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独学「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より。その11

良い季節になりました。秋の初めの、涼やかな風が嬉しい日々ですね。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その11。

p65『正法眼蔵』道元
「他をして自に同ぜしめてのちに、
自をして他に同ぜしむる道理あるべし。」
~~

「お坊さんって、何のために居るの?」
今の大人には、ちょっと答えるのが難しい問題ではないでしょうか。
本来、お坊さんは、人々の中に飛び込んで、周囲を感化させていく。
そうして、人々を仏の道へと導いていくのが「お坊さん」です。
これが、多くの仏教の教え。

対して、禅仏教では、人々が、お坊さんと同じ座禅をしていくことで、
仏の在り方を実践しながら学び、それぞれが感化していくという発想です。

茶道は禅宗ですから、後者の存在だと言うことが出来ると思います。
茶道自体が、そもそも本場中国の禅宗の修行様式を基礎にしていて、
茶事という正式な場では、それを色濃く感じることが出来ます。

裏千家の御家元方針には、「社会に交わりながら、茶道を広めていく」
ということが明確に示されています。これは現代風に茶道の思想を翻訳
したものだと言われますが、

茶事(出家した茶名を持つ者が集まった場所)では、修行様式。
イベント(普通の一般の人々との交わり)では、良さを広める。

という区分で考えられていることが読み取れてきます。
今の茶道では、茶名=出家という感覚もないですから。

茶事=旨い抹茶、旨い酒、最高の食事、最高の道具。
という様な具合のものも、多く在ります。修行?と思われるでしょう。
通常には手に入らないような、特別なものが沢山使われています。
茶人でない著名人などを招いたりするような場では、更に顕著でしょう。
そういった果てが、大正時代の数寄者による茶事だったわけですが、
それも、現代の評価としては、「大手を振っての高評価」という具合です。
行きつく先が、「日本文化の粋を集めた殿堂」としての姿。
現実、世間が茶道に求める役割が「文化の殿堂」でもあるような。

実際、歴史的に「そういう茶道もあった」わけですからね。
仏教的には否定されるような豪勢な茶事茶会も、
文化的には大いに肯定されるという、難しい局面です。

仏教、茶道。それを学んで、どうしたいのか。

流派の看板を掲げるなら、御家元の方針に従うのが道理でもあり。
でも、御家元が何を目指しているのかは、簡単には測れない。
軽率に推測しても、あて推量でしかありません。

そういった制約の中で、どんな茶道を思うのか。
厳格に仏道修行として考えるもあり、文化の担い手もあり。
そもそも日本文化は仏教文化とは切り離せないものですから。
そして仏教には儒教もあり、思想も混在、発想も混在。
なかなか、五里霧中といった感じで。
追えば追うほど、何が正しいとも、正しくないとも。

ちょっと、答えの出ない課題ですね。

独学「禅のすすめ 道元のことば」その10

近況:涼しい日も増えてきて。仕事をしたい気候だけれど、体の調子を調整中です。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その10。

p60『正法眼蔵随聞記』道元
仏道を行ずる者は、特に貧しくあるべきである。
世の中の人を見るに、
財産があると、人はこれを奪い取ろうと思うし、
自分は奪われまいと頑張る、そこに苦悩が生じる。
貧しくて、しかも貪りの心がなければ、
これほど安楽で、自由自在なことはない。

p61『永平広録』道元
修行道場というものは、大勢の修行僧がいれば
盛んであり、優れているというわけではなく、
わずかな人数でも、真剣に仏道を修行している者がいれば、
それを大いなる修行道場という。

~~

道元が越前の山奥に永平寺を建立した理念のようなものだそうです。
利休の言葉にも、同じように贅沢を戒める言葉といいますか、
むしろ清貧を勧める言葉が沢山あり、僧の在るべき理想とされます。

茶道の世界に入ってみると、やはり金銭感覚というものには
随分と差があります。私などは、陶芸の修行仲間などを見ても、
極貧の中で修業を頑張っていくことは普通の話でありますし、
何でも自分でやってしまえば、買うよりも楽しく、経験になります。
薪も、粘土も、工房も、あらゆるものを自分でやってきています。
それに、必要なところには、いくらでもお金が必要になりますからね。

一方で、茶道は一般的に上流階級のイメージがあるかと思いますが、
実際にそういった側面もあります。なので、数万円程度という金額は、
まぁ、普通に当たり前に出ていきます。それが贅沢ではなく、普通。
なので、茶道の中にどっぷり入っていると、そんな金銭感覚になる。
金銭感覚って、一律ではないんですよね。かなり個人差があります。
上の方へいけば、数千万、数百万のという道具がポンポン出てくる。
そういった中に在ると、極貧を目指すなんていう言葉は出てこない。

なので・・・何だろう。侘びといいながら、贅沢品があちこちに。
楽茶碗は相当な高級品でありますし、抹茶も、濃茶は相当に高価なもの。
道具諸々はもちろんですし、御料理も、着物も、会場だって立派な建物。
そりゃもう、貧乏臭いことと、清貧は違うとは思いますけれど。
全然ね、なんかホント、表現するならば、「豪華」ですよ。

この流れって、陶芸でいうところの「民芸品」と同じなんですよね。
「奇もなく、見栄もなく、職人が心をかけて作った品の良い器=民芸陶」
だった存在が・・・「人間国宝の民芸品」が出来上がって、
「民芸品だけど数百万円!」という自己矛盾に行きつくわけです。
価格も含め、民衆の身近にあってこその民芸品だったんですよ?
それがもう、最高級美術品として、「最も贅沢な器の1つ」になった。

利休の時代は、楽茶碗は最先端技術を使うものの、特別に高価な
材料を使うものではありません。料理も仏教的なものだったよう
ですが、当時としてはどうだったのか、何ともいえません。ただ、
抹茶は相当な高級品だった様です。禅の修行様式を取り入れるに
当たって、当時は必要不可欠でしたから、茶会は抹茶が主役に。

そんな辺りだけを見ていれば、元々利休も上流階級ですから、
「清貧といいつつ、必要なものは必要として、高級品だった。」
という素人推量が成立しそうな感じになってしまうのですが、
「禅の思想の文脈で、利休の言葉を照らしていく」ことをすれば、
「贅を戒める言葉」は、文字通りの「貧乏を目指す」です。
財物なんていうものは、そもそも持たないし、要らない。

山上宗二「茶の名人とは、唐物を所持し・・・」の言葉を、
「唐物=超高級品」として高価な道具を所持してしまうのではなく、
「唐物=禅の本場中国で使われた道具」として考えていく場合には、
「師のわずかな遺品を受け継ぐことが正当な弟子とされた風習」から見て、

「唐物を所持すること」=「正統なる禅の修行者の証明書」

おそらく、宗二の言う「唐物所持」とは、こっちの意味だと思うのです。
正直いって、こういう話は、どこの出版物にも書いてないし、説明もない。
むしろ、この当時に唐物を所持するには、どれほど高額な値段がついたとか、
そういう、特に美術館など学芸員により「経済方面の論評」が行われる。
なんでかって、そりゃ学芸員のお勉強ではそんなレベルですよ。
昔の偉い学者が書いた決定版を読んで、復唱してるだけですからね。

茶道の「お軸」についても、「中国の禅僧が書いたものが最高峰」ですよ。
禅では、この「たった一枚の紙」を「最も大切にする」という清貧があります。
「唐物」も、仏教道具を受け継ぐという文脈で、実際では床の間に飾られます。
高級品だから飾るとか、そういう話じゃないんですよね。
床の間に乗るものは、お寺にある、仏様に供えるものですね。

道具ついでに楽茶碗についてもいえば、どうみても美術品というよりはね。
お寺にいくと、まあ宗派にもよるでしょうけれど、お坊さんがポーンと
叩いてよい音がする、アレですよ。色も黒くて、全く同じ形です。
そうすると「赤はどう説明する!」とか言う人が出てくるんですけどね。
赤楽が「赤色をつける」ようになったのは、現代の話なんですよ。
ちゃんと陶芸勉強すると、「赤楽は、本来含鉄粘土に灰釉を施したもの」と、
その手の技法書には書かれていて、これはつまり、

普通の粘土に、最も素朴な基本釉薬を掛けただけの、「自然色」の赤。
最も素朴な基本釉薬に、鉄分を加えると「黒楽」の色彩になります。

もうね、ぜんっぜん、「赤と黒」を作ったんじゃないんですよね。
こういうことを、美術評論家も、茶道家も全くもって御存知じゃないです。

禅の思想的に、自然あるがままの技法だと赤になるんですよ。
仏教道具の様に黒にしようと思ったものが、黒なんですよ。

出来上がったものだけ見てると、こういうのが全く理解されないんです。
まぁ、どれだけ書物を勉強しても、書いてないですからね。仕方ないです。
そもそも論で、当時は「個性的なもの」を作る必要性が全然ないんですよ。
だって彼らは職人で、芸術家じゃないんです。利休も、織部も。
最も「個性的」とされる桃山伊賀だって、そも形の原型は中国青磁。
個性的だとレッテルを貼った上で書かれる文章と、事実は、結構違う。

話が随分と脱線しましたが。
「高価な道具」とか、「安価な道具」なんていう対比自体が、
もう、「経済指標で道具を決めている」ことになるわけですよ。
それもこれも、大勢を招いて「御披露」となればこそでしょうが。

「修行僧が大勢いれば優れているわけではない」

という言葉が、突き刺さってくると思うのです。

しかし実際、茶道が貧乏を指標する仏道修行に戻れば、
ただでさえ減少一途の茶道人口は途絶するでしょう。
そもそも、「上流階級のタシナミ」で人気が爆発して、
そこから茶道を学んできた人々が現代を担っているので。
これは無理な話です。

ついでにいえば、茶道具も。
本来、高価なものとなるべきものでは、ないのです。
お数珠だって、仏教用具は本来そうでしょうけれど。

「道を具(ソナ)える」と書いて「道具」なのですから。
これで儲けようと思うこと自体が、自己矛盾を抱えるのです。

だから、瓦職人の長次郎が、頼まれて茶碗を作ったわけで。
安価に茶碗を皆さんに頒布していく「おちゃわんや」と、
伝統工芸の茶道具としての「超高級抹茶茶碗の陶芸家」は、
やっぱり違うものだと、思うんですよ。

まぁ、高価といっても、それで経費とトントンですけどね。

ホント、色々な面から見ていっても、
現代の世相とは、完全に噛み合わなくなっているんですね。

独学「禅のすすめ 道元のことば」その9

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その9。

ようやく夏休みも終わって。子供2人は楽しんでくれたけど
さすがに大変でした。波からして今月は体調が落ちていくので。
今月後半までは低空飛行に勤めようと思います。

p54 道元と弟子(懐奘)の対話より
弟子「古人の語録を読んだり、公案(古人の禅問答)を
工夫したりすることは無用なのでしょうか?」
道元「公案を学ぶことによって、少しばかり分かったような
気持ちになることもあるが、それはかえって仏の道から遠ざ
かることになる。所得を求めず、悟りを求めず、座禅をして
時を過ごすことが、そのまま仏の道である。」
~~

禅の臨済宗と曹洞宗の違いの部分として知られるものですね。
座禅を中心とする曹洞宗と、公案を大切にする臨済宗。
茶道は臨済宗に属しているような側面が色濃いので、
お茶会では、高僧が書いた、公案など書物にある禅語や仏道を
床の間に飾らせて頂くことが通例となっていますね。

陶芸の上達でも、技術書は色々あるし、変わった技法もあります。
陶芸に限らずですが、そういった「技法をたくさん覚える」ことを、
「上達」と考える人も普通にいます。そういった技法を組み替えて、
なんか新しいっぽいものを作ったり、アイデア競争をやるのが現代式。
まぁでも、アイデアが珍しいことは、それ以上でも以下でもないです。

技法だけでいえば、「手ひねり」なんてものは単純極まりないので
ホトンドは電動ロクロばかり重視して、軽視する人も多かったりします。
その電動ロクロも、流派?によって全然最終的な到達レベルが違ったり
するのですが、そんなことを知らないと、いつまでも初心者ロクロだったり。
造形という面でみれば、手ひねりも相当に勉強になるものです。

勉強と経験は最初こそ大事ですが、技術には思考と練磨が大切ですね。
何の苦労もなく到達点だけを摂取したりすると、応用が効かないです。

土は買って、釉薬も買う、窯は電気ガスなら、応用の勉強は不可能。
そうするとまぁ、「どこそこの業者の釉薬がうんぬん~」というのが
「陶芸家同士の会話」になってたりして・・・これが現代かなぁ。
いやむしろ、品質安定で必須になりつつあるのが今の流れかも。
私は古典的な手法でやってきましたけど、ほとんど居なくなりました。

さて、禅語は、「わかったつもり」が一番よろしくないとは聞き及びます。
とはいえ、禅について何も勉強しないというのも違うような気がします。
何も学ばないと・・・「茶会で書家の芸術作品を床の間に飾る」という、
そういう例が・・・よく「陶芸周辺発の品評会茶会」にはあるんですが。
茶道から仏教的思想部分を排除して文化イベントにしたら、そうなるらしい。

「何が悪いねん!」という話の向きもあるでしょうけどね。
あれって、伝統が重ねてきたイメージを、借りて消費してるかな。
道義的にはちょっと、如何なものでしょう。

ちょっと道義的な感覚がしっかりしてたら、と思うのですが。
今どころか、とっくの昭和の頃から、陶芸は文化派が主流。
茶道具の形を借りながら、現代美術に移行していったもの。

伝統的に大切にされてきたもの道義的な決まりごとなども、
「経済至上主義の前に破り去られる」ことが、よくあります。
道義的なものを学ぶより、経済を優先するという発想が現代。
「所得を求めず」に修行するのが仏道的なものだとすれば、
「所得」という経済、例えば「プロ=食ってるかどうか」という
考え方が現代では普通のとらえ方で、今は仏道や道義は薄く
なってきていますから、経済1つがモノサシになってくるのかな。

経済効果だの、損失だのが評価の基本。


駆け出しの頃もよく言われました。
「そんな善良にやってたら苦労するよ。貪欲にあれもこれも、
タダでもらえるもんも、もらえないものも、全部もらって行かないと。
みんな、そうやってるし、他人の分とか、考えちゃダメだよ~」
(といって遠慮した機材をドカドカっと下さりました。)

まぁ、その方は慈善で駆け出しに機材を分けて下さってるわけで。
善良なことをされている立派な方々。今でもたまにお世話になります。

お金とか、名誉とか。そういうのを目指していくと、
そういった方々の様にはなれないのだというのは、よく分かります。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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