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新茶の季節に感謝して

新茶の季節ですね。帰宅して見ると友人から贈り物でした。
ありがとう御座います!

sintyanokisetu.jpg 

今日は茶道の稽古でしたが、そちらでも昼食に新茶が登場しておりました。朝八時半には稽古が始まって、途中で典座役?つまり台所方(禅では高位の僧が勤めるもの)が指名されまして、まぁさすがにそこまで厳しくは無いけれど、昼食の準備。基本的な調理は宗道先生自らがして下さったりするものでして、なかなか、日本広しと云えどもこういった稽古場は無いかと思います。今日は典座の御役を命じられたので、オニギリなぞを握っておりました。

で、今日は午後三時に稽古切り上げ。粟田焼の個展拝見にて先生の御供をさせて頂きました。作家さんは安田さんという青年部の近畿ブロック長さんです。茶道では、「京都の特色ある器は⇒京焼」という事になるわけですから、茶道の盛んな京都においては、とてもとても有名な方です。水指の蓋作りに関して、漆作家さんを御紹介頂いた?御縁があったり。器も1つ持ってます。

まぁ拝見すると・・京焼(※一般ではなく作家モノ)は薄い。絵付けも細かいですが、ロクロ。まぁ分業ではあればこそでしょうけれど、我々の云う「薄い」とは基準が段違い。有田の薄胎とまでは行きませんが、随分と削り込んであります。土が勿体ないなぁ・・・と思うくらい。茶道の先生方が「薄い茶碗がいい」という場合の「薄いの基準」が、何だか核心的に掴めたような気がしました。器には器に合った、土に合った厚みがあるものでしょうか。京焼はどうひっくり返しても「侘び」にはなり難いものですから、そういった性質によれば「薄い」という方向性は然るべきものです。

まぁ・・・トルコ青は半磁なので、一度、この手の薄さを造ってみるのも勉強になるか。訓練校の頃にペラペラのを造ったりして遊んだものですが、それ以来という感じでしょうか。何度か書いてますが、 「薄い」ってのは「作陶哲学に拠って選択されるもの」であって、技術的には簡単なんです。削るだけですから、競うような、見所となる様な特質ではないのです。時々に「薄い!」という点をやたらに誉める方が見られますが、「全く褒め言葉になっていない」ので御注意下さい。「この抹茶!これ泡立ってるよ!すげぇ!!」みたいな誉め方に相当します。作家さんが可哀想・・・。


ちなみに会場は彦根だったのですが。ICを降りると「一休亭」という「焼肉店!?」がありました。晩年でしたっけ。しっかりと修行を積んで、最高位になるまで修行した後で。その絶大な権力を捨て、仏教の戒律を破り、肉食したり女性を追ったり、酒を飲んだりして奇行を行ったのですよ。何とも深い。深いぞ(笑)。

ちなみに意味無くリンクを貼ってみる。
http://www.ikkyutei.com/

近江牛!
(「魯山人御好み」の牛肉です。)

まぁ、それは置いといて。そういや子供の頃に見ていた、御存知「一休さん」。「禅の坊主が幕府の将軍に指図する」という話ですな。もちろん、御存知の通りに大徳寺の坊さんであるわけで、禅の二大派閥である内の1つ、「臨済宗大徳寺派の最高位僧」です。桃山時代に「武士と茶」という関係性が成立するための連結物が「禅宗という宗教」である事は、本来が誰でも知っている知識の応用でしかありません。茶道を語る時ってのは、「美に従う」というのは二義的であって、一義には「禅に従う」という側面があるわけですよ。「茶道-禅-美」という関係。だから必ず、「美」を語る前に「禅」を語るのが筋道。「禅を語って美を語らない」というのはアリですが、「禅を語らずに美を語る」というのは、本来的には「ナシ」です。すべからく名品とされてきたものは、「禅のフィルターを通した状態」で美が判定されているのです。

織部を「武家茶」と云うなら、それは「禅茶」という事になるわけで、「武家禅の美」。利休も「禅茶」ですが、「禅僧の美」と云いましょうか。僧と武士の違いですから、織部は「自分の茶道世界を追え」という利休哲学に従っているわけです。前提としての「禅」の通底性は外せないもの。侘び茶の祖とされる村田珠光の師匠が「一休」ですね。全部が全部、禅で始まって、禅で浸透しているわけですよ。何で「武士の遊芸」とか「美に興じる」とか、そういう話になるのかなぁ・・・。と、とても不思議。普通に捉えれば、「武士の修行道」、「禅の世界に興じる」という表現ですな。普通に茶道をやっていれば実感としても違和感に気付くものですから、茶道教養の深浅ってのは、こういう端緒で簡単に露呈します。本来的には千家茶道じゃなくっても、「禅」なのです。

まぁ、マスコミなどが関係の無い美術評論家に茶道具を語らせたりするから、「美術的価値観の対立によって切腹」などという、「腹抱えて笑えそうなトンデモ説」が流布するわけです。茶道専門家の云う「美」ってのは「哲学」の素質が強い。まず禅に照らし、後に美に照らす。一義と二義。二義で語るってのは「一夜漬けの知識」で何とか語ってるのがバレバレ。普通に歴史を追えば、禅を切り離す事が不可能である事が分かる。掛軸の内容がそれを端的に示している。「哲学を啓示する場所」に、「美術的に優れた絵」を掛けたり、「自分が描いた書」を掛けたりするのは、亭主がおよそ「茶道の根本原理」について「理解していない事を誇示するための所作」になります。「俺ぁ、何もかもが判らねぇ!」という、一休的な悟り(??)に達した方のための、高度な床の間であります。墨蹟なんかは完全に「禅の哲学」の世界です。

逆に。漫画「ヘウゲ~」なども、結局は大衆に分かり易くするため、「禅を伏せる」という立場を取っている。なぜって、語るのが難しいものだから。「フィクションに候」と断るのは、内容の改変・創作だけでなく、そういったトコも踏まえての宣言。『利休にたずねよ』なども「美が云々」という、「大衆理解性」を優先して書かれているだけの事。およそ、「売上」が必要な場合の作法です。本気で主張したいなら、「論文」とか「学説」になります。分かった上で「フィクションの小説で候」として楽しむもの。わざわざ「フィクション」と書かれているんですから、「虚実を確認せずに鵜呑みにする」のは情報弱者の仕事なのです。「許せない!」とか怒ってみても、ちゃんと「小説に候」と書いてあるのですから、「学術論議で使っちゃ駄目よ」という意味の、簡単な日本語・ヨコ文字。そういや、アニメの「へうげ略」で名品解説をしている某島〇之助さんも・・・、何だか随分と怪しい言動で・・・、こないだの井戸茶碗の説明も・・・その前の・・・。まぁ、ここをツツクのは止めておきましょう。


せめて焼肉屋くらいの勉強は。書いてる私だって「茶道修業の新米さん」にて、本格的に勉強を初めてまだ二年くらい。「茶道の専門家」になりたかったら、果ての長い勉強が待ってます。禅とは何かという哲学の「上辺」を追っていくだけで、日本禅⇒中国禅⇒中国茶道、老荘思想、仏教思想、儒教思想・・・。様々、哲学の王者が勢ぞろいしているわけで、例えば「四書五経」を潰すだけでも相当な骨が折れるものです。歴史学者的に極めようとすれば、1つの書籍だけで一生が懸るほどの奥行きです。もちろん、参禅ともなれば・・・。


逆に云えば「底なし」という事。「道」なるものの永続性であり、魅力であります。


「新茶」ってのも茶道の歴史あってこそ。粉茶があったから、煎茶が出来て、今の日本の茶畑がある。いやいや、ありがたいものです。

今日も何とか、最後まで茶道の話でありました。

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論者:近江の苔

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。かつて古伊賀が焼成された集落に近在。詳細はWeb・交通案内記事など。

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