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柳宗悦『茶と美』読解。26

『茶と美』読解。26
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⇒初版本第十三章(最終章)『陶磁器の美』抜粋と雑感 その2。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

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真に美しい作は作ることそれ自らを楽しんだ時に生まれるのである。器がただ利のために作られる時、それは醜さに陥るのである。作者の心が浄まる時、器も心も美しさを受ける。すべてを忘れる刹那が、美の至る刹那である。近世窯藝の恐ろしい醜さは功利の心が産んだ物質的結果である。陶磁器をただの器だと思ってはいけない。器というよりもむしろ心である。
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断っておくが、文章の中での言葉であるからして、この言葉だけを取り上げるとマスコミ宜しく意味を為さない。精神的視座が作品に決定的な影響を与えるという点については、こと茶陶におけるほぼ全ての大家が異口同音に唱えるものである。半泥子や魯山人なども同じことを著作で云うものであるし、また桃山の大家に於いても同じ話である。加藤唐九郎でさえ「茶道を馬鹿にする者は茶道具を作る資格が無い」と唱えている。小生が廻った著名作家からも、多くこの話を頂戴した。「究極的にはロクロを挽くよりも大事である」という話に帰結する。もちろん私もこの端くれを奉じる者だ。

陶工のみならず、茶道などでは特に精神性が要求されるものだ。その意味は、決して眉間にシワを寄せて難渋するようなものではなく、高尚に飾り立ててというものでもなく。全てを楽しむ点こそ大切になってくる。

もちろん、楽しいだけでは素人芸。技術を充分に習得してこそ、浄めた心が作品へと反映されていく。技術で苦労していれば、眉間にシワが寄るに決まっているのである。茶道で、点前も出来ない者がニッコリ笑顔で客と会話出来るわけがないのと同じ道理であって、技術稚拙なれば、見ている方がハラハラしてしまう。ここで功利を目指していると、どうしても腹黒い、何かを狙うようなものが感じられて、とても落ち着かないのである。これを柳は醜いと評する。人によっては「威圧感がある」などと云う。しかし本当の威圧感というものは、「本物が持つ威風」というものであろう。

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陶磁器の深さは常に冷ややかな科学や機械的作法を超える。美はいつも自然に帰る事を求めている。今日もなお美しく器を焼くものは自然の薪である。いかなる人為的熱力も薪によって得られる柔らか味を与えることはできぬ。かの轆轤も今なお自由な人の手や足を求めている。均等な機械の運動は美しき形を産む力に乏しい。釉薬を最も美しい効果に磨り砕くものは、あの不規則な遅々とした人の手の運動である。単なる規則は美を産むことはできぬ。石も土もまたは色も天然のものをこそ求めている。近世の化学が贈る人為的色料がいかに醜いかを吾々は熟知している。
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陶芸に関わらず、伝統的な工藝に携わると、第一の障害として登場するのは「素材」である。古きものと同じ材料が手に入らず、ために過去に劣るものしか作れないという事が、往往にして存在する。いざ手に入ったとしても、膨大な手間や金銭が必要で、とても自由自在に用いるには程遠い場合が多い。例えば桐箱一つにしてもそうだが、良質な桐材を自然状態でアク抜きした材料というものは、もはや壊滅的に手に入らなくなっている。昔は当然であった、「経年して美しいアメ色になる桐材」が、そも手に入らない。織物でも、手織りの西陣の柔らかさは驚く程のもので、今の様に堅くない。もちろん、昔は手織りの布しかないのである。陶器も、僅か100年前までは全てが原土で、手作りで成形され、それを薪で焼いていたのだが、今は薪窯でさえ難しいのが現状である。

何も復古的な、懐古主義的な話をしているわけではなく、薪炎とガス火では性質が違う。優劣はともかく、炎が違えば、電気、ガス、灯油、薪、更に電子レンジまで、焼き上がりは異なるものに仕上がる。だからもちろん、薪で焼いたものが何でもよいかと云えば、そうではない。要は最も適した選択が必要だという話である。例えばスッキリした焼き上がりが欲しいなら、薪よりもガス火の方が好いだろう。「現代はガス窯が一般的なのだから、ガス窯で焼くのが自然に適っている」などという言葉に騙されている。「自然に適う」とは、「自然に合わせる」というコトであるから、「焼締めは土味が命なのだから、薪窯で焼くのが自然に適っている」と唱えるのが正しいのである。現代の事情に合わせることが「自然」などというのは、よく改革を標榜する者が耳障りのよい言葉として使うのだが、それなら現代の陶磁器は「機械生産で十分」という結果になる。合わせているのは「自分の都合」であることが多く、「焼物の都合」ではない。

だから素材も、灰にしても何にしても、不都合なものは使わない事が多い。不均質・不均等で、手間ばかりかかるような原料は敬遠される。まぁ実際問題、良質な材料を使うには金銭面など妥協が必要な側面はある。だからまぁ、特別に非難するような話ではないが、あまりに皆がガス火では、火の神も面白くないだろう。

しかし当然だが、柳はわざわざ、皮肉的な表現で自然素材論を書いているわけで、実際は「人為的色料」の「機械製の完全品」を人々は求めるし、そこに金銭も集中する。それによって、陶磁器は尚更に、自然素材の使用から遠ざかっていく。柳の時代から半世紀の間の攻防があり、機械生産は圧勝を掌中に納めようとしている。庶民の器は「全てが薪窯の品」であった時代を越えて、「全てが機械産」へと変わってしまった。僅か100年の趨勢である。

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論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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