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岡倉天心の思想1 「茶の本」

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岡倉天心・『THE BOOK OF TEA -茶の本-』より、茶道思想について。

・著者読解
いつものように著者の背景を探ることによって、書籍の思想的傾向・時代背景を考えておく。

幕末の動乱期1862年、横浜に次男として生まれる。家の系譜は福井藩士だが、父は既に横浜で貿易商に転身しており、その片腕となるべく英才教育を施される。東京開成学校(東大)に入学し、英語・政治学・哲学などを学ぶ。この時代は教師不足の時代であり、即時に教官となってアーネスト・フェノロサの助手を務める事となる。

・フェノロサ
重要人物なので概要を解説。明治維新期に外国人講師として招聘。元々は美術教師ではないものの、日本美術に開眼。”日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛で花を摘む”としてこれを称賛するが、同時にそれは、明治維新によって見捨てられ、西洋崇拝の中で破壊の限りが行われていたものである。特に天皇制護持の為に、仏教権威の徹底的な破壊が行われていた。その日本文物に対し、これを認め、保護する事を提唱。寺院や工芸文物に対して文化財保護行政が必要である事を訴え、その責任者となると共に、仏教に帰依。やがて東京美術学校を設立し、帰国。天心を招聘し、また収集した一級日本文物がボストン美術館へと持ち帰られる事となるが、文物の私的売買などで失脚。最終的には日本に葬られている。

天心がフェノロサの助手を勤め、古寺を巡ったのは19歳の時。やがて国費で欧米視察を行うなど、政府から美術教育の第一人者として育てられ、東京美術学校を開校。27歳にして校長を勤め、日本美術の最大権威者となる。およそ当時の政治的な指向によるものだ。この1889年は柳宗悦が生誕した年でもあり、名実ともに美術制度の先駆者。パリの万国博覧会が行われているが、日本は出展していない。⇒1900年パリ万博で御物などの古物を出展。1925年日本の工芸品出展。西洋の評価を狙って工芸界が幾何学指向に走る事となる。

脱線ついでに、当時の陶磁器関係の年齢を整理しておこう。
1900年当時:岡倉天心(38歳)、柳宗悦(11歳東京華族)、富本憲吉(14歳奈良建築志望)、北大路魯山人(17歳京都丁稚奉公)、板谷波山(28歳石川教師)、加藤唐九郎(3歳瀬戸に生誕)

岡倉天心は文科省と対立して美術学校から排斥。横山大観らを率いて日本美術院(院展)を結成。不倫騒動の大騒動があり日本での居場所お失っていく。1900年を境に日本を離れるようになり、インドなどを歴遊。最終的にフェノロサからボストン美術館の東洋美術を任される事となり、渡米。フェノロサ失脚後、日本文化の紹介者として一躍、欧米で脚光を浴びる事となる。出版を重ねた末、アメリカにおいて茶道を紹介する『茶の本』(1906年)を出版。これがアメリカ・欧州でベストセラーとなった。やがて1913年(大正2年)、日本帰国中に没。

余談。天心の功績?として、日本美術の弟子というようなラングドン・ウォーナーの話。彼は後の二次大戦時、軍司令部顧問となり、「京都の文物を守るために空襲を避ける様に提言した」という美談が知られている。しかし事実はそうではなかった。後に実際には略奪リストでしかなく、原爆投下候補地であった事が明らかとされた。この美談はGHQによる意図的な誤説流布という説もある。(吉田守男『京都に原爆を投下せよ』)

話を戻して。岡倉天心の茶道に関する心得に関しては、天心の弟君によって序文で明らかにされている。子供の頃に茶人を招聘して月に数度の稽古を受けていた事、及び「茶経」(陸羽)を愛読していた事。注意点としては、月に数回の稽古と云っても、幕末時代に鍛えられた茶人である。茶道中興とも云われる時代の、男性茶道が行われていた時代のものであって、現代とは全くその内容が異なるもの。まずもって茶会文化が違う。「茶と云えば茶事しかない」という時代における茶道である。

まぁしかし、それにしても若いです。


次回以降、内容について触れて行きます。

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論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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