• 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の29

DSC_0209.jpg
気がつけば11月も暮れて。先週には無事に七五三も終わりまして。
あれやこれやと、バタバタしながらに日々を過ごしておりました。
すっかりと寒くなって、器の乾燥が遅々として進まない日々です。
一昨日からずっと子供が高熱で寝込んでいたのも落ち着いて。
調子の悪かったPCの調整も、ちょっと落ち着いた様なので。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の29
p254『正法眼蔵随聞記』道元
>極熱極寒には発病しつべしとて、諸僧暫く放下しき。
我其時自思はく、直饒発病して死べくとも、猶只是を修べし。
不病して修せずんば、此身労しても何の用ぞ。
病して死なば本意也。
(極熱極寒のときには発病してしまうだろうと言って
諸僧はしばらくの間坐禅をやめてしまったが、私はそのときに思った。
「たとえ発病して死ぬようなことがあっても、ひたすら坐禅修行をしよう。
病気でもないのにこの体をいたわってどうするというのだ。坐禅して病気
になって死ぬのなら本望だ。」
~~~~~

昭和の頃までは、ほとんど日本人の仕事観や、人生観というものが、
これに準じていた様に思う。今は「精神論なんて古臭い」という、それだ。
職人の修行なんていうものも、とにかく理不尽だろうが何だろうが、
無理に無理を重ねながら耐えていくものだという側面があった。
病気になってしまったら「それは運がなかった」という、そんな感性だ。
私も、そういった感覚で走ってきて、見事に病気を得たわけであるが。

文章は道元の修行時代の感慨だから、長じてからも弟子に厳しい坐禅をさせ
たか、そういった所は分からない。ただ、古来中国でも、うつ病など、勉学に
無理を重ねすぎると脳が壊れるということはよく知られていて、病名もあった。
厳しい科挙試験に関する記述で、異常な努力で精魂尽き果ててなる病気だ。
試験に通れば身分を問わずに官僚になれたのであるから、人生どころか、
家を挙げての期待と財産を注がれて、その重圧は並みのものではなかった。
だから、中国の修行では過剰な無理をさせていなかったのかもしれない。
弟子が死んでしまうような修行を課していくことが、仏道とは思えない。

厳しい修業とは、自分の体をも捨てるようにして打ち込むもの。

風邪1つだって、昔は薬もなかったわけであるから。思っている以上に、
この道元の言っていることは、本当に命懸けの修行をやっている話だ。
もちろん、現代でこれを他人に強要していくことは、言語道断のことだ。
結局、修行というものは、本人にどれだけの意思があるかどうかになる。
他人に強制されてやったとしても、要はパワハラで、早々に病気になる。
自分で望んでやっていても、病気になるときは、なってしまうのだから。

打ち込んでいくことで得られるものは多い。賭けのようなものだ。
気がつくと、修行そのものが目的になって、初心を忘れることも多い。
なかなか、とにかく頑張っていれば結果が出るというわけでもない。
修行というのは、口でいうほどに簡単ではないと思う。

道徳だって、本気の実践は簡単ではないものだと思います。
なかなか、ジョギング1つでも、極寒い日、雨の日、酷暑の日もある。
一方、身近では子育てなど、悩みながらも日々やれるだけのことを、
無理をしながらに頑張っている人は多いかと思います。

心の底から打ち込むっていうのは、やはり「好き」じゃないと辛い。
そういったところで、本気で「道徳の実践」に打ち込めるとすれば、
人間に深い愛情をもった人でこそ、なのでしょう。
道元は人々を救うための仏道のために、命を賭けて海を渡り、
命を賭けて修行して、それだけ、仏道を熱心に行った人だという事。

そういったことが出来る人を、導いて、育て、継いでいく。
枝葉の技術伝承なんかに、惑わされてはならないもの。
それが「道」の、本来の伝統というものだと思います。


「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の28

まだ夜明けまでは随分と時間があるので、もう1つ。読了まで、あと少しです。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の28
p239『正法眼蔵』道元
時節いたらざれば、参師問法するにも、弁道功夫するにも、現前せずといふ。
恁モ見取して、いたづらに紅塵にかへり、みなしく雲漢をまぼる。
かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類なり。
(「時節が来なければ仏性は現れない」と言う。
このように考えて、いたずらに俗世間に戻り、むなしく大空を眺めている。
このようなたぐいは、おそらく天然外道の輩である。)

p249『赴粥飯法』道元
飯食を喫せんに、上も下もはなはだしく急ぎ、
はなはだしく緩からしむること莫れ
(ご飯を頂くときには、あわてて荒々しくしてはいけないし、
いつまでもゆっくり食べていてもいけない)
~~~~~

うまく行かない時節はあるもので。特に芸術家などと呼ばれる職業人は、
「時節が来ていない」ということを慰めにしながら、歩んでいます。
実際、私も随分と、そのような年月を過ごしていたように思います。
それを悲嘆しながら日々を過ごしても、意味はないと分かっていながら。

では、結局どう過ごすかということで。
とにかく色んなことをやってきましたが。

道元の言葉では、座禅をすることが修行の第一とはいいながらに、
細かな日常の、御飯における姿勢までも細かく書き残しています。

学問上のことを、あれやこれやと机上の理想を語ることも大切ですが。
日常の、御飯を食べる姿勢1つまで、その実践を大切にしていく。
日々の、あらゆることを大切にしながら生きていくという訓えでしょうか。

子供のこと、自治会のこと、日々の掃除、挨拶、小さな礼儀。
なかなか、むしろ日々のことを誠実に行うことは、とても難しい。

窯を焚くことは、がんばってやり通せるとしても、
だからといって、日々のことを万全に行うのは難しい。
今日だって、保育園の用意に忘れ物をしてしまって。
晩御飯もちょっと、手抜きだったかなぁ。

全知全能を実践するには、人間の体では負担に耐えきれないもの。
人間の体の出来る範囲で、より良い日々を送っていきたいと思います。


「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の27

子供を寝かしつける時に一緒に寝てしまって、深夜に目が覚めて。
少しコーヒーの飲みすぎで胃が荒れています。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の27
p225『景徳伝灯録』
南獄「お前は座禅をして、どうしようとするのか?」
馬祖「仏になろうと思います」
馬祖「何をしておられるのですか?」
南獄「瓦を磨いて鏡を作ろうと思っている」
~~~~~~
座禅だけしてれば仏になれるというのは、お笑い草であると、
そういった解釈で有名な話だそうです。禅の話らしい、本質論。
まぁ確かに、読経以外何もしない和尚さんって、どうですかね。

庭園職人さんの本を読んでいて気付いたのですが、「真行草」というもの、
茶道を学んでいないと勘違いしやすいのですが、単なる「3形式」だと、
簡単に解釈してしまう場合があって。私も昔はその轍を踏んでいました。
けっこう、本を出版するような名人でも、そんなレベルだったりします。

逆に見ると、茶道の.における識者の書籍にも、陶芸に関しては往々、
そんな感じが散見されるもので、私も、専門外のことは知れたもの。
なかなか、複数のことを究めていくのは難しいということです。

どのような名人でも「全知全能」というのは、逆にちょっとおかしい。
「人間をいくら磨いても、神にはならない」のですから。
自分の足元を踏みしめながら、自分の出来ることを行いたいもの。

瓦は、瓦らしく、瓦の中で磨かれていく。
また、方向性を間違えてはダメという話にも読めますね。

出家どころか修行もしていないのに、仏教者のようなことをしても、
それは随分と浅いものにしかなりません。

いかに茶道を究めていっても、仏教者にはなれない。
茶道でも、仏門に入って参禅修行されてから、御家元になられます。
茶道の茶名はいわば法名ですが、仏道修行者としては半人前なので。
十徳の着物は、薄い布地で、茶名も偉そうに出すものではないそうで。

では茶人って、何者なんだろうって、時々思います。
でもきっとそれは、仏門を大切にしていた時代に、
仏門の中から産まれた茶道の、宿命的なものなのだと思います。
生命の価値が軽かった時代の、武家町人の祈りが在るような。

そんな感想を、素人なりに思ってみたり。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の26

少し風邪を引いたり色々としておりました。七五三の用意をそろそろと。
去年の今頃はやむなく病院に行って、寝込んでました。1年経ったんですね。
神経系の不具合は周期性が多いので、無理は禁物です。


「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の26
p222『正法眼蔵』道元
生といふは、たとへば人のふねにのれるときのごとし
このふねは、われ帆をつかひ、われかぢをとり、われさほをさすといへども、
ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。
(人生とは、人が舟に乗って帆や舵や棹によって舟を操るようなものであり、
私たちは自分の意思で主体的に生きることができます。)
~~~~~~

色々な理想があり、本当はこう在りたいと思う心があり。
しかしなかなか、現実はそう、思う通りにはならないですね。

体が思うようにならないことを嘆いたところで、
私が乗っている舟は、この身体で、この環境で、この家族の場所。
他の舟や、他の世界、天国や来世のことを思ってみても、
しかしそこへ飛べるわけではなく、やはり自分は舟の上です。

道徳というものを学んだりして、とても難しいと思っていたこと。
何か、理想の世界を知ったからといって、居丈高に他人を見下す。
そういうことが、往々にしてあります。とても恐ろしいことです。
芸術家などと嘯いて、他人を見下すような人は、今でも居ます。

私は昔から、そういうのがとても嫌いで。

単に、他人に指示をする立場に在るというだけのこと。
単に、何かを知っているというだけのことで。
社長、労働者、客と店員、先生と生徒、親子。それぞれ立場は違う。
でも、陶芸家の前に、一個の人間であって、社長の前に一個の人間で。
どれだけ立場に差があっても、それは同じことだと思います。

面白いとか、面白くないとか、そういうのはありますよ。
道徳的に良いとか、悪いというのもあるでしょう。
でも、それと、他人を見下すというのは、全く別問題だし、
自分が何か高位の存在になるというものではないですよ。

色々な理想や夢はあるし、肩書も地位も色々ありますが。
結局、だれしもは1人の人間で、それ以上でもそれ以下でもなく。

そう思っているので。
「誰に会っても合掌する心を忘れぬ様に」
という裏千家の言葉が、私は好きです。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

記事内容の分類
過去の記事(月別)
10 | 2019/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
来訪者数(2006.5~)
LINK
リンク
メール送信はこちら
・来窯時などに御使用下さりませ

御芳名:
貴アドレス:
本文の件名:
本文:

不在時・繁忙期などは返信が遅くなる事もあります。悪しからずご了承下さい。もちろん、迷惑メールは駄目ですよ。