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伝統は玩具か。

雑感。この手の事を書くのは、あまり気が進まない。しかし同時に、伝統系の口上として、同業の方々から、こういった事を書くべくして期待されている面もあります。時々は御容赦を。


チャリティ関係で、東京方面・及び多治見方面の「現代茶陶」なる動きを知る機会を得ましたか。どうも茶陶ユニット?なる横文字で複数の団体が活動盛んである様です。個人的には、どこから見たら茶陶なのか不思議なものであります。意匠系で、伝統的な焼物作家は殆ど属していないもの。さすがに全てが全て、とは申しませんが。

現今の茶道に関わらない処からの、「茶道ブランド」を借りた主張。まぁ、それ自体は過去からあります。昔の茶道雑誌など見てみると、一頃は茶室建築に於いて現代デザイナーさんが手掛けたものがありました様で。掛けモノ無用の世界、Jazzを流して楽しむような茶室。まぁ云えば、娯楽です。珈琲隆盛時における「コーヒー茶会」に代表される様に、見た目の現代化は昔から云う人が絶えないもの。


少し、茶道の歴史を振り返ってみましょうか。


茶はそもそも「禅」と共に入ってきた「修行の一環」です。陸羽の茶経に感動し、禅に茶道が取り入れられた。それが日本に伝わった。しかしやがて「修行」は忘れられ、「高貴な方々の酒肴の場・賭博場」となり、娯楽・享楽の場に変えられてしまいます。いつしか、「高価な飲料を以て享楽し、高価な道具を披露する」という「遊芸」になってしまったのです。書院造・金閣寺というのは、云わば黄金茶室です。その背骨をへし折って、再び「禅」の手に茶道を叩き直し、更には「侘び」という喝を叩きこんだ。それが千利休、その人であります。現代的視点で以て、何か茶道を「武士の遊芸」の如くに表現する向きもある様ですが、そんな甘い世界ではないわけで、当時武士が信仰した禅宗の「修行」である事を外してはなりません。戦国時代に欠かせない要素である宗教色を外すのは現代小説の影響。禅僧が大名をも師導した時代の産物です。

しかし利休死後、茶道は僅か100年と経たぬ内に、再び「修行」としての本質を失い、「道具競争」という場に落し込まれます。そこに再び喝を入れたのは、利休の名を借りた「南方録」、及び大徳寺の無学和尚でありました。精神を忘れた茶道、修行でない享楽の茶道を戒め、「あるべき姿」としての「利休茶道」が改めて問われたのです。武士道の構成要素。外に武道、内に茶道。常に修行を怠らない姿。

それでも尚。明治維新によって茶道は経済的困窮に追い込まれボロボロに。大正数寄者なる人々の時代になってみれば、「道具披露」を主眼とした茶会が行われ、名家から売りに出された名品の数々を以て「戦利品茶会」が行われました。有名な益田鈍翁は流儀茶を軽んじ、茶室で正座する事は無かったという事で「成金茶道の家元」とも呼ばれます。そういった人物が「新時代の茶人筆頭」として君臨していたわけです。(益田氏の資金源である三井財閥は、同時に表千家の庇護者。両者の関係は元々が紀伊徳川の御用商人と御茶頭。商人が金銭の力によって茶道家元の上に立つ下剋上の時代。)

やがて戦争が終わり、千家茶道が再興される。大衆的な稽古・教養としての茶道流行。それは爆発的なもの。今の60歳以上の方々に聞けば、およそ茶道に関わった事の無い人は希少なもの。茶道人口の膨大な量に応じて、桃山茶陶作家が一躍人気を集め、史上最高潮の茶道時代に。しかし「修行」がいつしか「稽古」として認識され、女性が主体となる。茶道の姿が著しく変化する中で、中核の家元だけは伝統的な修行の茶道を護り継いでいく。


そして現在。その方向性は「個人主義的なもの」を反映し、再び「趣味・娯楽」という性質を帯びつつある。そこには再び千家茶道、つまり「千利休の提唱した茶道」=「侘び茶を通じた精神修行」という事が、再び軽視されているかに見受けられる。茶陶も現代様式のものが登場し、およそ自己主張の世界である。何故かそれが「利休が生きていたら支持したであろう」という看板を掲げている。マスコミを通じて、その主張が喧伝されている。 利休は南蛮文物が多く流入する中で、生涯を侘び茶に捧げた。現代に在っても、彼は侘び茶に命を捧げるだろう。ここに、一体何の異論があるのだろうか。適当な事を云って古人を冒涜してはならない。古田織部だって、煌びやかな南蛮文物の時代において、敢えて侘びの範疇で茶道を実践しているのである。積極的に侘びを選んでいる事を、曲解してはならない。


もちろん、流儀茶(千家茶道)のみが茶道ではない。しかしおよそ現代茶道の「利休の名を借りて自らのブランドを高めよう」と云う手段は、「姑息」と断じる他に無い。少なくとも、当代千利休が率いる世界規模の茶道集団が存在しているのだ。その流祖の名を勝手に拝借してよいものかどうか、当然ながら礼儀として心得るべきものがあるだろう。「ぶぶ漬け」が出ている内に気が付いたほうがいい。それこそ、哲学なき茶道・礼儀無用の道具茶である事を示している。有名人の名前を借りなければならないもの、という事だ。織部も同じ。某漫画の著者くらいの勉学はした上で、礼儀を弁えて使うべきもの。

加えて。大衆も、果たして心の底から現代式のものを欲しているだろうか。400年の時を経て受け継がれ、今も欠かさずに利休忌が行われる。800年の時を経て、名品唐物が大切に受け継がれている。我々が想像する以上に、人々は「伝統」を、「和」という文化を愛している。


更に加えて云う。バブルの時代。茶道の隆盛に伴って「百貨店・画廊・陶芸界・骨董界・マスコミ」が組み合っての錬金術が行われた。価格を吊り上げる者、人気作家であると叫ぶ者、勲章札を与える者、褒め称える者、それを宣伝する者。高額所得者から金銭を巻き上げるが如くに、茶道具を「投機」という「賭事」の世界に放り込んだ。

「値が上がる」(上げるのは私ですが)、「世間の評価は高い」(世間とは私ですが)、「次の人間国宝である」(認定するのは私ですが)、「今注目されている」(注目しているのは私ですが)、「新進気鋭の人気作家」(に仕立てるのは私ですが)などなど。1人の作家を囲んで、それに関係する人々が演出して本物に見せる。やがて、その人気を本物に仕立て上げる。

この手法による莫大な金銭収入が百貨店のメイン収入だった。それが、茶道具に対する感性を狂わせ、何も茶道に関わらぬ様な部外者までが、やれ茶室建築、やれ茶道具と云い始め、作り始める。儲けるが為に茶道具に手を出す。「茶碗だから」という理由だけで、価格を吊り上げる。その心は見栄である。元は雑器と云いながら、高額な値段を付ける。何の事はない。商売根性が逞しいのである。もしくは惰性で頭を使っていないだけの馬鹿者である。その値段に見合うだけの修道を行い、学識を磨き、茶の心を探求し、魂を傾けて作り上げたのか。


儲け心。そんな「スケベ心」が見え透いた茶道具。
そんな道具で「スケベ心」に溢れた茶室。
曰く「格好いい」、曰く「可愛らしい」。
曰く「自由である!」

現代らしさとは。某政党のマニフェストの如く、空虚な言葉が躍る。
人気が取れればOK。それが現代らしさなのか。

茶道具が儲かったのはバブルの時だけだ。夢を捨てよ。
今は全く、茶道具なんていうものは儲からないものだ。

吊り上げられた茶道具を求めたのは、同じく成金の富裕層だった。
「スケベ心」に溢れた茶道具を求めるのは、さてどんな人々だろうか。
感じるのは、意図的な流行の扇動。茶道具バブル再来の願い。


現代の茶陶とは何か。そこに「利休の心」は灯されているのか。
なぜ抹茶なのか。「美味」でも「見栄」でもなく「心を平穏にするため」。


これを「古臭い」と云うならば、現代のものは「スケベ臭い」と反論しよう。
一時の享楽に浸るためのもの。それは、禅の修業とは対極に在るものだ。


本質を見失う時代。それは、茶道にとって不幸な時代である。「現代茶道」なるものも、豪奢を捨てて簡便に点前するものが盛んに活動をしている様子。これも「利休」を唱えている。それは別段に好い事かもしれない。しかし組んでいるのが「現代茶陶」である辺り、何かバブル時代の歴史再来を画策しているかに感じてしまう。彼等が伝統系作家を組み込まない理由は何だろう。知らずしての排除だろうか。一度、理念の裏を知るべく応募してみましょうか。どこまで本気なのか、1つ膝を付き詰めて話をしてみたいものだと思っています。


元より、茶道は楽しいもの。利休式の高位な茶事。非常に愉快でありながら、茶も美味しく頂戴して、学ぶことの多いもの。茶の伝統空間があればこその楽しみがある。息苦しい理由は修行の不足ではなかろうか。


茶陶ユニット。「我らこそが伝統の新旗手」と云う主張。こちらとしては、黙っては居られないわけでありまして。冷静に普通の視点で観てみましょう。式正に伝統をやってる人間が居るのです。どちらが伝統でありましょうや。「伝統の御旗」には「積み重ねられた職人・文化の心」が籠められています。広く開かれた門です。しかし、その信用・威光を汚すなどというのは、歴史的門柱にキズを付けるが如きものです。慎重に、敬意を以て扱うべきものです。その御旗。伝統はキズだらけで破れかけている。しかし御旗は御旗です。「他人の褌」で相撲を取る事は許されないものです。


怖いのは・・・「茶陶ユニット」の作家年齢層です。30代が主体。つまり、30年後の陶芸界を暗示するものです。伝統系の次世代作家は存在自体が希少であり、加えて茶陶となれば壊滅的とも云えるくらい。日本工芸会の進展と同様に「伝統茶陶が伝統のみならず茶陶の主導権さえ失う」という危惧を感じます。陶芸に於ける上位画廊も「現代茶陶」を積極支援する方に立っている様で。むしろ現状態の立役者かもしれません。


「古窯会」の構想・・・。「若手作家による伝統会派」と云う署名参加集団。これは現在冬眠中。本格的な伝統を背負う作家は少なく、道も険しい。さてさて、どうしたものか。茶道は揺るがないだろう。信奉者は多く、その視線は今も熱いものがある。少々の逸脱を包容する力がある。けれど、茶陶には屋台骨が居ないから、何とも判じかねる。担う人材も僅かなもの。


求む議論。議論なくして進められてよいものか。
対話なくして捨て置くというのは如何なものか。

コメント

「日本工芸会の進展と同様に「伝統茶陶が伝統のみならず茶陶の主導権さえ失う」という危惧を感じます。」
・・・・・・日本伝統工芸会を主たる活動の場として暮らしております。ご心配ありがとうございます。
日本工芸会は特に茶陶の伝統を意識して活動しているわけではないので同様ということにはなりません。ご安心を。
是非一度講評会をお訪ね下さいませ。ご意見も伺いたく思います。
また若い方々の新しい思想による活動もいかなる形であれその成長を楽しみにしています。
LOVEオークションでは作品を拝見させていただきました。
30年後の陶芸界そして茶陶界であなたがその中心となって活躍されることを期待しております。
> 鎌倉翁様

コメント、ありがとうございます。工芸会に茶陶作家が溢れていたのは戦後すぐでしょうか。作陶を始めた頃、工芸会に茶道具を出品して鼻で笑われた事をよく覚えています。「昔のものに似てるね~」という一言だけでバッサリでした。前後にも同じ若い作家が茶道具を出して同じ目に遭っていましたね。とても懐かしいです。

そんな審査員のマニュアル対応に怒ってしまって。「茶道具は駄目っていう事か?」と聞いたら、「駄目ってわけではないが」と云う返事が返って来ました。「大御所だけが茶道具で入選するのは不条理じゃないのか?」と聞いたら、口を濁されつつ「茶道具出品は問題になっている」と、答えを知りました。決まり切った事を教えないで毎年の出品料を巻き上げている事に、とても不信感を抱きましたが、元々は勉強不足で。工芸会所属の先生に聞いたらやはり、「そりゃ駄目にきまっとるわ」と云われました。

「傾向と対策」を勉強して大壺も作りましたが、「近畿展(京焼・信楽焼)では過去二十年以上、信楽から誰一人として入賞者が選ばれていない」という事実に気付きました。とても悲しかったです。敢えて茶道具を出品し、それ以来応募を取り辞めてしまいました。

工芸会=茶陶のイメージは、桃山再興の巨匠茶陶作家でしょうか。バブルの時期は、工芸会会員という肩書があるだけで、馬鹿みたいな金額で「茶道具」が売れて行ったと聞きます。伝統という名前、工芸会の歴史。伝統工芸会というブランドには、茶道・茶陶に莫大な恩義があると思うのです。その工芸会の方針が「茶道具の出品は問題になっている」と聞いた時、本当に茫然としました。恩義と云っても、今はこんな時代ですものね。

茶道側に入って見ると同じく。「今の工芸会会員は、形は茶道具だが茶味がない!」という言葉を聞きます。「大壺などの技術誇示ばっかりだ」とも断じられておられました。茶道具らしくない、という意味で。ともあれ両者にとって悲しい話だと思います。

若い身ではありますが、そこまでの事が見えてしまうとやるせない気持ちです。茶陶の屋台骨になっていたのは工芸会だったのになぁ、と思ってしまいます。今でも、時々は工芸会に出品したいと思う事はあります。やっぱり当初の憧れでしたからね。

苦しい時代ですが、若い者なりに頑張ってみたいと思います!

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論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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