• 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の28

まだ夜明けまでは随分と時間があるので、もう1つ。読了まで、あと少しです。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の28
p239『正法眼蔵』道元
時節いたらざれば、参師問法するにも、弁道功夫するにも、現前せずといふ。
恁モ見取して、いたづらに紅塵にかへり、みなしく雲漢をまぼる。
かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類なり。
(「時節が来なければ仏性は現れない」と言う。
このように考えて、いたずらに俗世間に戻り、むなしく大空を眺めている。
このようなたぐいは、おそらく天然外道の輩である。)

p249『赴粥飯法』道元
飯食を喫せんに、上も下もはなはだしく急ぎ、
はなはだしく緩からしむること莫れ
(ご飯を頂くときには、あわてて荒々しくしてはいけないし、
いつまでもゆっくり食べていてもいけない)
~~~~~

うまく行かない時節はあるもので。特に芸術家などと呼ばれる職業人は、
「時節が来ていない」ということを慰めにしながら、歩んでいます。
実際、私も随分と、そのような年月を過ごしていたように思います。
それを悲嘆しながら日々を過ごしても、意味はないと分かっていながら。

では、結局どう過ごすかということで。
とにかく色んなことをやってきましたが。

道元の言葉では、座禅をすることが修行の第一とはいいながらに、
細かな日常の、御飯における姿勢までも細かく書き残しています。

学問上のことを、あれやこれやと机上の理想を語ることも大切ですが。
日常の、御飯を食べる姿勢1つまで、その実践を大切にしていく。
日々の、あらゆることを大切にしながら生きていくという訓えでしょうか。

子供のこと、自治会のこと、日々の掃除、挨拶、小さな礼儀。
なかなか、むしろ日々のことを誠実に行うことは、とても難しい。

窯を焚くことは、がんばってやり通せるとしても、
だからといって、日々のことを万全に行うのは難しい。
今日だって、保育園の用意に忘れ物をしてしまって。
晩御飯もちょっと、手抜きだったかなぁ。

全知全能を実践するには、人間の体では負担に耐えきれないもの。
人間の体の出来る範囲で、より良い日々を送っていきたいと思います。


「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の27

子供を寝かしつける時に一緒に寝てしまって、深夜に目が覚めて。
少しコーヒーの飲みすぎで胃が荒れています。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の27
p225『景徳伝灯録』
南獄「お前は座禅をして、どうしようとするのか?」
馬祖「仏になろうと思います」
馬祖「何をしておられるのですか?」
南獄「瓦を磨いて鏡を作ろうと思っている」
~~~~~~
座禅だけしてれば仏になれるというのは、お笑い草であると、
そういった解釈で有名な話だそうです。禅の話らしい、本質論。
まぁ確かに、読経以外何もしない和尚さんって、どうですかね。

庭園職人さんの本を読んでいて気付いたのですが、「真行草」というもの、
茶道を学んでいないと勘違いしやすいのですが、単なる「3形式」だと、
簡単に解釈してしまう場合があって。私も昔はその轍を踏んでいました。
けっこう、本を出版するような名人でも、そんなレベルだったりします。

逆に見ると、茶道の.における識者の書籍にも、陶芸に関しては往々、
そんな感じが散見されるもので、私も、専門外のことは知れたもの。
なかなか、複数のことを究めていくのは難しいということです。

どのような名人でも「全知全能」というのは、逆にちょっとおかしい。
「人間をいくら磨いても、神にはならない」のですから。
自分の足元を踏みしめながら、自分の出来ることを行いたいもの。

瓦は、瓦らしく、瓦の中で磨かれていく。
また、方向性を間違えてはダメという話にも読めますね。

出家どころか修行もしていないのに、仏教者のようなことをしても、
それは随分と浅いものにしかなりません。

いかに茶道を究めていっても、仏教者にはなれない。
茶道でも、仏門に入って参禅修行されてから、御家元になられます。
茶道の茶名はいわば法名ですが、仏道修行者としては半人前なので。
十徳の着物は、薄い布地で、茶名も偉そうに出すものではないそうで。

では茶人って、何者なんだろうって、時々思います。
でもきっとそれは、仏門を大切にしていた時代に、
仏門の中から産まれた茶道の、宿命的なものなのだと思います。
生命の価値が軽かった時代の、武家町人の祈りが在るような。

そんな感想を、素人なりに思ってみたり。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の26

少し風邪を引いたり色々としておりました。七五三の用意をそろそろと。
去年の今頃はやむなく病院に行って、寝込んでました。1年経ったんですね。
神経系の不具合は周期性が多いので、無理は禁物です。


「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の26
p222『正法眼蔵』道元
生といふは、たとへば人のふねにのれるときのごとし
このふねは、われ帆をつかひ、われかぢをとり、われさほをさすといへども、
ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。
(人生とは、人が舟に乗って帆や舵や棹によって舟を操るようなものであり、
私たちは自分の意思で主体的に生きることができます。)
~~~~~~

色々な理想があり、本当はこう在りたいと思う心があり。
しかしなかなか、現実はそう、思う通りにはならないですね。

体が思うようにならないことを嘆いたところで、
私が乗っている舟は、この身体で、この環境で、この家族の場所。
他の舟や、他の世界、天国や来世のことを思ってみても、
しかしそこへ飛べるわけではなく、やはり自分は舟の上です。

道徳というものを学んだりして、とても難しいと思っていたこと。
何か、理想の世界を知ったからといって、居丈高に他人を見下す。
そういうことが、往々にしてあります。とても恐ろしいことです。
芸術家などと嘯いて、他人を見下すような人は、今でも居ます。

私は昔から、そういうのがとても嫌いで。

単に、他人に指示をする立場に在るというだけのこと。
単に、何かを知っているというだけのことで。
社長、労働者、客と店員、先生と生徒、親子。それぞれ立場は違う。
でも、陶芸家の前に、一個の人間であって、社長の前に一個の人間で。
どれだけ立場に差があっても、それは同じことだと思います。

面白いとか、面白くないとか、そういうのはありますよ。
道徳的に良いとか、悪いというのもあるでしょう。
でも、それと、他人を見下すというのは、全く別問題だし、
自分が何か高位の存在になるというものではないですよ。

色々な理想や夢はあるし、肩書も地位も色々ありますが。
結局、だれしもは1人の人間で、それ以上でもそれ以下でもなく。

そう思っているので。
「誰に会っても合掌する心を忘れぬ様に」
という裏千家の言葉が、私は好きです。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

記事内容の分類
過去の記事(月別)
10 | 2019/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
来訪者数(2006.5~)
LINK
リンク
メール送信はこちら
・来窯時などに御使用下さりませ

御芳名:
貴アドレス:
本文の件名:
本文:

不在時・繁忙期などは返信が遅くなる事もあります。悪しからずご了承下さい。もちろん、迷惑メールは駄目ですよ。