「禅のすすめ 道元のことば」より その8

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その8。

p45『正法眼蔵随聞記』道元の師、如浄の言葉。
”住持長老なればとて、猥りに衆を領じ、
我物に思うて呵責するは非也。
況や其人に非ずして人の短を謂い、
他の非を謗るは非也、能能用心すべき也。”
~~~~

上の立場の人で、弟子や部下を所有物の如くに振り回し、
叱る時にも容赦なく怒りをぶつけていくような人の話です。

あー。いますよねぇ。

茶道などでは、「家元は親、同門は兄弟」と示されていますが、
ちょっとした役職を盾に、他人を自分の部下の様に使う人も稀に見ます。
まぁ滅多に見ないけれど、非常に厄介な存在ですね。
なかなか、茶道のような場でも、そういったことがあるんです。
普通の世間一般なら、ちょっとしたワンマン社長とか、よく聞きますよね。

自分が指導側でなくとも、子供が出来たら、その手本になります。
教える側の心得というのは、学んでおくべき学問ですね。


後半の文章は「他人の短所を非難するのは気を付けろ!」
「特に、相手がいない場所での非難(陰口)は非常に難しい!」
という言葉ですが。

茶道では茶室での悪口は厳禁とされ、貧富財物の話も原則ダメ。
とても基本的な原則ですが、やはり仏道修業の場だからでしょう。

けれど実際は、なかなかに。そうじゃない場面もまま、見ます。
他人の陰口を言って気晴らしをするくらいなら・・・
茶道なんか、やらない方がいいと思いますが。

なかなか、茶道が仏道ではないとなれば、そうもなります。
ほとんどの人は、出家してはいないのですからね。
実際の運用だと、そういうことは免れないのだと思います。

けっこうね。役職の高い人が多いところほど、、、
ひどい愚痴とか、放言なんかを聞いたりしました。
人を貶しめて、自分を誇示したいのかなぁ、という。

初心の人が集まってる方が、和気藹々としてる。
そっちの方が、居心地が良かったりするのですよね。

「禅のすすめ 道元のことば」その7。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その7。

p38『宝慶記』道元
”いっさいの生きとし生けるものが仏であるというのは、
自然外道(ありのままでよいという誤った考え方をする者)
の言うことである。すべて善も悪もなく、何をやっても、
ありのままでよいとする考え方であり、仏法ではない。”
~~~~

現代に仏道を目指す人がどれだけいるのかは分からないけれど、
日々を善良に生きていこうと思う人は多いと思います。

その”善良”の基本になる道徳は「仏教と儒教」が長かったものが、
明治維新の大改革で、「仏像が木片として」焼かれ、仏教の権威が
終わる方向へと進んできて、今の時代があります。

ありのままでよい。そんな歌が流行しましたね。
善悪の区別も何もなく、「犯罪行為でない限り」という人も、現代は許容します。
子供の教育でも、「叱らない教育」とか、まぁそんな方向性も多いです。

「自由にのびのび」とは、聞こえはよいものの。
子供相手でも、暴力が犯罪行為であることは、しっかり教えないといけません。
規律を体得した上に、大人としての自由を乗せないと、世の中が息苦しい。

良いと思うものを、無条件に肯定していく。
考えなしに。例えば七五三や祭りなど、色々な風習がイベント化してきています。
神仏に捧げるものだったのが、単なる着せ替えのイベントのようになってきて。
うん。確かにとても楽しいですし、難しい儀式の準備や勉強もやりたくないです。
「こっちの方が、いいよね」・・・が深まっていく。

美術教育でも、私の子供の頃でさえ、
「あなたが、良いと思ったものが良いんです。それが個性!」
なんていう教え方でしたよ。この発想が教えられていく。

書道の授業でしたが。
幼少から書道教室に通っていたので、ちゃんとした字が好きだったんです。
でも、「何にも面白くないでしょ?」とか言われて、成績は最低評価でした。
可愛らしい字体で書いてみたり、ハート書いたりした人が、通知表で10。
単なる先生のエゴですよね。ファッション的に個性とか自由って言ってる。
そら先生は、それがいいと思ったんでしょうけれど。

結局、新しい価値観に「置き換わっただけ」。
勉強もなんも不要で、直感感性のみだと、日本の伝統的な工芸美は・・・
普通に理解できないものが沢山に出てきます。
多様な価値を勉強しないで、好きな物だけ高評価していくってのは。
全体として非常に向上のない世界になってしまいます。

まぁ実際、もうマスコミも工芸家も、パッと見て分かりやすいものを、
選ぶし、作るし、売るし、買うようになってきています。

「自由に」選びたいのなら、漆も、陶芸も、金属も、ガラスもプラも、
それぞれの良いところを学んで、良さを知って、それで選びたいもの。
知識が狭すぎると、ホント、何にも分かってないから、自由に選べない。

最初から、ありのままでやっちゃうのは「外道」。道元さんの言葉です。

「禅のすすめ 道元のことば」より その6

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その6。

>p35『天童如浄和尚録』道元
”最近の長老たちはやたらにまだらな衣や袈裟をかけ
また長髪を好み、国師号や禅師号などをもらうことを
出世だと思っている。まったく救いようがない。”
(道元が中国で学んだ師 如浄の言葉)
~~

陶芸でいえば人間国宝という称号・権力があります。
高い名誉の元に権威・権力・政治・経済が集まっていて。
地場観光経済、売上、知名度など直結していますからね。
想像するような、職人の境地っていうものじゃないです。

茶道では免状の他に組織上の肩書があります。
名誉はともかくとして、とても労苦が多いらしく、
人気なのかどうかは、正直言って分かりません。

そういった「地位を求めて努力すること」の正しさ。

権力自体を求めるような心構えの人。
真摯に権力の行使を考えている人。
権力を求めていない、穏やかな人。

権力を奪取に任せていると、権力志向の人が獲ることに。
地位と権力って、うまく配置しないと悲しい歴史が多い。
それは、歴史系の教養があれば常識的な話なのだけれど。

でも実際のトコでは、地位が高くなると、性格が変わってしまう人も。
本人が善良でも、周りの人間に崩されていく場合がありますね。
だから、引き継いでいく時の、見極める眼力というものが必要。

陶芸家でも、地位を得ると進歩が止まってしまう作家も多かった様で。
すっかりと天狗になってしまったような方もいました。悲しいことですが、

そういったものを見ていると、地位を求めることが、
本当に無条件で正しいというのは、ちょっと違うなぁ、と。


私自身の感想なんだけれど。

小学生の頃に担任から陰湿なイジメを受けたことがあって。
まぁ、当時は、教師の体罰・喫煙が当たり前の時代でしたからね。
何があっても顔色を変えない鉄面皮を獲得するまで耐え抜きましたが。

そんなわけで、基本的に権力を振るう人は大嫌いです。

そいで、中学時代にはイジメ撲滅を訴えて生徒会長に立候補して、
10人くらいの不良に囲まれてリンチされるなんていう、馬鹿をやって。
教師も病院送りにされる学校でしたから、教師でも止められない。
今にして思うと、よくあれで済んだものだ。
その後には不良さんに気に入られて、友人になるっていう。

そんなわけで、私は暴力も大嫌いです。

別に、「仏教」だの「悟り」だの、そういうのは全く関係なく、
私は高圧的な権力とか、一方的な暴力とかが嫌いだったので。

就職後も、上場企業の「業者イジメ野郎」と対決して退職。
結構がんばったんですけど、先に精神と体が壊れました。
そんなこんなで、好きだった陶芸へと転身したわけです。

好きとか、嫌いっていうのは置いといて。
大きな権力に対抗するのって、とても難しいですね。

残念ながら、私は勝てなかった場合を多く経験してきました。
道徳的に正しいことを言うのは簡単だけど、実践するというのは、
とても大変なことが沢山あるし、勝てる公算があったとしても、
仕事など、自分の立場を捨てる必要が出てきたりします。

権力装置っていうのは、ホント。人格者に勤めてほしいです。
よくないものが、引き継がれていくと・・・
色々なものが、どんどん、悪くなっていく。
積み重なると、もうね。いわゆる腐敗ってやつですね。

人間国宝制度も、もうね・・・中身を知るとゾっとしました。
茶道界にも中には えぇぇ・・・ と思う側面があるんですよ。

道元も、日本の僧、中国の僧の腐敗を見たのだそうです。
豪華な袈裟を求め、珍奇な数珠を持ち、それで高所から理想を説く。

そういう中には、ちょっと私、入りたくないんですよねぇ。

「禅のすすめ 道元のことば」より その5

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その5。

>p25『典座教訓』道元
”禅の修行者たちの僧団が、自給自足の生活を行うようになってから、
古来、修行道場において最も重要とされた職が典座です。”
”昔から典座は道心堅固な、仏道を真剣に求める立派な人物が任じら
れてきた職”
”食料を買い求めたり、食事の支度をすることは、
修行のできた者こそ行うことが許される重要な仕事なのです。”
~~~~~~

成功者として世間の脚光を浴びたいと願うことは、難しくありませんよね。
反対に下働きをしたいと願うことは、ちょっとなかなか、それよりも難しい。

「信念」や「思想」を持って「下働きを願い出る人」は、
仏教でいう「欲望から解放された人」に見えます。

でもね・・・

茶道には「水屋仕事」という「下働き」があります。
『典座教訓』を読んで、「下働きこそ実は高位修行者なのだ!」
と思って、「我こそ」と願い出る。そういう人もいます。
無理に辛い仕事を引き受けて。まぁ、慣れれば辛くもないけどね。

私もそんなことをしていましたが。

でもね・・・。

そう。これって、「高位修行者の位置へ行きたい」という、
結局は欲望の表出と批判されるもの。形だけ下働きをしながら、
心の中では「いや、自分は高位に居るのだ」と慰めている。

これって「修行のできてない者」の行為なんですよ。
自分で気付いたから救いがあるけど、体の好い笑い草。

陶芸でいう「無作為」の難題と同じだ。
「無作為の作為」:無作為を狙い澄まして作る偽物。「無作為風」。
「無作為」:天衣無縫と言われるような、自由な境地の製作。

これと同じ話だ。無作為が分かりにくければ、自然という言葉が近い。
無作為:自然界の青色や、山並みの景色。まったく自然。
無作為の作為:如何にも自然にありそうな青色。不自然さがある。

楽焼の五岳や、見込みの茶だまりなど。元々が失敗や手抜き、偶然から
産まれてきたものは、その時点では「無作為なもの」なのだけれど、
これが評価されたからといって「楽焼には五岳が必要」とか、「茶碗には茶
だまり」となると、無作為にみえるようにする「作為」になって、反転する。
更にいえば、これには「売れたい」「認められたい」という欲が根付いてくる。

形だけを追って「下働きをやるぞ!」と思っていても、
中身は全く、出世欲とか、名誉欲と変わらなかったりする。
「下働きを続けていれば、いつか出世できるだろう」みたいな、
結局は下心ありありの、典座とは180度真逆のことになる。

表面的な「形」を追うだけじゃ、こんなことになる。


仏教用語に無一物とか、無尽蔵などの言葉がある。
茶道の求める世界が仏道だとすれば、これはダメな例だ。

ただし、茶道を職人的な世界だと見た場合、下働きからの出世は成功例。
職人的な世界なら出世競争・派閥というものも、まぁ普通にあるよね。

茶道も、茶道具も、仏道を理想に置いていた時代を終えて、
現代に適応しようとしているように思う。

「本当の茶道具」の位置づけが、変わってくる。

伝統の「名脇役」を脱出して、
「和」も何も関係なく「茶席の主役争奪戦」を展開するような「現代茶道具」。
日本文化、伝統工芸として華々しく世界に売り出すには、これはわかりやすい。
実際、今はこれが主流。陶芸は仏具から職人工芸、工芸から芸術の世界を狙う。

伝統的な精神に則って、「主役を引き立てる名脇役」に徹して、自然の
ように、在ることを感じさせないような、「和」の精神の中に存在してきた
名品の古き、本来の伝統茶道具だった姿は、もう無くなりつつある。

形は同じ茶道具です。用途も同じ。でも、中身は180度違う。

こういうの、全くマスコミだとか文化行政だとか、何も知らずにやってて。
わかりやすい、また声の大きな方へ、経済に良い方へ、流れていく。
だから、今後の流れがどうなるかは、自明なのです。文字通りの流れ。流行。

わかった上で、さぁ、どうしたものか。そんな世界です。

「禅のすすめ 道元のことば」より その4

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その4。

>p19『典座教訓』道元
道元”如何是文字? 如何是弁道?”
典座”一二三四五 遍界かつて蔵さず”

文字とは何か、修行とは何か。
文字は文字であり、修行でないものは何もない
~~~~~~

言葉は言葉。道徳は「実践」してこそ。
「行動しないなら何もしないのと同じ」という教訓。
やろうと思うと、理想的な人格の実践は、とても重い。

分かったような顔をして、無理をして実践してみて、
そうして自分の身体を潰してしまった私のような例も。
「出来ることを、自分の範囲で、日々実践する。」
そういうことが、尊いのだなぁ。

高い理想を語るのはだけで、実践出来ないのはダメ。
これを学んで、実践してみたけれど、届かなかった。

それで、自分の居る世界が、見えるようになったかな。
「修行でないものは、何もない」なら、「全てが修行」
届かない自分の姿を発見するのも、また修行だったのかな。

「禅のすすめ 道元のことば」より その3

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その3。

p17『上寧宗皇帝表』道元
”仏法の位次は、尊卑・年少を論ぜざるなり。
先に受戒せし者、先にありて座し、後に受戒せる者、後にありて座するは、
けだしこれ七仏・諸祖の通戒なり。”
~~~~~

道元が渡航後、日本僧の待遇改善要求を皇帝に願い出て、達成した言葉。
仏教では、元の身分、財産、階級、男女などに関わらず、「入門の順」
という「平等思想」がある。「利休は身分の平等の精神を茶室に・・・」
という書き方が教科書にあるけれど、

仏教の高僧である利休が設計したのだから、仏教思想の平等は、
むしろあって当然のもの。これを「特徴」と書いちゃう感覚のズレは、
昭和らしい歴史作文というものです。歴史研究もまだまだ大変です。

茶道の茶席ではよく、「男性なので・・・」という男尊思想があります。

茶席を仏教の修行道場と見るなら、
「仏教の修行場のように身分なく修行順に並ぶ」のが本来と解ります。
なので、高僧は上座に座られることが多いですね。

なかなか、茶席で坐る順番ということ1つについても、
きっちりと、これを教わることはありませんし、私も教わったことはないです。
でも、仏教を勉強すると、それが書いてあったりするようで。

わからないままに適当に、何となくやってることも、よくあります。
それがやがて「風習」「慣習」「伝統」、「普通のこと」になる。

例えば茶道の師弟関係も、仏道修行なら、師が弟子を養うわけで、
御家元の門弟はそのように給料もあるという話は聞くものの、
茶道の稽古場は、弟子が払う指導料で成立しています。

それは、仏教の檀家制度の様に近いかなぁ、という感じです。
檀家が、金銭支払いと引き換えに僧を招いて教導してもらう形。

茶道をはじめた人が戸惑うことの1つは、「御祝」の存在。
終日に茶席の手伝いに行って、「御祝」という「指導料」を納める。
戒名をもらって、「お布施」という名目で「戒名料」を納める。
そういう感じに、随分と近い。無料奉仕も同じようになってる。

本来的な師弟なら、陶芸でも内弟子、外弟子を弟子と言います。
陶芸教室にきてる生徒は、生徒であって、弟子とは違う。
内弟子は、何年も衣食住をお世話になっているので、
その御礼として、無償で何年も奉公したりするという風習。
生徒に、檀家的な奉仕をさせていくというのが、今の茶道の風習。

茶道では内弟子制度も見ないし、ほぼ先生と生徒の関係だけれど、
それで師弟関係とされているのは、檀家制度的な観点なのでしょう。
要は仏教的な視点を見ていくと、色々と氷解する場面がある。

現代の茶道は仏教色というか、宗教色をなくしている感じがあります。
「日本文化」としての色を出しているけれど、元々、これは「宗教」です

茶道具も、陶芸界には「仏教なんぞ放り出して芸術品に」という意思があり、
茶道にも「仏教色を切り離して文化の粋を集めた儀式」という脚光の感じかな。
切り離した仏教について、ゴニョゴニョした、説明できない部分がある。

茶道を学んでいくと出てくるゴニョゴニョとした説明が色々行われる。
仏教を勉強すると、ゴニョゴニョしたところが、かなりはっきりしてくる。

ゴニョゴニョと、はっきり仏教だと言わずに続いていくと。
仏教だと全然知らない層が、育ってくる。

猿も、畑の作物を食べて育った世代が完成すると、
もはや畑の作物しか食べなくなってしまう。

実際、高校や大学の茶道というのはそういうもので・・・
華やかな日本文化を楽しみたいという人が完成する。

茶道も、陶芸も、文化事業と、芸術事業に。
昔、それは仏教と、仏具だったんですよ。

世代が変わっていくまでやれば、それが抜け落ちていく。
本来の姿っていうのが、変わっていく。

猿も、今更に木の実だって食べられると言われても、
やっぱりね。畑のおいしい野菜がいいですよ。

段々と、本来の姿も、どうでもよくなっていく。
それが現代の姿。文化は、必ずしも進歩を続けない。

「禅のすすめ 道元のことば」より その2

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。

p12、道元『正法眼蔵随聞記』より
”国家に知られ、天下に名誉せんことを教訓す。”
”高僧伝、続高僧伝等を披見せしに、
大国の高僧・仏法者の様を見しに、今の師の教えの如くには非ず。”
”此国の大師等は土かはらの如く覚て、従来の身心皆改ぬ。”

指導者は全国的な知名度、高い地位を求める修行を指導している。
しかし古の高僧も、中国の高僧も、全くそんな行動、指導をしていない。
つまり、今の指導者はゴミクズようなもので、全く価値がない。
~~~

道元が若いころの言葉で、当時の高僧を真っ向から批判。
「お前たちのやっていることは、仏の教えと全く違う」、と。
もちろん、何をも恐れない発言ですが、彼が権力者の産まれでなければ、
この発言の上で、中国への渡航僧に選ばれることは難しかったでしょう。

現代の陶芸界でも、権力層っていうのはひどいものでした。
「一般受けのするもの、分かりやすいもの、売れそうなことが大事」
「茶道具なんてものは、もうダメです。入選しないよ。」
コレダケの言葉が、1万円払って作品を見てもらっての指導内容。
中身なんて皆無です。やっているのは派閥による入選というね。

「馬鹿じゃねぇのか!?」と、そんなブログ記事を書いた覚えがあります。
まぁ世の中を見てみると、そんなに珍しい話でもないというのがね。
というか、権力を手にするには、登って行く道が決まっていて、
そっから外れたところから、何かしらを打ち立てるのは至難なもの。

分かっていても、若い頃は、まっすぐに反抗してしまうというか・・・
私も、工芸会を見捨て、茶道の修業を志していった思い出です。

「禅のすすめ 道元のことば」より その1

さて、久しぶりに勉強でもしようと思い立ってみました。

茶道の大成者である利休が「豪商」であり「臨済宗大徳寺の高僧」とは知られた話。
この当時の禅僧は、著名な僧ともなれば戦国大名の師匠となり、
政治はもちろん、時に兵法などの軍事さえ指導する最上位の地位。

茶道を深めようとすると、「秘伝の点前」や「許状」、「地位」などなど。
ついつい、最初は、そういった「分かりやすいもの」を目標に頑張ってしまいます。

でも、次第に色々と知ろうとして禅の入門書をパラパラと読んでみると、

「う~ん?」「あれ?」

と、思う事が沢山出てきます。そんな話を整理してみる、適当な独り言。

パラッと開いたのは、「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏。

なんのことはない、子供を連れて涼みに入った図書館で借りた本です。
筆者は道元の研究者にして現役の住職兼、大学教授とありますので、
そこらの歴史学者や歴史文筆家が書いたものよりも信頼が置けますね。

陶芸でもそうですが、実地経験のない、美術史家とか芸術論者の書籍って、
残念ながら上っ面を滑ってる感じで、知識面の学習にはよいけれど、
器に関する分析や所見に関していえば、正直言って微妙なものばかり。
受け売りで語ってる感じと言いますか、「名品だから名品」みたいな。
腰回りの曲線が素晴らしいとか、「実地の感性」で語れてるものは皆無に近い。

そういった意味で、茶道をやってない茶道研究家、禅をされていない禅研究家
の言葉というのは、どうしても空虚さがつきまとってしまって、よくない。
「日々是好日」の言葉1つ、受け売り解説されても感動が無いようなもの。

読み解いてみようとしている私がスッカスカなので。
身近な中から、なるべく実のある、分かりやすい書籍を選んでみた次第。

道元禅師は、もちろん利休の臨済宗ではなく曹洞宗です。
その始祖である栄西に学んだ上で、更に本場中国で禅修行をした方。
両者の違いは「公案」と「座禅」などと言われるようですが、
それは今現在21世紀などの話であって、道元の言葉が書かれた当時は、
「栄西に学んだ上で、中国で禅修行を重ねた人の言葉」です。

なので、「道元禅師は曹洞宗だから」という論法は、ちょっと本質に遠いかと。
「臨済宗の始祖たる栄西に学び、それを中国本場の禅に照らした高僧の言葉」
と見れば、日本における禅の生成期の思想、言葉と見ることが可能です。

およそ仏教全体、始祖を重んじて、それを大切にする風習がありますので。
茶道が利休に常に回帰していくように、更に利休の禅思想の本流を知ることは、
茶道の観点を知る上で、なかなかに勉強になるのではないか、と思います。

夏を迎えて。

natuyasumi.jpg
しばらく更新が途絶えておりまして。
夏休みは仕事もあり、子供の世話もありで、なかなか時間も取れず。

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お祭りへも出かけて、色々と連れまわして、
プールへ行ったり、熱を出したり。

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子供は夏の産まれなので、誕生日も2回あり。

 uminiittari.jpg 
海にも連れて行きました。


楽しそうでいいですね。陶芸体験には夏休みの子供さん連れも。
自然の涼しさだけなので、クーラーも検討したのですが、
扇風機で何とか我慢をして頂いておりますが、
都会からお越しの方は涼しいと仰って下さります。

お盆は祖父と叔母お参りもあり、体験予約も止めて、ゆっくり。
嫁さんも休みになったので、ようやくにブログも更新という次第。
PCの置いてある部屋は・・・昼間は蒸し風呂なのですよ。

体調は・・・もうね、体が重くても、さて暑さのせいか、風邪か、
疲労のせいか、エアコンのせいか、どれがどれだか分かりません。
割とハードな日々を送っています。

色々と心境の変化というか。


落ち着いて、今後の方向性を考えています。

自分の趣味的には、秋に「楽窯」を作ろうかと思っていますが、
現況の茶道具の価格暴落状況を見るに、茶道具はもう主軸には出来ないです。
ここ数ヶ月の間にも、暴落は進行中という感がありますね。

ヤフオクなどを見ていても、収集家の放出品も散見される状況。
随分昔に私が作った、一番良い仕上がりで売れていった酒器なども。
かつて、応援して下さった方が亡くなったのかな、と思いつつ。

茶道はもうしばらく休眠。
高価な茶道具を求めて、茶会を披いてきた世代の手法は、
正直に言って、次世代には荷が重い。

私自身も、「貧乏人根性が出たら茶道は駄目」という言葉を受けて、
上を目指して、様々な採算を度外視して続けてきたのですが・・・
しかしながら無理をしても、上の世界ほど別次元で。
そうすると、心ないコトを言われることもありました。
あれは辛かったし、悔しかったなぁ。
まぁでも、祇園祭りの御稚児さんで知られるような、
そういう感覚なのだなぁ、と諦めもあり。
茶道具を作る分には十二分に学んだかな、と。
貧しく在るべしとはならないのが今の環境。

そんなことを、ちょっと冷静に観られる様になったかなぁ。
やはり、浸かりきっていると色々と見えないものです。

身の丈にあったお茶を、来窯される方々に。
初めて頂かれる方、子供さんも多く居られ、
それを楽しいと思っています。

そういえば、昔に話を聞いた名作家の多くも、
茶道は現役ではなく引退後の方ばかりでした。

少し前に友人に言われましたが。
「過労で死にかけるくらいヤバいトコまで行った奴が、
1年や2年で復活するわけないやろ。まじやめとけ。」

なるほどなぁ・・・。思い返してみれば、結構危なかった。
障害でも抱えてたら、家族に本当に申し訳ないことになっていた。

まぁ、建て直しの陶芸体験も、まずまず順調ですし、
陶芸の業界では、40歳前後からの参入も珍しくないくらい。
仕切り直しは、まだまだ出来る。


そんな気持ちで、新しい方向を思案しています。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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