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柳宗悦『茶と美』読解。24

『茶と美』読解。24
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⇒初版本第十二章『蒐集について』抜粋と雑感 その7(最終)。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

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私達は集めるものが美の標準に照らして高いものであるかどうかを省みねばならぬ。例えば湖東焼を集める者があるとしよう。美的価値からして中には多少良いものもあろう。だがその焼物には一義的なものがほとんどない。かかるものを幾個集めたとて、その意義には限度がある。美しさへの理解が深まるなら、かかる材料に満足する謂れがない。だが同じ焼き物でも九谷焼を集めるとしよう。湖東焼に比すれば段位が違う。作に多少の優劣はあるが、蒐集としての標準は高い。
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う~ん。近江の者として湖東焼を貶されるのは不快であるが、赤絵という観点からすれば、一概に九谷焼の方が優れている点は確かなものであろう。段位が違うと言われれば、違うかもしれんが、近江の蒐集家が彦根に湖東焼美術館を建てるまでに昇華させたことを知れば、彼はどう言ったであろうか。近江の蒐集家が九谷焼なぞ集めていたら、それこそ不可思議な話である。具体各論に入ってのものと、概括的な話では、彼の云う段位が明白に変わって来る。有田在住の蒐集家が九谷焼を集めるというのはどんなものか。由来関連云々で集める程度なら分るが、伊万里・鍋島、また唐津を放り出して九谷を集めるとなれば、ちょっとどうかと思ってしまう。柳の生まれた東京では、コレといった蒐集名物もないかもしれぬが、地方では多く在地の工藝がある。だからまぁ、半分くらいの人々に対しては、この話は通用しないものだと了解した方がよい。ただ概論として一義と二義が違うのは当然の話である。信楽在地の薪窯信楽を一義とすれば、関東などで焼かれている薪窯信楽が二義や三義となるのは当然の帰結であろう。近江でなければ、湖東焼を蒐集するにしても、染付でも赤絵でも、有田や九谷の方が由緒歴史を持っているのであり、柳はそれを言っている。

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自分に見方のない者が、自分を無遠慮に出すより遥かに賢明である。自分の分を知って自己を謙譲にすることは誰でもできることではない。正しい標準に依存することは結局その蒐集を無事にする。いかに多くの蒐集家が誤まった自己を出し過ぎることによて、蒐集を悪くしているかを省みねばならぬ。
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美を知る上で過去の名品の評価に従う事は必要だが、蒐集まで寄ってしまえば、バブル期の伊万里やら信楽壺やら九谷やら、何か流行の如くに人が集まっていくことになる。権威化・高額化の弊害があり、彼の云う病菌の温床を作りかねない側面もある。話としては、利休の創意というものには確たる基礎が在ってこそという意味で、何も判らぬ者が「創意」、「創意」などとやってしまうことを批判する話であろう。分らぬうちは定説に従って、定見の中に身を浸けてみることが必要。徒手空拳は文字通り徒労に終わる事も多い。

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蒐集は何か生活を明るくするものでありたい。ただ玩ぶことは最も避けたい。過去への耽溺は将来への展開を妨げてしまう。蒐集は自己の逸楽に止まってはならない。それによって何か世界の意味を高めなければならない。何も人類に寄与する所がないならむしろ恥ずべき行為である。それを単に利己的な興味に死なしめてはいけない。生活がそれによっていききし澄み深められるものでありたい。そうして他人にも多分に悦びを頒かつものでありたい。蒐集が単なる私事に終わって生活を萎靡せしめた例は乏しくない。私達は玩ぶことから活きることへそれを深めねばならぬ。
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著作は戦前のものであるが、昨今は何事も利己的を是とし、止む無しと認める風潮がある。仕事にせよ趣味にせよ、「何か人類に寄与するような」社会性を持たなければならないというような感覚は、戦中の感覚から比較して、おそらく死滅に等しいものであろうか。「人と悦びを頒かつ」という点に於いても、例えば多くの会社は「悦びを頒かつ」において「利益を頒かつ」と同義に近いような感覚がある。それが生活を明るくしているならば良いのであるが、仕事にせよ多くのことが生活を暗くしている様な気がしてならない。茶道などにしても、陶器にしてもそうであるが、やはり何事も、「生活を明るくするものでありたい」と願うのであります。

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良き蒐集家はものに敬虔である。この敬虔こそその蒐集に光を与えるのである。物だけではこの光りは現れてこない。蒐集は物よりも心に多く関係する。
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蒐集をどう活かすか。多くの人の悦びを思考すれば、自然に良いものを目指し、生活を明るくするべく公開したり、茶会を開いたりするものであろう。敬虔な人で在ってこそ、ものを大切にし、ものを活かすべく考える。蒐集に於いて「道」なるものがあるとすれば、本道は結局、「心の姿勢に帰ってくる」という話であろう。



以上で第十二章「蒐集について」は終了です。

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論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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