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「中国文明論集」より、陶磁史の視点 第五回

九月以来の第五回。
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東洋史論:「周漢文化の基盤」より抜粋・雑感。
(※元本は宮崎氏の東洋史論文集です。)

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市とは原来、小品を倍々するための特定の地区であるが、漢頃までは、市は単に買物籠をさげて必要な物資を買い求めて用がすめばさっさと帰る事務的な昨日を果たすばかりでなく、同時に人民の遊びの場であり、盛大な社交場であったのである。朝はやく市の門が開くと都民はどっと市に市になだれこみ、夕方市の門が閉じるまでぶらぶらして時間をつぶすのである。戦国時代の有名な剣客の荊軻(ケイカ)が酒に酔いつぶれ、友人に琵琶をひかせて歌ったり泣いたりしたのは燕国の市である。秦の呂不韋がその編纂した『呂氏春秋』を展示して一字を改める者には千金を与えようと懸賞したのは咸陽の市の門であり、後漢の王允が本屋で立ち読みしては勉強したのは洛陽の市である。こういう市の中でもひまつぶしに適したのは酒屋、肉屋、それに易者の店であったらしく特に易者の所ではやや高級な学問的な団論が交されたであろう。

市は開放的な社交場であるが、都市国家には別に封建的な社交場があって、それは祭祀の場所である。(中略)同時に政治の場でもあった。いわゆる祭政一致であって、国家の大事件を決定するには占卜を行い、戦争に勝てば宗廟に犠牲をあ下げて保護の恩を謝するのである。
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”文化”とは何だろうか。上記は古い時代、二千年も昔の市場の話であるが、人の感覚というものは、それほどに変わっていないのであろう。少なくとも、昭和頃の商店街などには、こういった風情があったかに想像することが出来る。現代式にはインターネット上の世界にて、様々な議論が交わされる。宮崎市定氏の歴史観に依れば、中国の停滞は「封建的な社交場」が、「自由なる市」を圧迫し、「宮廷」という社交場こそが全ての言論を統率することに依って始まるのである、と論じている。

言論の自由を云い、唱える事は容易である。しかし、そも言論自由の歴史とは何か、と問うた時、何か官憲と人民の関係を想像する人が多いかもしれないが、歴史観的に云えば、言論の統率権限にも焦点が来る。封建的な社交場とは、現代で云えば政治であろうし、マスコミであろう。少数の人選を行って、彼らに言論を統率させる。しかし、昔の様に、手間や無駄が多いとしても、本当の意味で大勢が寄り集まって論壇を繰り返す中で産まれるもの。孔子を筆頭とする極めて洗練された高度な思想。諸子百家の思想が産まれた時代背景は後者であり、各国の市場を代表する論者として台頭するもの。そこに、各国の王が時に信認を与え、抜擢を行った結果、彼らの思想が現代に受け継がれ、読み継がれているのである。

宮廷社交場とは、今で云う政治やマスコミ、偉い人。つまり、全員参加では無く、特定の者が言論を決定するという方式。それが、自由なる市を圧倒する環境を作ってしまった場合、宮崎論曰く、「人民は自由人たる誇りと自覚を失い、皇帝の臣民であるという卑屈な態度を植え付けられて、ここに中国は中世的な停滞が始まるのである」と断じている。

政治の停滞、経済の停滞、文化の停滞。もちろん、歴史論としては「400年に渡る圧迫の末に成立したもの」であるからして、非常に長大な事象の話である。一部の精鋭が全てを統率するという仕組みも、当初は良いとして、永年継続すれば問題が生じる。栄華なる手法は、いつまでも栄華なる手法では無いという、伝統にも通じる思想。400年の長期王朝というものは稀有な歴史であるが、それ以降に顕著なる思想家は出て来ない。あくまで宮廷社交場の中の思想家輩出であり、百家争鳴という時代が再び訪れる事が無くなってしまったのである。

まぁ云えば。昭和期に於ける百家争鳴の陶芸家黎明期に対し、日展や工芸会など政治の関わる無形文化財や文化勲章に率いられた陶芸界の時代に入ってしまうと、何か著名な作家の子息子弟、特定者の推薦が重要になり、百家争鳴という時代が失われたとみる事が出来る。桃山時代以後の、江戸時代における茶陶なども似たようなもので、自由なる桃山時代に対し、遠州七窯になればもう、随分と画一的になっている。

こういった「停滞」というものも、歴史論的に見れば当然の流れであろうか。人々の上に立つ者。帝王学の必須教養として「歴史教養」が挙げられるのは当然であるが、「暗記」や、「面白い伝記」ばかりを追う中では、難しい話だろう。停滞を見透かし、革新を進めてこその伝統の旗手であろうけれど、薄っぺらい革新論や停滞論は、全く「書生論」であろうか。とかく、「新しいもの=革新」、「旧来のもの=停滞」という観念的な書生議論は白紙にしなければならない。歴史的に見て、革新を掲げた大半が失敗の歴史を経験している。「革新」というものが非常に難解であることを、まずは胆に銘じるべきであろうか。そして同時に、「難しき革新」を行うには経験も必要であろう。利休の茶道革新が60歳以降であったとしても、それ以前に革新について試行錯誤が在ったであろうコトは当然だろう。60歳になれば突然に能力が上昇する筈も無いし、突然に茶碗が巧くなったりするものでは無い。

停滞の判断。革新も勉強無しには成りませんね。
何の努力もなしで成功ってのは虫が良いもの。

歴史を鑑として現代を見てみると、色々なコトを想います。


以上まで。

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論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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