものは、人民はその存在を意識せず、特別に有難いとも思っておらず、民の平穏をも自らの手柄であると思っている。」という辺り。日頃、ついつい馴れてしまうとわからない有難味というものが各所に在る。空気や水、太陽の光、大気の流れ、雲の降らせる雨などなど。また茶道具の名品についても、例えば井戸茶碗など、全く多くの普通の人々は、これを特別な美と感じる様なものでもないし、それで一盌を頂いたとしても特別に有難いとも思わない。そういった一盌で頂いた僥倖も、亭主の心配りではなく、自分の幸運として受け取っていまう事さえあるだろうか。解らない人には解らないもの。長次郎なども同じく、また軸や茶杓なども同じく。これを「お高く止まって身内だけで楽しんでいるだけ」などという批判も、昔から跡を絶たないのかもしれないが、「文化は大衆に理解されなければならない」などという思想は、時に硬直的で低俗な思想でしか無い事も在る。「最上の在り方」として「太陽」を神格化し、「人格の理想」として学ぶ姿勢。古来万国に共通するものだろうか。

「俗薄第十八」より抜粋雑感。
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大道廃れて仁義有り。
智恵出でて大偽有り。
六親和せずして孝慈有り。
国家昏乱して忠臣有り。
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何か現代社会の姿に通じるものかと感じます。通釈より、「理想の世界では仁義が取り立てて誉められることは無い。智恵先行で酷い詐術が行われ、親族が喧嘩をするから孝行者という言葉が出て来る。国家が混乱しているから忠臣の存在が際立つのであり、元よりそれは理想の姿ではない。」という意味の話。器にしてもそうであるが、「絢爛豪華な京焼」が、「地味で素朴な器」に対して「上の格を占めるコトは無い」のが茶道である。無事是貴人などなど、この方面の示唆を感じる言葉は多く見るように感じる。理想的な存在は、その存在を感じさせないし、特別に喧伝したり、目立つような仕掛けをしたりもしない。そういうものは、「道徳」の語源たるこの書に於いて「俗薄」と批判されている。現代の器がとかく「俗薄」という批判を聞くことが在るが、智恵を立て、華美を飾り、喧伝に終始するのでは、何とも批判を免れることは出来ないのだろう。「そんな地味な器じゃ楽しく無いよ!」などという批判が、どれほどに心無いもの、老子道徳の言葉を借りれば「俗薄」であるかという話。


「還淳第十九」より抜粋雑感。
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素を見わし朴を抱き、私を少なくして欲を寡なくせよ。
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通釈より「金持ちになろうという思想が盗賊を発生させているのである。道徳に関する議論を紛糾させるよりも、ただ素朴・純朴に生活することが理想世界へ還る道である。」という話。欲望が文明の発達を加速させる側面もあろうけれど、それよりも人間の在るべき姿を守る点を優先する世界だろうか。現代はとかく「金持ちを目指せ」という思想であり、さて経済成長率や競争に勝利する事を目標にしているわけである。どうだろうか。50年や百年前と比較して、現代はどれほどに欲望を刺激する文言や虚飾に溢れていることだろう。いやまぁ、人の話よりも自分の話か。ともあれ反省の一途である。

「異俗第二十」より抜粋雑感。
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我は愚人の心なるかな、沌沌たり。
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通釈より「世間から見れば、私は愚か者で、望みもなく智恵もなく、塵にまみれていて、一方で仁や義を高らかに唱える大衆こそが潔白で、理想に燃えた人々であるらしい」という辺りの意味。ウチもまぁ、地味な器は多い。「なんだ、こんな地味なものばかり。古い手法ばかり。もうちょっと芸大でも入学して最先端の芸術品を勉強してきたらどうだ!」などという言葉を聞いたことが、まぁ無いわけではない。それがさも当然で、薄く軽くシャープで現代的な、そういうものこそが美の極致だと言わんばかりの、マスコミから借りてきた様な薄い信念でぶつけて来るような人は居る。まぁ、それはそれで自由だが、つまりはそういう話である。俗薄な時代に大衆が賛美しているものは、ちょっと気を付けた方がよい、という辺りの教訓。今の政治など好例だろうか。絶大な大衆支持を得た人々の姿に、現代最高の人格者の姿を、さて見る事が出来ているだろうか。


あぁ。最後に変な政治批判などを入れてしまいました。すいません。

理想。難しいところでしょうか。今日勉強した話を総合するに、「人々の支持多きを気にするよりも、高潔な人格者や、信じた師匠の教訓だけを気にして進めるべきである」という話でしょうか。「自分だけを信じるってのは軽薄」と説かれているので、この辺りの認識でそれほど誤まってはいないのではないかと思います。古陶磁を手本にするというのも、1つの師匠。自然の美を手本とするのも同じく。陶芸1つ採ってもそうですが、解って見ていると、何ともテレビや雑誌・DMなどなど、イメージ優先ばかりで中身の軽薄なことが多く、解説も虚飾が平然と使われる世界です。時に、そういったものに惑ってしまう自分を時折に見出し、反省するばかりです。理想を目指すにせよ、「じゃぁ正しい理想って解ってる?」と、そういった根本的な問い掛けを感じます。

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論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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