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岡倉天心「茶の本」に見る思想4 「第三章」より

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第三章「道教と禅道」

何気なく設定されている章題であるが、茶道の正体としての道教・禅道を説いている。道教と禅道ともに難解である事でも知られているが、酷似というよりも、そも禅道は道教・仏教・儒教の混合体である事を知らなければならず、様々な歴史的背景を踏まえておく必要がある。禅仏教が中国で創始されていく時代は唐宋の時代。栄枯の波も激しく、時に権力が目まぐるしく交代し、時に中国が南北二つに割れた時代。儒教という道徳も危うく、道教という精神的強靭さが見直され、仏教という名の下に人々は信仰を頼った時代。宗教のみならず、陶芸や詩文を始めとした芸術・文化に於いても、人類史上屈指の精彩を誇るものを産み出した時代。その時代の宗教こそ、道教の仮の姿である茶道を内包した禅道である。

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茶と禅の関係は世間周知のことである。茶の湯は禅の儀式の発達したものであるということは既に述べたところであるが、道教の始祖老子の名もまた茶の沿革と密接な関係がある。風俗習慣の起源に関するシナの教科書に、客に茶を供するの礼は老子の高弟関尹に始まり、函谷関で「老哲人」にまず一盌の金色の仙薬を捧げたと書いてある。
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現代的な視点で云えば、日本における神々「仙人」という感覚というものは道教であろう。そういった意味で現代としては語られる処の少ないというか、何か胡乱な宗教の如くに軽蔑する向きもあろうかと思う。例えば劉邦の名軍師として知られる張良は神仙思想により水銀を過剰に飲用していたとか、そういった非化学的な話もある。茶の湯の儀式も同じく、宗教性が感じられるというか、どうにもその「儀式性」を、「感覚的に忌避」する人が多いのではないか、と思う。しかし、如何に宗教色を薄めたとしても、その源流が「禅の儀式」であり、「一座の建立」という事も難しいのだから、あまり欺瞞を用いるのも如何なものかと思う。堂々と「茶と禅の関係」を前面に出してよいのではなかろうか。座禅体験なども、大いに流行している時代である。

豆知識的なことを付属させておくと、「金色の仙薬」を捧げた場所「函谷関」というのは、中国の「内地」と「蛮族の地」の境界である著名な要害。しかし同時に、老子が「内地という俗世」を捨てて「蛮族の地」へと旅立った地でもある。1つ、茶を呈する「茶室」というものの根本に、「市中の山居」とか「俗世と切り離された空間」という概念があると聞くものであるが、その根本にある思想を示唆している様にも感じる。

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翻訳は常に反逆であって、明朝の一作家の言の如く、よくいったところでただ錦の裏を見るに過ぎぬ。縦横の糸はみなあるが色彩・意匠の精緻は見られない。が、要するに容易に説明できるところに何の大教理が存在しよう。古の聖人は決してその教えに系統を立てなかった。彼らは逆説をもってこれを述べた。というのは、半面の真理を伝えんことを恐れたからである。彼らの始め語るや愚者のごとく、終わりに聞くものをして賢ならしめた。老子みずからその奇警な言でいうに、「下士は道を聞きて大いにこれを笑う。笑わざればもって道となすに足らず。」と。
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高雅な比喩表現は中国文学の真骨頂であり知識人の教養であったわけであるが、その話ではない。要は聖人の言葉は、それ自体を引用することが精々のことであって、翻訳などをしたりする程に、言葉は「錦の裏地」として誤解を招いて行くことになる。「下士は道を聞きて大いにこれを笑う。笑わざればもって道となすに足らず。」という老子の言葉を「解説抜きで直接に引用する意義」を説いている。禅の云う「不立文字」などの源流にもなるのでしょうか。ともあれ、必ず原典に当たらなければ真理というものは見えないことが多いもの。例えば陶芸とて、「古伊賀」を見ずに、「写しモノ」を観て忠実に作ったとして、そこに真理は無いし名品も無いのである。いかに特徴・約束事を文章に並べた処で、本歌を見たことが無ければ何の意味も無く、むしろ無用な約束主義的陶器・人物を産み出すだけである。

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道教を解せんとするには多少儒教の心得がいる。この逆も同じである。
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儒教は中国のみならず東洋、もちろん日本の伝統的道徳の要である。中国は儒教を柱としているけれど、風俗には道教があり、仏教信仰がある。それは皇帝と云っても同じことで、中華皇帝の肖像を見れば数珠を下げていることに気付くだろう。即ち、日常道徳には相関的な影響が生じる。儒教・道教ともに紀元前から根付いているものであるからして、禅の発祥した12世紀の頃には深い交わりがある。江戸時代の言葉に「上り坂の儒教、下り坂の道教」と云われる様に、儒・仏・道は常に相関しており、中国のみならず、日本の信仰をも集めていた歴史がある。それは何世紀もの期間であって、数十年などという短期間の流行などとは無縁のものであった。

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世の中そのものが馬鹿馬鹿しいのに、誰がよく真面目でいられよう!と言い、商売の精神が至るところに現れている。義だ!貞節だ!などと云うが、真善の小売をして悦に入っている商売人を見よ。人はいわゆる宗教さえも購うことができる。(中略)教会からその付属物を取り去って見よ、あとに何が残るか。(中略)天国へ行く切符代の御祈祷も、立派な公民の免許状も。めいめい早く能を隠すがよい。もし本当に重宝だと世間へ知れたならば、すぐに競売に出されて最高入札者の手に落とされよう。男も女も、何ゆえにかほど自己を広告したいのか。奴隷制度の昔に起源する一種の本能に過ぎないのではないか。
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激越な宗教批判。海外の現地で、よくぞ書けた話である。戒名云々などの話は現代にもあるが敬遠しておこう。ちなみに「戒名を求めない人が偉い」という話ではない。「世の中を斜めに見て、真の善行を積まずに居る人々」、及び「真の善行が、僅かな金銭で代替出来ると考える浅薄な考え方」、及び「その浅薄な考え方に乗る商売人」、これらを批判しているのである。市井の免罪符は大衆だけが求めるもの。しかし世を知る最高権力者・中華皇帝さえもが求めたものがある。全ての付属物を取り去って在ろうとした宗教の産物である。

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儒教徒や仏教徒とは異なって、道教は浮世をこんなものだとあきらめ、この憂き世の中にも美を見いだそうと努めている。
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先の言葉を借りれば、「世の中そのものが馬鹿馬鹿しいけれど、私は真面目で居てみよう」ということになるだろうか。下り坂の道教という言葉の示すもの。俗世と茶室。憂き世と正面から向き合って、これと対決せずに居る思想体系が道教、即ち「老子哲学」であろうか。

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物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると、老子は主張した。(中略)たとえば水指の役に立つところは、水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。
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茶の点てられない茶碗を、茶碗とは云わぬ。水を受けられない水指を、水指と云わぬ。では、人はどうだろう。付属物を取り去った上で、人と云える存在であるだろうか。生きているだけでは畜生類と変わらない。人とは。「人と云える」とは。

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禅は正統の仏道の訓えとしばしば相反した。ちょうど道教が儒教と相反したように。(中略)祖師を除いて禅僧はことごとく禅林の世話に関する何か特別の仕事を課せられた。そして妙なことには、新参者には比較的軽い務めを与えられたが、非常に立派な修行を積んだ僧には比較的うるさい下賤な仕事が課せられた。こういう勤めが禅修行の一部をなしたものであって、いかなる些細な行動も絶対完全に行わなければならないのであった。こういうふうにして、庭の草をむしりながらでも、蕪を切りながらでも、御茶をくみながらでも、重要な議論が次から次へと行われた。茶道の一切の理想は、人生の些事の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものである。道教は審美的理想の基礎を与え、禅はこれを実際的なものとした。
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分かった様な気がするだけで、実際には小生のような凡夫に感得することは難しい話。そも系統も体系も無いというのが分かる程度のことであって、己のマニュアル主義的な感覚の強さを知るだけである。茶道では、例えば柄杓を置く1つの動作にさえ厳しい美を求められる。一服の茶を、呈するも、受けるも、その動作の儀式には「人生の些事の中に偉大を考える」という事を象徴しているのだろう。しかしどれもこれも、後解説であって、自己が実行するには遠いことを感じるのみである。


以上、第三章より引用・解説。

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論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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