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「禅のすすめ 道元のことば」その10

近況:涼しい日も増えてきて。仕事をしたい気候だけれど、体の調子を調整中です。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その10。

p60『正法眼蔵随聞記』道元
仏道を行ずる者は、特に貧しくあるべきである。
世の中の人を見るに、
財産があると、人はこれを奪い取ろうと思うし、
自分は奪われまいと頑張る、そこに苦悩が生じる。
貧しくて、しかも貪りの心がなければ、
これほど安楽で、自由自在なことはない。

p61『永平広録』道元
修行道場というものは、大勢の修行僧がいれば
盛んであり、優れているというわけではなく、
わずかな人数でも、真剣に仏道を修行している者がいれば、
それを大いなる修行道場という。
~~

道元が越前の山奥に永平寺を建立した理念のようなものだそうです。
1つには贅沢をせず、貧しさの中に身を置くこと。1つには、本質を大切にすること。
利休の言葉を待たずとも、僧の理想が清貧といわれるものです。

茶道は仏道修行とはいえ、現代の茶道の金銭感覚は庶民とは少し違いますね。
私などは、陶芸の修行仲間などを見ても、極貧の中で修業を頑張っていくことが、
まずまず普通の話で、ありがちな芸術家貧乏というものです。
そういった中で、薪も、粘土も、工房も、あらゆるものを自分でやってきています。
そうすると、随分とその感覚の差異には驚かされるものがあります。

世間一般、茶道は上流階級のイメージがあるかと思います。御道具が高いんでしょ?
というような。実際、そういった側面もあります。お着物代1つだってスゴイですよ。
それが「普通のマナー」として求められている世界は、決して庶民感覚ではないです。

茶道の中にどっぷり入っていると、そんな金銭感覚が普通になってきます。
金銭感覚って、一律ではないんですよね。かなり個人差があります。
上の方へいけば、数千万、数百万のという道具がポンポン出てくる。
実際、そういった社交世界もありますからね。

なので・・・何だろう。「侘び」といいながら、贅沢品があちこちに。
楽茶碗は相当な高級品でありますし、抹茶も、濃茶は相当に高価なもの。
道具諸々はもちろんですし、御料理も、着物も、会場だって立派な建物。
そりゃもう、貧乏臭いことと、清貧は違うとは思いますけれど。
全然ね、なんかホント、表現するならば・・・「豪華」ですよ。
「贅沢な時間」というような表現が、わりと近いように思います。

本来、貧しいものなのに、なぜか高級品になっている。
陶芸でいうところの「民芸品」なんかに近い、矛盾を抱えた存在ですね。
「奇もなく、見栄もなく、職人が心をかけて作った品の良い器=民芸陶器」
貧しい手仕事の作品が・・・「人間国宝の民芸品」として「最高級品」になる。
「民芸品だけど数百万円!」という自己矛盾に行きつくわけです。
本来あるはずの、「日々の生活の中で作られる実用器」という、「本質価値」がない。

利休時代はどうだったのでしょうね。
道具として新開発された楽茶碗は最先端技術のものですが、
特別に高価な材料を使うものではありませんし、そもそも、
高級品を集めた「上流階級の遊びとしての茶会」に対抗して、
本来の「禅の修行様式」として再構築したというのが実際です。
だから、決して、贅沢な時間を過ごすためのものではなかった。

もちろん、元々は利休も上流階級で、茶会も大名や大商人となれば、
「清貧といいつつ、必要なものは必要として、高級品だった。」
という素人推量が成立しそうな感じになってしまうのですが、
「禅の思想の文脈で、利休の言葉を照らしていく」ことをすれば、
「贅を戒める言葉」は、文字通りの「貧乏を目指す」です。
財物なんていうものは、そもそも持たないし、要らない・・・。
これが目標ですね。

山上宗二「茶の名人とは、唐物を所持し・・・」の言葉を、
「唐物=超高級品」として高価な道具を所持してしまうのではなく、
「唐物=禅の本場中国で使われた道具」として考えていく場合には、
「師のわずかな遺品を受け継ぐことが正当な弟子とされた風習」から見て、

「唐物を所持すること」=「正統なる禅の修行者の証明書」

おそらく、宗二の言う「唐物所持」とは、こっちの意味だと思うのです。
正直いって、こういう話は、どこの出版物にも書いてないし、説明もない。
むしろ、この当時に唐物を所持するには、どれほど高額な値段がついたとか、
そういう、特に美術館など学芸員により「経済方面の論評」が行われる。
なんでかって、そりゃ学芸員のお勉強ではそんなレベルですよ。
昔の偉い学者が書いた決定版を読んで、復唱してるだけですからね。

茶道の「お軸」についても、「中国の禅僧が書いたものが最高峰」ですよ。
禅では、この「たった一枚の紙」を「最も大切にする」という清貧があります。
「唐物」も、仏教道具を受け継ぐという文脈で、実際では床の間に飾られます。
高級品だから飾るとか、そういう話じゃないんですよね。
床の間に乗るものは、お寺にある、仏様に供えるものですね。

道具ついでに楽茶碗についてもいえば、どうみても美術品というよりはね。
お寺にいくと、まあ宗派にもよるでしょうけれど、お坊さんがポーンと
叩いてよい音がする、アレですよ。色も黒くて、全く同じ形です。
そうすると「赤はどう説明する!」とか言う人が出てくるんですけどね。
赤楽が「赤色をつける」ようになったのは、現代の話なんですよ。
ちゃんと陶芸勉強すると、「赤楽は、本来含鉄粘土に灰釉を施したもの」と、
その手の技法書には書かれていて、これはつまり、

普通の粘土に、最も素朴な基本釉薬を掛けただけの、「自然色」の赤。
最も素朴な基本釉薬に、鉄分を加えると「黒楽」の色彩になります。

もうね、ぜんっぜん、「赤と黒」を作ったんじゃないんですよね。
こういうことを、美術評論家も、茶道家も全くもって御存知じゃないです。

禅の思想的に、自然あるがままの技法だと赤になるんですよ。
仏教道具の様に黒にしようと思ったものが、黒なんですよ。

出来上がったものだけ見てると、こういうのが全く理解されないんです。
まぁ、どれだけ書物を勉強しても、書いてないですからね。仕方ないです。
そもそも論で、当時は「個性的なもの」を作る必要性が全然ないんですよ。
だって彼らは職人で、芸術家じゃないんです。利休も、織部も。
最も「個性的」とされる桃山伊賀だって、そも形の原型は中国青磁。
個性的だとレッテルを貼った上で書かれる文章と、事実は、結構違う。

話が随分と脱線しましたが。
「高価な道具」とか、「安価な道具」なんていう対比自体が、
もう、「経済指標で道具を決めている」ことになるわけですよ。
それもこれも、大勢を招いて「御披露」となればこそでしょうが。

「修行僧が大勢いれば優れているわけではない」

という言葉が、突き刺さってくると思うのです。

しかし実際、茶道が貧乏を指標する仏道修行に戻れば、
ただでさえ減少一途の茶道人口は途絶するでしょう。
そもそも、「上流階級のタシナミ」で人気が爆発して、
そこから茶道を学んできた人々が現代を担っているので。
これは無理な話です。

ついでにいえば、茶道具も。
本来、高価なものとなるべきものでは、ないのです。
お数珠だって、仏教用具は本来そうでしょうけれど。

「道を具(ソナ)える」と書いて「道具」なのですから。
これで儲けようと思うこと自体が、自己矛盾を抱えるのです。

だから、瓦職人の長次郎が、頼まれて茶碗を作ったわけで。
安価に茶碗を皆さんに頒布していく「おちゃわんや」と、
伝統工芸の茶道具としての「超高級抹茶茶碗の陶芸家」は、
やっぱり違うものだと、思うんですよ。

まぁ、高価といっても、それで経費とトントンですけどね。

ホント、色々な面から見ていっても、
現代の世相とは、完全に噛み合わなくなっているんですね。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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