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柳宗悦『茶と美』読解。21

『茶と美』読解。21
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⇒初版本第十二章『蒐集について』抜粋と雑感 その4。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

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高い代価が商人の奸智にもとづく場合がいかに多いかを知らねばならない。売れないものに突飛な値をつけるとたちまち売れる場合は珍しくない。商人はしばしばこの手を使う。高価が人々の信頼を博すのである。だがものの価値は市価と常に正比例するとは決していえない。高い代価なるが故に物を誇るのは浅はかな趣味である。悪趣味と呼ぶ方が至当かも知れぬ。高い金額への信頼は、無見識の告白ともいえる。その中には名実伴うものも必ずやあろう。しかしその標準は決して頼りにならない。
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よく知られた話であるが、人間国宝に認定されれば価格は10倍に跳ね上がると言われる。よって派閥勢力など、様々な可能性を持つ子息・弟子は必然的に画廊や百貨店から非常な厚遇を以て歓待されることになる。この人脈が派閥内の権力に繋がる。否応なしに商人が群がって、作家を、また業界をダメにしていく典型例であろう。受賞に拠って突然に腕前が10倍になるということも無い。単純に肩書が付与されるだけの話である。それを無価値と断ずるのは些か問題があろうけれど、価格を10倍にするほどのものではない。道義的に行っても、作品の価値を主体とするならば、せいぜい二~三割の高騰でも多いくらいなもので、本当の意味では、全く価格を上昇させる理由にはならない。ただ後進のことを勘案するくらいなものであろう。

作り手は、あくまで作品価値の向上を主体とするべきなのは無論である。市場価値や稀少性などを考慮に入れても、職人根性ならぬ商売根性の評価が高まるだけである。その意味では、例えば「〇〇代襲名」などと言っても、相当に価格を低廉化させても然るべきところのものである。血筋で腕前が上昇するのであれば苦労はないわけで、血筋で腕前が上がらぬからこそ、〇〇代目という苦しさがある。しかしだ。かような「価格に於いての理想論」というものは、世の中に晒してしまえば鎧袖一触で破壊されていく。昨今は「金銭転化出来る肩書」や「商売上の自己演出能力」が成功(?)に不可欠という側面が在る。ここでの「成功」とは、あくまで「金銭的な成功」であるが・・・。

よって、価格を信じてはならぬ。特に因襲に囚われ易い経歴の鎖を持たされている作家の価格には、様々なものが乗っている。それを勘案する事も必要であるし、また品物の本質を見ることも大切であろう。肩書だけで人を見るというのは、自己の見識に対する「慢心」に他ならず、非常に「御粗末な見識」とされるものだ。

見解の中立性を考える時には、食べ物を想定すると、身近なものであるだけに誤まりが少なくなる様に思う。高額な食材、贅沢な食べ物というものは、必ずしも美味とは限らない。珍味が美味と同じように高価を獲得する例は多い。また、美味しいと評判の店には行列が出来て売上も高いのであるが、しかし「美味しいとは限らない」のが常である。作家が商人に潰される例のように、行列が店をダメにしていく場合もある。かよう、本質というものは人々の中にも常識的感覚として理解される範囲の話である。

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まして高価なものは贅沢な品多く、贅沢には華美とか軟弱とか、さまざまな病菌がつきやすい。高価なものへの自慢は、とかく内容において空虚である。
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黒一色の黒楽を筆頭に、美の品質向上は専門的で、一般に理解され難い側面をもつコトが多い。民藝などもそうである。こと素朴を旨とする中では、なかなか差異というものは見て貰えない。場合によっては自己満足などと揶揄されることになる。結果、商売上に解りやすい指標を与えて、例えば「軽い、手間が掛かる、色数が多い」などの理解されやすいモノサシを与え、大衆を低俗美へと導いて金銭のタネにする。かよう商売人が創り出した、中身の無い空虚な工藝論に毒されてしまった人は多く、その誤解を解くのには本当に苦労をさせられるのである。軽くあるべきは軽くてもいいが、本当に軽さが第一等級の観点であるかどうかを考えて頂きたい。茶杓では作者第一という。御香は「香り第一」であろう。その視点で、本当に茶碗は「軽さ第一」であろうか。飯椀だってそうである。軽いものがいいなら漆器椀がオススメである。軽さと耐久を第一とするならプラ食器が最高だ。「軽いだけの器」こそ、柳の云う「軟弱という病菌」を持った器に他ならない。そも「軽さ第一」などというものに素材として土を選択するというのは、どう考えても合理性・必然性に欠けるのである。あらゆる工藝に精通すべき目利きとなればこそ、モノヅクリの基礎を見落としてはならない。

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集まった物の間に有機的な関係があれば、どんなに集めても立派なものに育ってゆく。だがこれがないとただ雑然とした蒐集に終わってしまう。個々の間に何らの連絡が無く統一が失われてしまう。こういう蒐集の著しい特色は玉石の混淆にある。美しい物と醜い物とがきっと同座する。正しいものと間違ったものとがいつも混雑する。蒐集家にはこの病気が最も多い。しかも軽い病気ではない。
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玉と石。玉とは「贅沢品」ではなく「美しい物」。石とは「低廉品」ではなく「醜い物」。茶会の道具組みなどでは、もちろん道具にも序列が在る。そういった意味で、火入など、道具組みの序列が比較的低いものに注目してみるのも1つであろうか。茶碗よりも名品で在ってはならぬから、比較的「低廉でありながら、一定の品質美」というものが要求される。火入は選択肢も少なく、名品は滅多にないだけに、選び所が非常に難しい。これを「有機的」つまり他の名品と関連させるとなれば至難であって、解っているかどうかの基準になりかねない。マニュアル的選択によって、何とも言えぬ場面が多いわけだが、ここで気の利いたものが出ていたりすれば、1つの楽しみともなるだろう。だからこそ難しい。玄関の具合如何によって亭主の配慮深浅を知る楽しみに近い。しかし、この楽しみを提供するには力量が必要である。一系統の美的感覚だけではなく、こと複合的なもの。一定の蒐集量も必要であり、茶人として火入の灰共々、腕の見せ所となるものだろう。

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論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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