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御茶の御稽古。

今日は茶道の稽古。朝の訓話は「有難いとは何か」という話でありました。

文字通り、「有る事が難いもの」であると云う事。何事も当然と思ってしまう事もあれば、有難いと思える事もある。例えば一服の茶を頂くとしても、それが「有難いと感じる人」と、「有難いと感じられない人」が居るという話。茶道は、突き詰めれば「有難い事」を感得する事なのかもしれないなぁ、と、深く感慨を覚えました。「一期一会の感得」、即ち「有難う」(有り得難い事に感謝)の一言。「万物への畏敬と感謝」というものが、古来の日本的哲学。それを表面上の事ではなく、内面として感じられる様になってこそ、茶道の功徳があるという事でしょうか。

言い換えれば。「今日と云う日に有難う」=「今日是好日」という事に相成ります。「無事是貴人」などと同義という事になりますでしょうか。上っ面でマニュアル式に「有難う」と云ってみた所で、やはり感得が無ければ礼儀の範囲でしかないのだなぁ、と思いました。言葉だけ口に出しても仕方が無いもの。去年でしたかに出版された「いい人ぶらずに生きてみよう」で大宗匠が指摘された様に、マニュアル礼儀で留まっていては本当のいい人、茶道で言えば「本当の茶人」にはなれないのだなぁ、という事を想いつつ。

まぁ、そういった事では、何と言っても美味しい一服。やはり美味しく無ければ感謝の念も湧き難いものでしょうか。「茶は美味しく無ければ」という根本というのは、「感謝の念が湧かない様な茶では駄目」という事でしょうね。

また、利休的な「侘び茶」を「貧乏趣味」などと斬り捨てた論考が昔にあった様ですが。例えば信楽の種壺が如き雑器。そういった「雑器にさえ感謝する程に修めた心」があって初めて、「謙虚に雑器に対峙する」事が出来、その先に「雑器の持つ美」に気付いていく。つまり、「侘び茶に目覚める」という事が出来るのだと思います。昔の”若い者が「ヒゼン・シカラキ」を用いて「侘びぶっている」”という批判文なども、こういった点を指摘したかったのではなかったでしょうか。

そういった視点では、楽茶碗なども同種の性質を帯びた茶碗として登場したのだと思います。カワラ師の手作りの、脆い茶碗。ブランド骨董であった「天目」に対して「イマヤキが如き茶碗で一服などと笑止!」などと云う心構えの道具茶人を、厳しく峻別するための茶碗であったかもしれません。「天目唐物で無ければ茶道具に在らず」という「固定された不自由な価値観」。そういったものへの否定には禅的な思想を感じます。古今に捉われず、唐物和物に捉われない。しかし「自ら侘び=感謝に捉われていく茶」が「侘び茶」(利休茶道)ではないでしょうか。


格好良く万人受けに仕立て上げられたもの。京焼や有田、また現代式の陶磁器など、華麗かつ薄挽きな器は万人に理解され易い器ですが、そういった茶碗が「式正な濃茶茶事では使われない」というのは、そういった世界観から来るのではないかと愚考します。積極的に愚直に、努めて自然に還っていく器。「侘び=侘びる事、謝する事」と辞典は申しますが、世界=自然に感謝し、捧げられる様な器が「禅の道場」(茶室)には相応しい。積極的に侘びる事。

もちろん、その大前提。「自己顕示による単なる奇抜趣向」=「侘びの酒肴」ではなく、「亭主の禅心」あってこそ。茶陶で言う所の、「作為」と「無作為」。「侘びを装ったモノ」は、禅的には最低。始末に負えない。魯氏を始めとして茶陶の大家が口を揃えてきた「精神修養論」というのは、詰まる所はこの本質論に在る。小手先で作ったら絶対に駄目、という事。器を作る根幹となる素材は人間。その由来を積極的に、本格的に「侘び」に染め無ければならぬ。


道具ではなく、人が根本という事。器作りもまた然り。

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「和(わ)」とは、お互いに心を開いて仲良くするということ。「敬(けい)」とは、尊敬の敬で、お互いに敬いあうこと。「清(せい)」とは、清らかという意味で、目に見えるだけの清らかさではなく、心の中も清らかであるということ。「寂(じゃく)」とは、どんなときにも動じない心。
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裏千家Webサイトより和敬清寂の意味。居丈高にならず、常に感謝し、平身低頭です。こういった事を「猪突猛進して実践する」というものが侘びなのかな、と愚考しております。
 

「陶を以て政(時代)を見る」。器に現れる人の心とは・・・ 。


以上、感謝という議題より、色々と雑感まで。

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論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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