「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の25

夜中に更新。ガス窯の昇温待ち。3時頃には終わるかな。
御近所のおじいさんが亡くなられ、今日が通夜でした。
明日は終日葬儀。高齢化の著しい農村は、さびしい話が多いです。
一方で、工房には6頭の鹿が来ていて、4頭が子鹿さんでした。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の25
p204『正法眼蔵随聞記』道元
善悪と云事、難定。世間の綾羅錦繍をきたるをよしと云ひ、
麁布糞掃をわるしと云。仏法には是をよしとし、清とす。
金銀錦綾をわるしとし、穢れたりとす。如是一切の事にわたりて皆然。
(善悪ということは定めることが難しい。
仏道修行者は、欲を離れた世界に生きる者であるから、世間の人が
欲するようなものから離れ、世間の人が欲を起こさないようなものを
よいもの、清いものとして用いるのであることを説いている。)
~~~~~~

悪事をしてはならない。これは仏教の基本中の基本の教え。
法律は「悪事に対する刑罰」を定めているけれど、「善」は定めていない。
それぞれの環境や立場によって、善悪というものは目まぐるしく変わる。

保育園では他人を押しのける子供というのが一定数居るものだ。
多くの場合、その保護者は、意外なほどに見ているだけである。
というか、見ていない。押し倒して怪我させることさえある。
そりゃぁ、押している子供には罪はない。指導しない親が悪い。
「叱らない教育の善悪」は、どちらとも言えない功罪がある。

行動の善悪の定めがたいことは、確かなことかもしれないけれど。
しかし、明らかな「悪い」というものは多く存在しているし、
同時に、明らかな「善い」というものも、多く存在する。

難しい、教育論だの、労働環境だの、世間話の重要性など、
そういった高度な思考を行う前に、「怪我をさせることは悪」と、
まず第一に教えなければ、子供が可哀そうではないか。

まぁ、それは置いておくとして。

茶道でよく云う「侘び寂び」っていう概念は、これです。
特に美術史評論家に語らせると、説明を避けることも。
それが「人の欲望を起こさない粗末なもの」だとなれば、
色々と都合が悪いというか、捏ね繰り回して別解釈にしたいらしい。
そういう場合、まぁ茶道さえやってないような学芸員。

利休の「木守」の逸話は有名だ。楽茶碗が沢山に出来上がって、
それを、良いものから弟子など順番に売り払い、最後に残ったものを、
自分の所有物として「良いものが残った」と、選びとったという話。
なぜ、それが「良いもの」なのか。それは人の欲から残ったものだから。
美術評価的な話をしているのではなく、仏教の話をしているのだ。

利休は、「人がうらやむ様な茶道具」を並べて「道具で客人を呼ぶ」という、
そんな茶会の状態から、仏道修行の原点へ茶道を回帰させ、大成させた人物だ。
だからこそ、1つ残った茶碗を、「善いもの」としたのだ。

それは、禅僧が喜んで粗末な法衣を好むことと、貫徹した思想。
利休の「木守」の逸話は、「彼が禅僧として堂々と在ったことを示す逸話」なのだ。
それは、仏僧が尊敬されていた時代において、とても大切な逸話だったけれど。
現代となれば、それがなぜ、重要な逸話として語られるか、理解できないだろう。

この当時でいえば、比叡山の僧よろしく、僧もまた道徳的には崩れていた。
その金銀財宝、今でいえば高級外車を乗り回し好き放題という状況に、
そして民衆は飢餓と戦乱に苦しめられているのを見て見ぬ振りをして、
そんな環境に、わざわざ仏教本来の茶道へ改革をしたのだ。

「木守」の逸話を、正面から受け止めるのであれば。

現代の楽茶碗は「人がうらやむような茶碗」になっているのはどうか。

当時、耐久性の高い焼物は、材料費も高額で、売値も高級品だった。
それに対して、利休が考案した茶椀が、楽茶碗だった。
楽茶碗は、技術的にも簡素で、耐久性が低く造られているのが特徴。
形も、仏教器具の様式に似通っているもので、特別ではない。

これを、「至高の目利きを持つ美術家」とは、正確な評論だろうか。

今の茶会には高価な、数百万というような道具が並ぶこともざら。
御料理も、特別の料理人が出張して作っているものであるし。
花1つ取ってみても、野に在るものではなく、特別な高山植物だ。
道具から、ちょっとしたものから、建築まで。加えて、着物も。
それが、昭和から発展してきた、現代の茶会様式になっている。
一種、道具の目利きを誇るような、そんな風情がある。

茶道発展には「資産家の趣味」としての途中経緯があり、
とてもとても、人がうらやむような、そんな場になっている。

茶陶においても、それに乗って「最高級品」の地位を作った。
それは、桃山時代でも同じような経緯で、最高級品だったが。
本来、利休茶道では、何が「善い茶道具」だったのか。
それを考えると、高額で取引される茶陶というものは・・・

そう。信楽が取り上げられたのは、なぜか。
粗末な、素朴な、その極みにあったからで。
それが、人の欲しがるものになったならば。
・・・禅僧利休は、それを愛しただろうか。

私は今、それを思い、それに気付いている。
ずっと、その矛盾に決着が付けられなかったが、今は判る。

美術的な評価軸と、仏教的な評価軸の違い。
美術的な評価軸は、一種の普遍的な美というものがあるけれど。
仏教的な善悪でいえば、高級品になった粗末な壺は、もう違う。
そう。民芸品が、高級美術品になった時点で、民芸でない様に。
これと同じことが、茶道具にも言えるのだ。

茶陶が、高級美術品になってしまったら、茶道にはそぐわない。
茶陶もまた、実は、そんな自己矛盾を内包しているのだ。

本当の「善い」茶道具って、なんだろう。
それは、世話になった方の手作り品であったり。
悟りを得た高僧の手になるものであったり。
知り合いの手によるものであったり。
地元の材料を使ったものであったり。

そういう評価軸で、ものを見ていく必要がある。
その上で、美的価値のよいものを選んでいくくらいなものだ。

まぁそういうわけで。「茶道具で儲けよう」ってのは、違う。
寺社の建築が、奉納されるものとして技を競ったような。
決して、利益目的ではないものとして、在るべきかなぁ、と。

だから。

薪窯の作品は、売ることを目的にせず。
ただただ、自然を移し込んだものを、自己満足で目指してみたい。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の24

幼稚園の遠足は名古屋水族館でした。大雨の平日昼間なのに超満員。
幼稚園児と小学生の御一行様でスゴイことになってました。
10月金曜は毎週のことらしい。これもまた、全然知らなかった世界。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の24
p195『正法眼蔵』道元
すでに雪裏の梅華まさしく如来の眼睛なりと正伝し、承当す。
(教えを受けて、雪の中に咲いている一輪の梅華が、
まさに如来の眼であると知り、
そのことをしっかりと受け止めることができた。)
~~~

仏教について、子供の頃に教育を受けたでしょうか。
全く漠然としたことしか知らないのが、全く普通のこと。

日本史において、文化、建築や工芸だけでなく、道徳まで。
仏教は日本人の特質に非常に密接な関係をもってきたので。
宗教の分離という理由だけで仏教思想を教えずにおくと、
日本の歴史の実像というものは、正確には理解されない。

日本史を読んでみて、歴史ドラマを見て、そこに出てくる
登場人物、武将から貧しい農民まで全てが仏教徒であり、
その様々な生活や、祈り、祭りに仏教の影響があるとは、
さて感じられるだろうか。

それは茶道にも同じことで、素人目には、
それが禅仏教の修行作法とは、感じられない。
しかしそこには、実は仏教が存在している。

目の前に仏教が行われていることに気付いていと、、
「平凡な梅花の姿に、実は如来が居ると気付く」と、
見えないものが見えてくると、評価も変わる。

仏道というものを学んでみると、非常に多くの日本文化・工芸・
あらゆる思想面において、仏教が切り離せないものだと気付く。

学校で教えられてきた仏教史は、どんなものだったか。
「悲しい戦国の時代に、南無阿弥陀仏を唱えながら、
その厳しい現実に目を背けて、来世の天国を祈る。」
およそ、そんな感想しか抱かなかった。

加えて、仏僧の悪行の歴史などが語られるばかりで、
功徳などについて語られることは少なくって。
小さな村1つ1つに存在する、寺院についても、
古き建築を評価するくらいのものでしかない。
なんで、そんな風に、小さな寺院が山のようにあるのか。
昔の人が、どのような思いで生活を送っていたのか。
苦しみの中、どれほどに、神仏を頼りにしていたか。

近代革命から現代。この百年で行われた思想改革は深い。

仏教は「現世に絶望して背を向ける教え」ではなくて、
現世に仏道を行っていくことで、より良い現実世界が、
少しづつ広がっていくことを祈っているものだ。

裏千家の”ことば”に「誰に会っても合掌する心を忘れぬように。」
「豊かな心で人々に交わり、世の中が明るく暮らせるように」
という文言がある。茶道の理念を、家元が現代語にしたものだ。
現代の社会に交わって、道徳を広めていくことが仏教理念。

「宗教への色眼鏡」の弊害は、とても大きい。

「自由」と「進歩」を両輪に、目先の展開ばかりを追い、
経済指標の発展こそ善であるとして。
今でも、寺院の評価には、まぁ経済効果ばかりを褒めたたえる。
仏教の檀家と墓と、そんな制度は、古臭い前時代的な遺物と。
そのような側面も、実際にはあるし、そうなりつつある。

色々な、古い建築物や、文化を助成していくこともいいけれど。
その根幹を成立させていた仏教を排除していくと・・・、
さて、文字通り、中身のないものが残ることになる。

うーん。中身と外身、どっちが大事なものなのか。
今の評価では、仏僧よりも建築を大切にしている。

利休さんが、高僧として茶道を大成させたものが、
いつのまにか利休の美学とか、芸術家になって。
利休の愛した道具が、美術評価軸になって。
茶道具が、「芸術的な現代工芸」で塗り替えられていく。

それが、日本の「進歩」として「旗振って推進」されている。
めんどくさいもの、金にならないものは、放り出せ!

私はそんな感想を抱いているのですが。
中身のない時代になってきたのだけれど、
それでいて、人事評価は人柄、中身、中身と。
仏教的な献身者を求めていたりして。

経済という評価軸と、道徳という評価軸の、いいとこ取りがしたい。
そんな、現代社会の強欲振りが、人間を摩耗させて、
「幸せな社会」というものから、遠くなっているような気がします。

仏教という大黒柱を引っこ抜いて、
その代わりに経済を大黒柱に据えて、
歪みを調整中という辺りが、今の歴史でしょうか。

歴史が育んできた、日本人の仏教的な特質というもの。
その供給源を断っておきながらに、それを求めていく。

ちょっと、ホント、強欲じゃないですかねぇ。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の23

書籍の中身も、順を追って話が深まっていくので。
そろそろ私の理解の及ぶ範囲では難しくなってきた感触です。
本日は2記事目。終りまで残5記事くらいかな。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の23
p177『正法眼蔵』道元
船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、
ただまろにのみみゆ。さらにことなる相、みゆることなし。
しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、
のこれる海徳、つくすべからざるなり。
宮殿のごとし、瓔ラクのごとし。
ただわがまなこのおよぶところ、
しばらくまろにみゆるのみなり。

(船に乗って陸地の見えない海原に出て四方を見ると、
ただ丸く見えるだけだ。他に違った景色など見えない。
しかしながら、この大海は丸いのではない。四角いのでもない。
私たちの理解を超えて、海の功徳は計り知れないものだ。
同じ水を魚は宮殿と見、天人は首飾りと見るかもしれない。
ただ自分の眼が見渡せる範囲において、仮に海はまるく見えるだけなのだ。)
~~~

地球は丸いんだけれど、その話は置いておきましょう。

随分と昔から、茶道の書籍から入り、禅、仏教、儒教、神道の話など、
様々に読んではみたけれど、時々に応じて、その理解度は全く違う。
見えているものが、深くなっていく。

今見えているものが、全てではない。

最初、陶芸を始めた頃は、ただただ、自分が良いと思う、
要は素人と同じく、個人的嗜好によって、器を見ていた。
そこから、とにかく、世の中の器というものを、図録で見て、
おおよそ、どういうものがあるか、全てを把握したつもりになった。
そして、全国の美術館博物館を歩き、陶芸家を訪ね、実物を見た。
個展に足を運び、最新の器にも見聞を広めた。

その時点で知り得ることが出来る、相当部分を学んだだろう。
それで、およそ全ての器のことを、知ったつもりになった。
実際、それだけのことを学ぶだけでも、圧倒的な知識量で、
他の陶芸家志望の同輩と比べても、全く抜きんでていた。
多くの学芸員や、美術館職員にも、これをする人は稀だ。

でもまぁ。ロクロを進めれば、ロクロの上手さへの知見が深まる。
粘土を掘り、薪窯を実際に焼くと、希少性の評価軸は別物になる。
茶道を進めていくと、本当の侘び寂びによる評価軸が加わってくる。
実地の製作経験からくる評価軸と、茶道の評価軸を合わせることで、
茶陶を両面から総合評価していくことが出来るようになる。

ここまで来ると、もう、器を見た時に感じるものは、全く別だ。
同じ器を見ても、同じ図録を見ても、全く違うものを見ているに等しい。

世に在る、その時に見れるものを、全て見て歩いたとしても、
「見えていない器がある」という事だ。

美術館へいって、昔の井戸茶碗を見て、
古びた汚らしい茶碗だと見るかもしれない。
どう思ってみても、それ以外には見えない。

それが、茶人からすれば魅力的に、
陶芸家からすれば、技巧の極致に見えている。

そういうことが、職人や伝統や、芸術の世界にはある。

人付き合いも同じことで。

見えていないことがあるだけで、それぞれに一生懸命だと、思うから。
人間の価値を、年齢や能力で測定するのは、くだらないと思う。
それが身に付いてきて、私も、名誉や、褒賞に執着しなくなった様に思う。

そんな感想です。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の22

草刈りがないと、色々な作業が出来て助かります。
随分と寒くなってきましたが、紅葉はまだまだですね。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の22
p161『正法眼蔵』道元
仏道をならふということは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、
自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり。
(万法:あらゆる存在、もろもろの現象)
~~~

道元の言葉で、最も気になる言葉でもあり、難解に感じてきた言葉。

茶陶のいう「無作為」について、「意図的な無作為というのは、作為」
だということは、理論として簡単に理解できるのだけれど。
では、どうやれば無作為の境地に行けるのかということになる。

吾我を離るるには、観無常是れ第一の用心也。
世人多、我は元来人に能と言れ思はれんと思ふ也。
其が即よくも成得ぬ也。
『正法眼蔵』道元

道元の言葉によれば、
人に善人だと思われたいと願っている限り、成り得ない。
無常を目の当たりにすることが、第一という話がある。

無作為を必死に目指している限り、そこへは到達しない。
では、無常を目の当たりにするとは、何だろう。

道元は「自己を捨てて」「万法に証せらるるべし」という。
つまり、「世の中の、あらゆるものに、悟らされるべし」という。
自然のあらゆるものが、無作為にしてとても美しいことに気付く。
山並みの奇麗なこと、作為的な五岳の茶碗に比べて、どうか。
青空の奇麗なことも、作為的な青の色彩に比べて、どうだろう。
子供の命の、純心なことは、どうであろうか。

対比して、作為的に作ったものの、醜いことには愕然とする。
おそらく、ここに気付くことが「観無常」に相当するのだと思う。

また別方面のことで、陶芸は作者の心構えを反映した結果のもの。
だから、最終的には仏法のように、我執を捨てる所まで進む必要がある。

それで、私も随分と、自分のことは捨て置いて、頑張ってきたけれど。
それも結局は、「いつしか成功を納めるための我慢」と、欲望が根源。
間違っていると思ったことを、敢然と言えなかったこともある。
振り返ってみると、色々なものを棄てられずに、抱え込んで。
結局、自分で悟ったのではなく、病気で手放したわけですが。

この、道元の言葉が、ようやく少し、実感として分るようになりました。
それが、今後、どんな器を作っていくかということに、成ると思います。


「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の21

今日はお祝いの日で子供も休み。普通に勤務している会社が多いらしいですね。
先日も、子供を連れて公園に行ったのですが、そろそろと、下の子も、
1人で行きたいところへ走り出していくようになって。
私1人で面倒を見れていたものが、ちょっと厳しくなりつつあります。

というわけで、御飯が炊けるまでの間に2記事。

p157『正法眼蔵』道元
諸仏諸祖は道得なり。
このゆえに仏祖の仏祖を選するには、
かならず「道得也未」と問取するなり。
(本当に悟ったものであるならば、仏法を表現することができる。
ゆえに、師匠が法を授けるべき弟子を選ぶ時には必ず、
「表現できるかどうか」と質問し、
仏法を表現することが出来た者を後継ぎとする。)
~~~

「教外別伝」。言葉よりも実践を重んじる禅ですが、
道元の『正法眼蔵』は百巻からなる膨大な書物ですし、
禅語と呼ばれるものも、沢山に存在しています。

要は、悟ったことについてならば、自分の言葉や体験に基づいて、
言い換えたり、別の表現で言い表したりすることが出来る。
悟るまでのことは、修行の実践が大切であるけれど、
悟ったならば、それを言い表すことが出来る。

その、悟った人が表現した言葉が、禅語。
その、悟った人が書いたものが、お軸。

だから、茶席が禅である限り、そこに掛ける御軸が、

「高僧によって書かれた悟りの言葉」

となる。芸術性なんて関係ないのだ。
利休の時代においても、意味も分らずながらに、
中国の高僧による書をありがたく掛けていた。

それは芸術性を賞味していたのではなく。
それが高僧の「悟りの精華」であることに拝謁したものだ。
だから、究極的に言えば、禅語の意味さえも関係ない。
誰が書いたのか。その一点こそが根幹になっていることが分かる。

勘違いした文化人気取りの、トリエンナーレなどの茶会へ行けば、
まずまず、こういうことを知らないで、「若手芸術書家」を掛ける。
恥ずかしいことというか、いや厚顔なことと言うか。
それでいて「伝統文化とのコラボ」などというのが、お決まり。

まぁ、そんなことはどうでもよくて。
批判は出来ても、私とて、はてさて。

分かっていることは、書けるけれど。
知らないことは、借り物でしかない。

茶道には、悟りを得るほどに修行された仏僧はほとんど居らず。
そうすると、まだ「悟っていない」のですから、表現は出来ない。
大きな声で、道具の論評を繰り広げる場所でもありませんので。
それで、静かに茶を頂くことになります。
喋るのは、亭主と主客。この理由が納得されます。

もちろん、私も素人です。座禅の体験もしたことがないド素人です。
茶道と陶芸を修行してきた中で、その感想を書いているに過ぎません。
それでも、以前に比べれば、沢山のことが見えるようになりました。

禅のことも、以前なら、読んでも全然、理解出来なかったものです。
少しは、修行の甲斐もあったということでしょうか。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の20

読書感想文が日課のようになってきました。昔は毎朝、書いていましたからね。
自分の頭の中を整理整頓するのは嫌いではないらしいです。読解はよいのですが、
ちょっと、普通の方よりも記憶力が乏しいので、文章は暗記できないのですけれど。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の20
p140『正法眼蔵』道元
善因楽果(善因善果):善を行えば、楽という結果がある
悪因苦果(悪因悪果):悪を行えば、苦という結果がある
造悪のものは堕し、修善のものはのぼる、毫釐(ゴウリ)もたがはざるなり。
~~~

日頃、私が子供に訓える時にも、「善いことをしていれば、善いことがあるし、
悪いことをしていれば、悪いことばっかりになる」と言い聞かせています。

もちろん、今の社会では、正しいことをして、損をすることも多いです。
少しばかり狡猾に立ち回るくらいのバランスが得するようになってます。
それは、子供の世界でも同じことです。イジメの問題だって、そうです。
断固として正しいことを行っても、評価されないことは多々あります。
良い結果どころか、「善を行って苦という結果」になることもあります。

但し、それは外面的な話です。

内面は、そうやって狡猾な実践を行うほどに、堕落していきます。
内面は、正しいことを実践していれば、堕落なぞしません。
仏教の言う「善悪」とは、そういうことです。

いじめに屈して、いじめに加担することをやっていれば、堕落していきます。
いじめを否定して、それに抗っている限り、善の心は守られます。

私が通っていた学校は暴力の嵐が吹き荒れていましたが。
そこでは、「いじめられている子供同士」が殴り合いをさせられて、
「いじめられている子供が万引きをさせられて捕まる」という、
まぁ、そんなひどいことが、日常茶飯事で行われていました。
いじめられている子の髪を染め上げて、髪を削り、
「コイツは万引きして、髪はモヒカンの金髪で、俺より悪いやつだ」と。
文字通り、「善」をやることは、「苦」以外の何者でもありませんでした。
そんな場所では、生徒の総意としての会長選挙も、不良集団から選出。
私がやったイジメの撲滅の話は、いとも簡単に潰されてしまったものです。
子供の世界は純真であるとか、そんな話はどこにもありませんでした。

道元の生きた時代も、利休の生きた戦国時代も、大人の世界も荒れ、
加えて命の危険があったことでしょう。

孔子のことを考えてみても、善を行うことは、簡単なものではなく。
正しいことをやっていれば、お金持ちになって成功するなんて保証はなくて。
残される保証があるのは、正しい心です。

私も、残念ながら裕福とは程遠い生活ですけれど、
素直な子供達と家族に囲まれて、平穏幸福な生活を送っています。

正しいことを行うというのは、そういうことだと思っています。
騙し、騙され、憎み合うことは、愚かなことです。
悪いことだと思えば、手を貸さず、時に否定も必要で。

「善を実践しよう」というのが、元々の仏教の教えで、伝統的な道徳の基礎。
寺院は、実践方法を人々に伝える中心を担う役割で配置されていたもの。
そういった仕組みが解体されて、新興住宅には寺院もないし、タワーマンション
にも、もちろんなく。まるで伝統建築の観光地のような、見に行くだけの場所。
古い寺院を、宗教部分を除外した「観光資源」にするのが、良いこととされ。
経済的には「楽の結果」があるかもですが。うーん。「善」なのかなぁ、って。

道徳教育の中心が失われた時代になって、学校には代替機能もなさそうで。
特に、大人になってからの道徳は、個人の自由に委ねられるようになって。

およそ、どの国にも、日本の寺院に相当する「教会」などが現存しているので。
外国の人が言う「無宗教って、怖い」っていう時代を、我々は進もうとしている。

「無宗教の個人主義でいけるのかどうか」は、これからの世代です。
正直な感想として、これは無謀だと思うのですが。
経済第一主義で、大成功をしてしまったが故の、反動でしょうね。

「日本」っていうお寺さんが、お墓営業で大成功して裕福になって、
収入が落ち着いてきても、やっぱりお墓の営業を盛り返そうと思っていて。
観光収入に目をつけて、寺院の庭を、観光用に改装をやろうかなぁ、って。
新事業ばっかり考えてて、昔は真摯な仏教徒だったことは、忘れつつある。
評価されている文化や工芸、尊敬される思想は、仏教徒の頃のものなのに。
そうして、経済を軸にしてるから、語られる道徳も、利得次第で右往左往。

日本全体の歴史としては、そんな感じじゃないかなぁ。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の19

薪の手配をしました。去年は薪の調達もうまくいかず、という次第だったので。
ちょっと心配をしていたのですが。何とかして下さるそうで、ありがたいことです。
こうして体調を崩してみると尚更に、粘土精製や作陶は何とでもなるけれど、
薪の調達というのは非常な重肉体労働、もしくは重機必須で、1人では難しいのです。

そうそう。図書館に本を返却しなければならないので。
同じ書籍を注文して買い求めました。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の19
p123『正法眼蔵』道元
仏祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して断絶せず。
発心、修行、菩提、涅槃、しばらくの間隙あらず、
行持道環なり。
(仏や祖が歩んだ大いなる道には、必ずこのうえなく尊い行持がある。
この行持はまるい輪のようにはじめも終わりもなく、絶えることがなく、
発心、修行、菩提、涅槃といった行持の間には、少しも隙間がない。
これが行持道環である。)
発心:仏道を求める心を起こし修行に入り
修行:久しく修練を行い励むことで菩提を得て
菩提:成道(悟りを開く)して涅槃に入り
涅槃:煩悩を滅した覚者になる。
「自未得度先渡他」
(自分より先にいっさいの人々を悟りの世界に渡そうとする心)
~~~~

「修行に終わりはない」という言葉。
古くからの概念というものは、古来から日本人が伝統的に信奉してきた、
仏教か儒教を探してみると、その源流が見つかることが多いです。
聖徳太子に始まって、日本は近年まで、明白な仏教の国でしたからね。

先にも「無所悟」という言葉が出てきていましたが。
どこかに終点があると思うこと自体が、間違っていて。
「悟りだの何だの」ということよりも、
「日々をしっかりと、歩み続ける実践そのもの」が大切。

仏教では、すべての人々を救い終わってから、自分を救う。
すべての人々を救い終わることはないのだから、その行は終わらない。
(「自未得度先渡他」)

こういった概念があるそうです。「お先にどうぞ」ですね。
昔から、戦国談話などでも殿(しんがり)の美談として言われるものも、
やはりこういった価値観があってこそのものでしょうか。

本来、伝統は「受け継ぐ」と共に「引き継ぎ」を行わなければなりません。
近年は積み重ねられた価値を食い潰してしまう、「受け継ぐだけ」の例も多く。
「信楽焼」のブランドも、随分と落ちたものになっています。
なぜでしょう。

甲賀の古い家々の、御高齢の人々。亡くなった祖父や祖母などは、
稼いだものは「○○家の財産」という概念が強いといいますか。
家の建て直しなどには惜しまず散財するけれど、自分の娯楽には使わない。
それは、この先、「○○家を背負っていく人々」への思いやりです。
自分を救うよりも、他の人々のことを優先するという仏心です。

すでに、そういった世代の方は大半が亡くなられつつあり、
宗教とは無縁か、僅かに墓参りに会う程度の縁しかないことが大半で。
更に我々の世代ともなれば、まずもって、縁のある仏僧さえいません。
墓が必要だと思っている人も少ないし、戒名も不要という人がホトンド。

もう、仏教は受け継がれていないのです。
葬式でも、お経さえ読めない、読まない。

だから、今の時代の人には、根底となる仏教的な価値観が通用しない。
世代が進むほどに、価値観の断絶⇒転換が大きくなっていくでしょう。

仏教を差し引いた道徳には、矛盾というか、理論に骨格がないから。
そういうものは、教育というより、御仕着せの道徳になっていく。
そんな机上の空論で、現実の厳しさに勝てるわけがない。

日々の労働は対価あってのもの。賃金は自分のためのもの。
苦しい勉学や修練も、向上・名誉のためにやるもの。

仏教による「自分より他者を救う理想像」への「支持」が外れて、
これから、何を基盤にして道徳を語っていくのかなぁ、と。
他の国であれば、キリスト教にイスラム教などなど、あるわけですが。
伝統的な価値観の背骨である仏教色を除外しつつ、道徳を教える。
そんな難しいことを、教師に押し付けて、出来るものかなぁ、と。

茶道が、仏教色を排除したようにしながら語られているように。
歴史群像なども、仏教色を排除して描かれていることも多い様に。
そうすると、何ともボヤけているんだけれど。

「お先にどうぞ」「自分よりも他者を先に」の思想弱体化。

インターネット云々の技術革新より、もっと大きな影響を、
現代の日本に与えているし、与えていくのだと思います。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の18

去年の今頃は、どうにもこれは病院に行かねばならぬと、調子を崩していましたか。
最近はブログを書いたり、頭を使う作業も少しづつやっています。とはいえ、
朝から晩まで働くのは厳しく、以前の様に深夜までとなれば、全然ムリだなぁ。


「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の18
p111『弁道話』道元
それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。
仏法には修証これ一等なり。
(修行と悟りが一つでないと思うのは、仏教以外の人が言うことである。
仏の教えでは、修行と悟りは一つである。)
~~~

「修行と悟りは同じもの」で、「修行して悟りを得て、高僧になる」
と思い込むのは、「まったく素人の考えである」と道元は言っている。

わかりやすく言えば、高僧の「南無阿弥陀仏」も、初心者の「南無阿弥陀仏」も、
心構えさえ真剣であれば、それは同じ、悟りの言葉で、同じ価値があるという話。

身近な話でいえば、「あの坊さんは読経がうまい」なんていう話がありますが。
リズム感、慣れ、声の張りなど、それは確かに、音楽的な評価はあるでしょうけれど、
それって本質的なものじゃないですよね。素人的にはわかりやすいので、
音楽的に下手な坊さんの御経をして、「下手だなぁ」なんて思う場合がある。
これは完全に、素人の意見であります。仏法的には、そんなもんは枝葉です。

陶芸でいえば、「この器、軽いねぇ!」ていうのがあります。
いやまぁ、薄くなるまで削れば軽くなるんで。あと重心の置き方です。
何の技術の精華でもなく、全然、難しい話じゃないんですよね。
素人的にはわかりやすいので、そういうところを評価するんですけれど、
これは完全に、素人の意見です。陶芸的には、そんなもんは評価外です。

修行そのものが、大切。

外から、悟りを勉強して、高僧になれるなら、苦労はないわけで。
実地にやってこそ、本当のことがわかってくるし、意味がある。

御勉強だけやって、よくも知らずに「読経がうまい」とやるばかりで、
実際に自分で読経をしたりはしないから、心構えの大切さが見えない。

陶芸も、外からみて評価するばっかりの評論家をやっているから、
実際に作ってみた時の、無作為と作為の違いも見えないで評論する。

茶道も、外からみて評価するばっかりだと、やれ器を云々ばかりして、
一服の抹茶それ自体はもちろん、その環境たる清浄、点前などを見ない。

修行をすること自体が、仏道の道徳を悟っていく行為そのもの。

実地でやっていくことが、学ぶことそのもので、等しく同一のこと。

何にもやらずに言っているだけでは、素人意見の範囲から出られない。

それが、道元の言う「修証一等」だと思います。


「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の17

少し曇天が続いているようで。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の17
p106 沢木興道老師(昭和期禅僧)の言葉
「何にもならんことをせい、というのは人間界では全く意味のないことである。」
「仏法までも人間界へ引きずりおろしてしまう。そこに病が生じるのである。」
~~~~

無所得・無所求・無所悟。
対価を求めず、名誉への向上心もなければ、悟りの境地を目指すわけでもない。
そんな日々の修行をやることで、何になるのか?といえば、

「何にもならん」「人間界では全く意味のないこと」

という話である。

禅の思想においては非常に根本的な思想であろうかと思います。
歴史的に禅仏教は成立時代の世相を背景として「仏教+老荘」。
道徳に執着することより、自由に受け流すことを大切にします。

日々の清掃、草刈り。そういったものも、何か積み上がるわけではなく。
伯父が何十年とかけて整備した牧場も、僅か数年で自然に戻りつつあります。
そういったことを、
「全く意味のないことだから、やる必要がない。」と考える人も多いですが。
「全く意味のないことだけど、やればいいじゃないか。」というのも自由です。

伯父が何十年とかけて整備したことは、意味のないものだったのでしょうか。
私が、日々草刈りをして、古民家と庭を整備していることも、無意味でしょうか。
出世や利得につながることだけを、効率的に行うことが肯定される世相だけれど。

そうして、誰もいない所では念仏が唱えられることもなく。
そうして、誰もいない所では堕落をするようになって。
誰かに認めてもらわないと、何も出来なくなっていく。
だから、SNSで発信をしたり、肯定を求めていく。

肯定されなくっても、やればいいんじゃない?と、老荘思想は「自由」を言う。


人が集まらないから、神事や祭りを土日祝日に移動させる。
これは、実際に行う社寺と、全く無視して平日に行う社寺があります。
「神事を、人間の都合に合わせる」と、とても効率的ですよね。
人が沢山集まってこそ神仏も喜ぶでしょうと、そういった道徳観。

「仏法を人間界にひきずりおろす」と見れば、
人間様と神様の主客逆転。神仏への敬意喪失と見ることも出来ます。

祭りが、「本当に神様のため」だと言うのであれば。
神様が主体なのですから、そちらに都合を合わせるべきです。

子供の誕生日。パーティこそ、土日になったりもするけれど。
あぁ、この日に産まれたんだなぁ、と親が思うのは、誕生日当日ですよね。

神様に捧げる神事というものにおいて、
「まぁ人もたくさん集まるし、土日祝でええやろ」
ということになるわけで、よくよく考えると、ちょっと微妙じゃないですか。
神仏に心からお祝いを申し上げるのは、土日祝じゃなくて、当日でいいよね。

こういったことを、自己満足と言う人もいるでしょう。
まぁ、そうかもしれませんけどね。
効率性と道徳における、心の天秤の置き方。
対価、名誉、効率に縛られると、出来ないことが沢山出来てくる。
複雑な話でも何でもないのに、効率に執着すると、病気みたいになる。

「平日にやってもええやん。意味なくてもええやん。」
「人が少なくてもええやん。誰もみてなくてもええよ。」
というだけのことだけどね。それは自己満足の世界です。

「効率の病」は、本当に、心が不自由に、病気になります。
全ての評価を世間に委ねて、利得・名誉に邁進し、自己満足をしない。

私もでしたが、これは本島に、病気みたいなもんです。
自己満足で、やれる範囲で頑張っていく世界は、本当に自由ですよ。


まぁ、俗に言う「上り坂の儒教、下り坂の道教」なんですけどね。
もちろん、禅は道教の思想です。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の16

前回記事の続きです。基本的にその場で思うままに書き綴っているので
読みにくい箇所なども多くあろうかと思います。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の16
p99「無所得・無所求・無所悟」道元
・「無所得」その修行に何か所得があるだろうと思ってはいけない
・「無所求」代償に自分がいい人だという名声を留めようと思ってはいけない。
・「無所悟」悟りを求めないで、ただ坐禅して時を過ごすこと
~~~
(続き)無所求、無所悟

無所得は、ざっくり言えば「奉仕の心」を大切にするという事だろうかと思います。
何らかの金銭報酬があるからとか、「利得の視点で行動すること」への愚かさを言う。
「この念仏を唱えるには○○万円」という風体の和尚さんが居たら最低です。
お金を得るために作った器は、流行を追って技法もコロコロ変わる商売人の器。
お金を得ることを目的とした茶会は、仏道修行ではなくて、祭事営業みたいなもの。
そんな感じでしょうか。

ついで、無所求。
金銭は求めずに無償奉仕をしたとして、功名心を目的としている場合があります。
自分が「良い人」として名声を高めたいと思って、それが目的になっていく。
元々が資産家であったり、裕福であれば、金銭の見返りは求めなくとも気にしない
けれど、しかし名声はキッチリと高めたいという人は、やはり居るものです。
茶道でいえば、政治家が名誉職として、各県の支部長を勤めている場合が多いの
ですが、彼らが茶会の場で行うことは、「顔を売りたい」という思いが見えたりします。

要は、「膨大なお布施をしたのだから、相応の名誉をもらって当然である」という心です。
田舎の寺院では・・・と書く場合、ほとんど私の祖父や、伯父などの様子からですが、
御布施をしても、名前が出ない様にお願いをしたり、なるべく隠れてお金を出そうと、
そんな所に苦心しながら、お寺さんにたくさんの、隠れた出費をされていました。
それは、亡くなった時に、和尚さんが語った言葉ですから、真実のものでしょう。
そういった心構えでありたいものです。

その視点でいえば、大徳寺の山門に利休像が安置されて・・・という話。
大商人だった利休の多大なる支援の功績に感謝して、という名目でも、
それは確かに、批判されるべき側面があったと見ることが出来ます。

昔でさえ、そうですから。現代の世相ともなれば、
「これだけの寄付や、奉仕をしたのだから」という思いが出てきます。
寺院も、金銭には非常に苦労しているわけですから、寄進者の記銘もそうでしょうし、
数十万円の戒名にしても、名誉を求めての寄付なのです。

何にしても、大きな金額の寄付が称えられるのは、
「金銭のモノサシ」で評価をするということになります。

道元の頃は、永平寺で自給自足の生活を築いていたそうですが。
今は水道1つ、電気1つ、土地の税金も、住民税も、年金も、
なかなかに税金を支払っていくだけでも大変であります。
そんな中、寺院も今は、テレビもあり、PCもあり、エアコンありですからね。

正直なところ、私も随分と茶道で頑張らせて頂きました。
無所得・無所求の思想からすれば、茶道具を作っているといえど、
茶名をもっていれば、同じ修行者でありますから。
納める作品は、非常に廉価で、原価くらいの金銭ですし、
それで体を壊してしまったわけですが、その節も同じく。
ほとんど収入にはならないどころか、「奉仕」です。

今の寺院が、檀家の多額の寄付がなければ運営できない様に。
そうやって、多額の寄進で、ようやく成立しているわけです。
そうすると、寄進者の地位が高くなります。

そういった環境で、寄進ができないとなれば・・・
子育てだけで経済的に難しいのが、私を含めた氷河期世代以下の若者です。
普通一般の、新しい陶芸家が、裸足で茶陶から逃げだすわけで。
良い作品を作るための修行だとしても、大変なことでした。


「無所悟」
最後のこれは、「無作為」について先に書いたかと思います。
悟りを目的に修行しても、悟りに至ることは難しい。
むしろ、悟ったような気になるだけの場合さえある。

無作為を狙っている時点で、それは無作為ではなく、作為になる。
表面上、自然を装っているだけで、自然な形とは逆のもの。

茶道は、何のために行うのでしょう。免状?役職?名誉?悟り?
茶を一服することに、何か、大きな期待を寄せてはいないでしょうか。
元々が、禅寺の日常修行のもので、その実践は修行。
修行以上でも、以下でもなし。それで権力を争ったり、名誉を求めたり。
そういうことではなく、もっと日常の、ほんとうに日常のものでありたいですね。


「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の15

すっかりと寒くなりまして。陶芸教室も厳冬期は休業予定です。
工房の整理も少し目途がついてきました。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の15
p99「無所得・無所求・無所悟」道元
・「無所得」その修行に何か所得があるだろうと思ってはいけない
・「無所求」代償に自分がいい人だという名声を留めようと思ってはいけない。
・「無所悟」悟りを求めないで、ただ坐禅して時を過ごすこと
~~~
とりあえず無所得について。

現代における日本の道徳観の、最も大きな転換点だと思う。
過去において、労働は仏教修行的な道徳観で、「対価を求めずに真面目に励む」
ことが美徳だった。農業が主体であった頃は、それで良かったのであろうけれど。
それが、やがてサービス残業の習慣となり、経済効率の下で「搾取」された。

そんな「搾取」によって、この「無所得」の道徳は廃れつつある。
田舎ではまだ、公道の草刈りだって、畑の作物だって、「無所得」は多い。
墓掃除1つ、お寺の清掃活動、地蔵様に花を供えたり、夏祭りも同じ。
作った神輿は、神に供えて、その日の内に破壊してしまうのだ。
それが、別におかしいことでも、何でもなかった。

そういった風習は、労働搾取で破壊されてしまって。
例えば茶道では、茶会の「水屋手伝い」という裏方仕事がある。
なかなか、結構な労働で、早朝からずっと働き通しで手伝いをします。
それは無償行為であるどころか、多くの場合は、結構な出費も発生。
つまる所、仏道修行の、お寺における「檀家のお勤め」のようなもの。

でも、茶道が「文化」として、お客からは対価を頂くとなれば。
感覚としては、茶会は、むしろ商売として見えてくる。
それに実際、利益を出している場合も多いし、計算もされている。
加えていえば、京都の御茶屋にせよ、喫茶店にせよ、
そういった場で提供される抹茶というものは、完全に「商品」です。

茶は「仏道修行・檀家の奉仕」というものを本来だとしながらに、
現代さながらに、きっちりと「対価をもらって提供」しているから、
「世の人々への供茶」という名目で無償奉仕をしながらに、
「商売」という側面で運用されていることになる。
まぁ、もちろん黒字といっても、人件費は計算されていないのだが。

今の時代に生まれ育つと、「タダ働きを搾取」する行為は、
「ブラック企業」
という言葉で代表される様に、「非常に悪徳な行為」として認識される。
都会で生まれ育った人々には「檀家的な無償労働の奉仕」という感覚が
皆無でありますから、「タダ働き」=「悪徳」という認識が成立します。
田舎の奉仕労働に対して、否定的な意見が出てくるのも、コレです。
「公道の草刈りみたいなもの、どっかに注文してやらせればいい」
「社寺の改装費用?なんで坊主が自分で工面せんのだ?」
とまぁ、奉仕という概念が、そもそもあまり存在しないのです。


陶芸の「弟子入り」というのは、本来的には無償労働だったけれど。
現代では、「労働基準法違反」のブラック扱いになります。
最低賃金も支払わないで重労働の劣悪な悪徳企業となります。
だから、現代において弟子入りというのは、ちょっともう、絶滅して。
従業員として、しっかりと「給料」を支払っているところが多いのです。
また、茶道の御家元の膝元で働く方々も、今は「給料」があります。
一部には、これを「サラリーマン化」と批判する向きもありますが、
おそらく、同じ理由によるものですから、仕方無いのです。

しかしそうすると。給料を支払うには、「収入」が必要になるわけです。
そうすると、必然的に矛盾が生じてくるわけです。
毎月、毎月、お給料を払うとなれば、企業と同じだけのものが必要です。
毎月収入を得て、給与を支払っていくのは、とても大変です。
個人経営の店は、ほとんどが3年以内に倒産するというものでしたか。
個人でも廃業・倒産が多い中、従業員を抱えての黒字経営となれば。

どうしても、どこかで「商売」をしなければならないわけで。
それも、片手間でやっている様では難しい。
本気でやって、ようやくに形になる。安定収入には、大規模化も必要。
茶道には「檀家」はありませんので。「許状料収入」などが出てきて。
今は、裏千家でも茶券に書籍、着物、器、さまざまな斡旋があります。
役職に就いている方々には、どこそこの社長が多いのが実際です。
そもそも、茶道界自体が、財閥の支援によって救われた経緯もあります。

こうして、何とか現代に生きながらえて、
いや、むしろ昭和期には見事な隆盛を経ての、現代です。

正直に見て、色々な思想的矛盾を解決する暇はなかったでしょうし。
そういった部分を解消していく過渡期もなく、
今は団塊の茶道人口の減少に備えている時代になっています。

冒頭にあった様に。所得を求めていたわけではなくても。
現実に対応していくだけでも、本当に大変なので。

「無所得」=過剰な黒字経営を求めない

結構ね。ホントは、これって難しいんです。
言葉で言うのは簡単だけれど、黒字経営出来る企業って、少ない。
でもね。人件費が「0円」になるなら、黒字経営は難しくない。
そして、「奉仕」という名目が茶道にはあるから。

今の様になっているわけだけれど。

御家元が、きっちりと内弟子に給与支払いを行っておられるのだから。
住み込みの、家族同然の弟子にさえ、給与を支払っておられるのだから。

やっぱり、道義的には、ちゃんと対価を返していくのが、筋道になる。
それが、内弟子(住込弟子)どころか、外弟子(通い弟子)であるなら、
余計に、その様にするべきなのでしょう。

「仏教」として経営しているのであれば、「無償奉仕」はあるだろう。
でも、「文化」として経営しているなら、「無償奉仕」はダメですよ。
「経営が厳しいから、給与は0円で」というのは、「搾取」です。
「茶名」を持つ「僧侶」であるのならば、厳しく自分に在りたいですね。

この辺りは、全く明文化もされていないし、
特別に何か声明が出されているわけでもないし、
檀家的に金銭を出し合って、支えてきたわけですが。

そのやり方で、今後の、特に収入低迷の著しい若者世代が、
思想的にも、檀家的な感覚など一切無い世代の人々が、
茶道の世界に飛び込んでいけるかといいますと・・・・

まぁ、「金持ちの道楽」ということになってしまうわけです。
というか、実際的に、団塊の世代も、そういった側面があり。
「お金もないのに茶道をやらなくても」と、言う人が居たり。

茶道自体の魅力とは別のところが、とても大変なのです。

「無所得」奉仕の心という、日本の思想的な美徳。

これをどう扱っていくのか。
多くの支部や団体が、その存続に執着し、茶道青年部1つでも、
その参加人口を競い、大規模イベントで茶券を配っています。

消えるときは消えて、また要求があれば生まれてくる。
そう考えるというのは、なかなか難しい様子です。

というわけで、現代の荒波の中、「文化経営と仏道経営の両立」という、
非常に難しい舵取りを試みているのが、茶道の現代史だと思います。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の14

台風ですね。衣替えなどの作業も終わって、ボチボチと。

p87『正法眼蔵随聞記』道元
「只管打坐」ひたすら座禅をすること
~~~~~~

道元の代名詞的な言葉だそうで。鎌倉仏教では、
親鸞が「南無阿弥陀仏」、日蓮が「南無妙法蓮華経」。
道元は「座禅」を一心に行うことを勧めました。

とはいえ、「座禅でなければならない」という意味ではなく、
「散漫に学ぶよりも、1つのことを真剣に取り組むべき」
という話の中で、「座禅は簡単で、仏法を学ぶのに良い」
というように、選択肢の1つとして示したものです。

この当時の民衆は娯楽はおろか、食糧不足で慢性的な飢餓の中。
今のような趣味娯楽の多い時代とは、全く違う中での言葉です。
もちろん、茶道や剣道など、そういった選択肢の無い人々です。

「真剣に1つのことをやる」

そういった意味では、私も茶陶を真剣にやる中で、
無作為の課題に突きあたり、
更に茶道を実践的に学ぶことへと進み、
禅の美学や発想というものを少しづつ理解してきて、
今の通過点まで来ている次第です。

でもまぁ、売上的に茶道具を作っている人を見れば、
無作為なんてどうでもいいし、
茶道なんて、もっとどうでもいいし、
禅の美学よりも、個性の発露あってこそで、
売れなくなったら、茶道具なんて放り出せばいい。

そんな側面があったりして、現代は後者の方が主流。

でもね。あれこれと流行に従って、作る品物も変えて、
そうしてしっかりと売上を築いているという仕事も、
売上に対して真剣に取り組んできた苦労の結果です。
だから、売上を作っていくことにおいて、やはり名手です。
そうでなければ、食べていくことが出来ませんからね。
それはそれで、非難されることではないのだと思います。

だから、何が高尚で、何が低俗というのは、
作品についてはあるかもしれないけれど、
人間の生き方については同列だと思います。

そうやって思っていると、どんな人も、真剣に生きてますから。
人間ってのは、地位や収入、仕事、年齢などなど、
そういう基準で優劣をつけるのは、くだらないと思います。

ただ、人の迷惑を顧みず自分勝手にイジメをやる人とか、
そういった人は、もう本当に、劣っていると思いますけどね。


「禅のすすめ 道元のことば」読書感想文の13

随分と大きな台風だそうで。低気圧のお陰で体調不良です。
関西は明後日には晴模様らしく、地元では運動会が予定されています。
晴れ予報とはいえ、かなりの暴風が予想されているわけですから、
小学生も多数参加する運動会には安全第一とは思うのですが。
実行部隊の役員ながら決定権はありませんので、何とも従うばかり。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より
p78『永平元禅師語録』道元
「眼横鼻縦」眼は横に並んでいて、鼻は縦に付いている。
「空手還郷」何も持たずに日本に帰ってきた
~~

書籍の流れとしては、道元の歴史を大雑把に解説する部分が終わって、
禅僧の筆者によって、少し踏み込んだ解釈が示されていきます。
中国で修業して帰国した道元が、その成果を示す言葉として使ったもの。
禅語「本来無一物」「無一物中、無尽蔵」を例に、禅の思想が示されます。

陶芸、特に茶陶では、同じ種類の言葉として「無作為」があります。
その意図する所を読み取るには、結局は禅の思想を学ぶことになります。
だから、必然的に、正面から茶道具に取り組んでいる職人は、
必ず、この問題に挑戦をしているはずです。

そして同時に、これは禅の思想における問題ですから、
何かの書物に正解が載っているわけではありませんので。
昔の茶陶の名人がこぞって「終わりがない」と表現したのは、
正に、この「無作為」の難しさであり、奥深さに由来しています。
格好良い禅語だけを借りて「守破離」など命題したりしません。
名人の加藤唐九郎は「一ム才」などと称したりしていましたね。

当り前の事。健康、また命というものの「有難さ」というものを、
私はようやくに実感することができました。
自分の命も、健康も、使い捨ての様に磨り潰してきた結果が、
今の過労による体調不良です。過労なんて他人事と思ってたら、
いやぁ、まさか本当に潰れるものだったとは。
「命を大切に」という言葉さえ、私は理解出来ていませんでした。
子育てなども、同じようなものがありますね。

平凡な、「当たり前」に気付くこと。
そういったことが、「悟り」なのだそうです。
そういった「実感の伴う気付き」を、積み重ねていくこと。

「気付き」があると、人は、より一層、優しくなれると思います。
「気付き」があると、心の底から、「健康の大切さ」を言えます。

若い頃、僅かな間、東京でサラリーマンをしていた頃の話ですが。
私が結婚するに際し、上司が語ったことを思い出します。
「俺は嫁の看病のために、2年も仕事を休職した。
出世も何もかも捨てたけれど、本当に良かった。
会社はいくらでもあるが、家族を守れるのは主だけだぞ。」
と、そんな話をしてくれました。当時、出世頭の上司でした。
それはとても実感の籠った、熱い言葉だったので、よく覚えています。

禅は、「自分で悟ること」を大切にしています。
他人の言葉や、本の知識では、真の知識には程遠い。
いっそ邪魔になることさえ、ある。
だから、文字も言葉も、本当には何もいらないのだと。
「無一物中、無尽蔵」
「なにもないところに、全部ある」と言うのです。

それは、こういった事なのだと思っています。

「禅のすすめ 道元のことば」読書感想文の12。

少し間が空きました。しばらく体調不良も数日ありましたが、割合にすぐ復帰して。
土日は運動会続き。幼稚園、自治会、区の3つの運動会があり、役員なので準備も。
とりあえず2つが終わって、あと1つは今週末。台風でさてさて、どうなることやら。
どちらにせよ土日祝は子供と遊ぶか来客など仕事で休めないわけですが。
そういや旧友なども遊びに来てくれて。スカーレットの放映も始まったとか何とか。

p67『永平広録』道元
悪事を行うことをやめて善事を行うことを説いてきただけ。
~~

道元は鎌倉での説法のために永平寺から数カ月の旅をして行ったけれど、
大勢を前に仏教の基礎の話をすることしかできなかったそうです。
悪いことはダメ、良いことをするべき。

簡単なことですけどね。そういえば子供のテレビ番組で、アンパンマン。
解決策が暴力という点で批判があるという話が、まぁあるそうですが。
少し大きくなると仮面ライダーとかプリキュアかな。ウチの子供も見ます。
というか、大体のアニメは勧善懲悪で出来てますよね。

実際問題として、アンパンマンや仮面ライダーが好きな男の子は、
パンチを振り回してくるし、ライダーキックをやってきますよ。はい。
当たり前です。きわめて普通のことなんです。それを、暴力的になった、
という様に評価すること自体は、実際にその通りだと思います。

でもね。道徳の基礎で「我々は善人であって、悪人にはならない。」
という観点を、十二分に学んでくれるわけです。バイキンマンや怪人を
目指す子供っていうのは、居ませんからね。

「自分は正義の味方なんだ!」

こういう価値観は、幼少期に刷り込むべきものだと思うので。

「なぜ正義の側に立たねばならないの?」
「正義って何?」「悪いことしてる人は沢山いるよ?」

こういうことを、子供に納得するまで教え込めます?
難しい言葉なんて、理解できるだけの経験材料がないんですよ。
モノゴコロがついてしまえば、他者の言葉は簡単に入らないです。
こういうものこそ刷り込みをしていくものかなぁ、と思います。

もちろん、暴力解決アニメじゃなくてもいいけど。
子供の視点で惹き付けられるものって、そんなに多くないから。
親の御仕着せで上手くできる自信がなければ、「アリ」ですよ。

飢餓や戦乱で荒れ果てた時代には、「善人であるべき」という価値観さえ、
なかなか簡単には共有されるものではなかったということで。
孔子が戦乱の世に儒教を説いて、受け入れられなかった事に近いですね。

~~
p71『御遺言記録』道元
何か秘密にする教えとか、特定の者にしか教えないような特別な教えは、
仏法においては、ない。~略~ただ、秘密のことや特別に伝えることが
あるとすれば、寺の住持としての心得であるとか、住職としてすべき行持の
作法であるとか、寺院の運営の仕方であるとか・・・
~~

茶道も、「秘伝とされている点前」とは、「特別な場合における作法」です。
だから、知っているかどうかや、技術の巧拙を誇るのは、ちょっと違う。
茶が仏道修行なのだとすれば、作法の知識や巧拙の差が大きな意味を
持たないということが理解されるかと思うのですが。

逆説的にいえば、禅僧よりも点茶の技術が高いとして、それが仏道修養
において禅僧よりも高位であることを示すかと言えば、全くそれは関係が
ないわけですよ。

そういった意味で気になるのは、堂々たる、現代の禅僧の筆によるものを、
「これは稽古道具」とか、「これは安物ですよ」という様子でやってしまうのは。

それが現代の慣例とはいっても・・・
およそ「ほぼ全ての茶人は、仏道修行的に、塔頭を預かる禅僧の下位」ですよ。
これって、まぁもちろん、こういう価値観を広める道具屋さんも悪いでしょうけどね。
惑わされる程度しか考えていない茶人にも責任があるんじゃないかなぁ。
良い茶席には、良い着物を着て、素晴らしい道具を揃えてこそ。という。

そこらの陶器の茶道具などは。まぁそうでしょう。
安いものは、質も確かによくないものが多いです。
御茶に良い器、花を生かす花入でありたいもの。

禅僧の書いたものはね。やっぱり別じゃないかなぁ。
安くても、やっぱりありがたいものじゃないのかなぁ
だって仏道修行なんでしょ?って思ってしまう。

まぁ書家や芸術絵を飾る、なんちゃって茶会はもちろん論外なんですが。
禅僧の序列を、出家もしていない在家の者が言うのは、下世話ですよね。
今の道具展観的な茶会において、私は疑問に思ってしまいます。

いつだったかな。松坂の茶会に呼んでいただいた時。
お軸は、いわゆる「稽古道具ですよ」って言われてる禅僧のものでしたけれど、
席主に聞くと「直接に禅僧と親交をもって、書いて頂いたもの」という話でした。
いやぁ、素晴らしいと思いましたよ。

茶道具屋で大枚出して買った軸と比べて、どうです。
ちゃんと禅僧と付き合いをして、話をして、その上で書いてもらったもの。
その禅僧のものが「稽古道具」と言われ、安い対価で買えるにしても。
席主は真摯に、立派な修行をされているのだと、私は心が改まりました。

田舎の法事に行くと、真摯に念仏を唱えている高齢の方の姿は珍しくありません。
そういった方が行う茶会となれば、こういった次第になったりするわけで。

何が良く、何が悪いなどと。価格で一律に評価するのは簡単ですけど。
茶席の場で、金銭の話をしないってのは、そういうことかなぁ、と。

身分相応の道具を使うという意味でも。
軸は席主・主客より高位の方であれば十分に足りるのではないかなぁ。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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