独学「禅のすすめ 道元のことば」より その8

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その8。

p45『正法眼蔵随聞記』道元の師、如浄の言葉。
”住持長老なればとて、猥りに衆を領じ、
我物に思うて呵責するは非也。
況や其人に非ずして人の短を謂い、
他の非を謗るは非也、能能用心すべき也。”
~~

人を指導する側に立つ。茶道では講師の資格などがありますが。
子供を育てていく時も同じことでしょうか。

茶道などでは、「家元は親、同門は兄弟」と示されていますが、
ちょっとした役職を盾に、他人を自分の部下の様に使う人も稀に見ます。
まぁ滅多に見ないけれど、非常に厄介な存在ですね。

子育てでは、陥りがちな罠なので、日頃から注意しています。
良い方向に導いていく心づもりがないと、感情でつい、怒ってしまって。
厳しい「指導」とはなんでしょう。つい、忘れがちになります。

他人の短所についても。
茶道では茶室での悪口は厳禁とされ、貧富財物なども含まれます。
とても基本的な原則ですが、やはり修業の場だからでしょう。
貧相な道具しかないとか、点前が下手とか、発表会じゃないのです。

けれど実際は、なかなかに。そうじゃない場面もまま、見ます。
ついでにいえば、政治の話も厳禁ですが、政治家さんは来ます。
お茶をされていない政治家さんが名誉職でよく居られます。

他人の陰口を言って気晴らしをするくらいなら・・・
茶道なんか、やらない方がいいと思いますが、
なかなか、仏道じゃない方面も盛んですし、
ほとんどの人は、出家してはいないのですから。
実際の運用だと、そういうことは免れないのだと思います。


独学「禅のすすめ 道元のことば」その7。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その7。

p38『宝慶記』道元
”いっさいの生きとし生けるものが仏であるというのは、
自然外道(ありのままでよいという誤った考え方をする者)
の言うことである。すべて善も悪もなく、何をやっても、
ありのままでよいとする考え方であり、仏法ではない。”
~~

まぁ、現代に仏道を目指す人がどれだけいるのかは分かりませんが、
日本の伝統的価値観”道徳”は「仏教と儒教の融合的なもの」ですから、
ここが変わってくると、「大切にされるもの」が変わってくることになります。
例えば、明治維新の大改革では、「仏像が木片として」焼かれました。
それが起点となって、今の時代があります。

ありのままでよい、という考え方をどう考えるか、難しいところですが、
善悪の区別も何もなく、「犯罪行為でない限り自由が認められるべき」
というのが現代的な価値観の前提であろうかと感じています。
陶芸の世界でも、経済性の前には、デザインの盗用はもちろん、
もうほとんど、何でもござれとばかりの様相で、「今が良ければ」の世界。
まぁ、自由といえば自由ですけど、その自由が当たり前の時代。
道徳的には悪いことだと分かっていても、犯罪じゃないし、やってしまう。

こういう時代に、仏教だの、道徳だの言ってみたところで、どうでしょうか。
終末思想じゃないですが、なかなか、教えは広まらないかもしれません。
仏道が最上位に置かれてきた時代は、過去になりつつあります。
今の、祖父母の時代、今100歳や、そういった方々が最後の世代かな。

子供の教育でも、「叱らない教育」とか、まぁそんな方向性も多いです。
「自由に!自由に!」と、一直線に結果を求めているような、そんな感じ。
規律を体得した上に自由を乗せないと、道を踏み外すと思うんですが。

子供はやんちゃと言っても、他人への暴力は、大人なら警察に御用です。
でも何かね。叱らないから、他人への暴力をしている子も、口だけで止めたり。
そうするとね。子供なんて、言われても聞かない子も多いんですから。
そのまま、親に反抗するような年頃になるかもしれないのになぁ。

やがて、その世代が中心を占めると、価値観は変わっていきます。
神仏の、例えば七五三や祭りなど、色々な風習がイベント化していますね。

仏道修行で使う茶道具もまた、すでに「美の競演」のような工芸品です。
こういったことは、時代の流れから見ると、流れがよく理解できます。
みんなで仏教をやっていた時代は終わったのですから。

美術教育でも、私の子供の頃でさえ、
「あなたが、良いと思ったものが良いんです。それが個性!」
なんていう教え方でした。実際は・・・

書道の授業でしたが。
幼少から書道教室に通って、奇麗な筆文字を書くと通知表が最低評価の4。
可愛らしい字体で書いてみたり、ハート書いたりした人が、通知表で10。
単なる先生のエゴですよね。ファッション的に個性とか自由って言ってる。

そんな価値観で育ってきた人が、日本の工芸美は、ちょっと難しいですよ。
文字1つ、奇麗に書くだけの初歩でも、練習が必要だし、バランスの感性も必要。
こういった「感性の練磨」の結果が、日本の伝統的な工芸美の根底なのですが。
そういう前提自体を、そもそも教えられていないのですから。

そうすると、工芸品をちゃんと評価できる人もいなくなってきて。
わかりやすい、現代風のものを、マスコミを始め、取り上げるようになって。
人気の出るようなものを、作家も作るようになっていって。

という感じで、工芸品にも、流行のような、ファッションのような。
職人的なものも、流行の一種、「1つの様式」になりました。

自由の中で、何を選んでいくのか。とても難しい選択だなぁ、と思います。

独学「禅のすすめ 道元のことば」より その6

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その6。

p35『天童如浄和尚録』道元
”最近の長老たちはやたらにまだらな衣や袈裟をかけ
また長髪を好み、国師号や禅師号などをもらうことを
出世だと思っている。まったく救いようがない。”
(道元が中国で学んだ師 如浄の言葉)
~~

陶芸でいえば人間国宝という称号があるけれど。
今は、すっかり権威・権力化・政治化して、争奪対象です。
地場観光経済、売上、知名度など直結していますからね。
上がっていく程に、見返りも大きいものがあるわけです。
そんな話は過去にも色々書いたので割愛。

茶道では免状の他に各種の肩書がありますが。
名誉はともかくとして、おそらくとても労苦が多いので。
人気なのかどうかは、正直言って分かりません。
どちらかと言えば、檀家の総代みたいな感じでしょうか。
取りまとめ、付き合い、出費など、負担はとても重い。
会社勤めをしながらでは、難しいのでは。

地位を求めて努力することが”当たり前”という価値観は根強い。
昨今でこそ、激務の管理職を敬遠する向きもあるらしいですが。
なおさら、”強引にでも権力を獲りに行く人”が、権力を取ってしまう。
権力が欲しくて高い地位についた人は、もちろん権力を使いたい人。
だから、高圧的な振舞いに至ることが多いのは自明です。

権力自体を求めるような心構えの人が権力者につくと、高圧的になる。
真摯に権力の行使を考えている人を権力者に据えれば、正しく行われる。
権力を求めていない、穏やかな人を権力者に据えれば、穏やかになる。
組織運営的な知恵というものでしょうか。

こういうのは中国の古典など歴史系の教養があれば常識的な話で、
江戸時代などの日本では、学問の基本教養だったそうです。
歴史の勉強で年号や用語を暗記しても意味薄いんですよね・・・。

でも実際のトコ、地位が高くなると、性格が変わってしまう人も多いようで。
刀を持たせると、ついつい斬りたくなってしまうと言われますが。
周囲に、利用しようとする人、権力好きな人なども群がってしまうので。
本人が善良でも、周りの人間に崩されていく場合がありますね。
ホント、今も昔も、人間はなかなか変わらないものらしいです。

陶芸家でも、地位を得ると進歩が止まってしまう作家も多かった様で。
すっかりと天狗になってしまったような方もいました。悲しいことですが、
地元振興や、派閥形成による弟子の引き立てなどなどであれば、
まぁ、是非は各論あってしかるべきだとは思います。

良いものを作ることだけが、陶芸家の使命ではないでしょうから。

と、細かく考えていくと、権力というのはとても煩雑ですね。


私自身の感覚でいえば・・・
小学生の頃、絶対的強権たる担任から公然と陰湿なイジメを受けて。
当時は、教師の体罰や喫煙も当たり前の時代でしたからね。
他愛のないことでしたが、彼女は随分とプライドを傷つけられたらしく。
何があっても顔色を変えない鉄面皮を獲得するまで耐え抜きましたが。

うーん。やっぱり権力を振るう人は単純に嫌いです。

そいで、中学時代にはイジメ撲滅を訴えて生徒会長に立候補して、
10人くらいの不良に囲まれてリンチされるなんていう、馬鹿をやらか
しました。教師も病院送りにされる学校でしたから、先生も見てるだけ。
もちろん、生徒も見てるだけ。触らぬ神になんとやらで投票しません。

そんなこんなで、暴力も大嫌いです。

別に、「仏教」だの「悟り」だの、そういうのは全く関係なく、
私は高圧的な権力とか、一方的な暴力とかが嫌いだったので。

就職後も、上場企業さんの業者イジメ野郎と対決して退職。
そんなこんなで、好きだった陶芸をやっております。

現実には、高圧的な権力に対抗するのって、とても難しくって。
残念ながら、私は勝てたことがないです。潰すのも難しい。
道徳的に正しいことを言うのは簡単だけど、実践するというのは、
とても大変なことが沢山あるし、現実生活において損害が大きい
場合もある。

今は特に、人格より実績で権力を与えていく時代ですから。
そうして、ロクでもない人が次々と権力者になると、救いようがない。
実感としても、そう思います。どうしようもない。ホント。
そんだけの話ですね。

独学「禅のすすめ 道元のことば」より その5

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その5。

p25『典座教訓』道元
”禅の修行者たちの僧団が、自給自足の生活を行うようになってから、
古来、修行道場において最も重要とされた職が典座です。”
”昔から典座は道心堅固な、仏道を真剣に求める立派な人物が任じら
れてきた職”
”食料を買い求めたり、食事の支度をすることは、
修行のできた者こそ行うことが許される重要な仕事なのです。”
~ここまで~

成功者として世間の脚光を浴びたいと願うことは、難しくありませんよね。
反対に下働きをしたいと願うことは、ちょっとなかなか、それよりも難しい。
自信のない人でも、「私は下働きくらいでOKです」というような、消極選択。
積極的に願い出るというのは、何か「信念」や「思想」がないと行われない。

「信念」や「思想」を持って「下働きを願い出る人」は、
仏教でいう「欲望から解放された人」に見えます。

でもね・・・

例えば。茶道は「水屋仕事」という「下働き」があります。
『典座教訓』を読んで、「下働きこそ実は高位修行者なのだ!」
と思って、「我こそ」と願い出る。そういう場合があります。
また、無理に辛い仕事を引き受けます。慣れれば辛くないけどね。

はい。もちろん、かつての私のことです。

でもね・・・。

そう。これって、「高位修行者の位置へ行きたい」という、
結局は欲望の表出なんですよね。形だけ下働きをしながら、
心の中では「いや、自分は高位に居るのだ」と慰めている。

これって「修行のできてない者」の行為なんですよ。
自分で気付いたから救いがあるけど、体の好い笑い草。

陶芸でいう「無作為」の難題と同じだ。
「無作為の作為」:無作為を狙い澄まして作る偽物。「無作為風」。
「無作為」:天衣無縫と言われるような、自由な境地の製作。

これと同じ話だ。無作為が分かりにくければ、自然という言葉が近い。
無作為:自然界の青色や、山並みの景色。まったく自然。
無作為の作為:如何にも自然にありそうな青色。不自然さがある。

楽焼の五岳や、見込みの茶だまりなど。元々が失敗や手抜き、偶然から
産まれてきたものは、その時点では「無作為なもの」なのだけれど、
これが評価されたからといって「楽焼には五岳が必要」とか、「茶碗には茶
だまり」となると、無作為にみえるようにする「作為」になって、反転する。
更にいえば、これには「売れたい」「認められたい」という欲が根付いてくる。

形だけを追って「下働きをやるぞ!」と思っていても、
中身は全く、出世欲とか、名誉欲と変わらなかったりする。
「下働きを続けていれば、いつか出世できるだろう」みたいな、
結局は下心ありありの、典座とは180度真逆のことになる。

表面的な「形」を追うだけじゃ、こんなことになる。

仏教用語に無一物とか、無尽蔵などの言葉が多いのは、
欲望からの自由を目指しているからというのも納得される。

そうして、茶道の求める世界が仏道だとすれば、こうなるけれど。

こんな指導はちょっと見当たらないし、茶道の指導者は仏僧ではないし。
すると、職人的な、下働きからの出世みたいな、わかりやすい世界になる。
そうすると、出世競争や出る杭叩き、派閥ってのが、普通に出てくる。
加えての、「華やかな日本文化の旗手」として役割の期待があって。

これから、茶道も、茶道具も、今よりもっと、深い迷路に入っていくのかな。
現代評価では「進歩」であって、「迷路」ではないのかもしれないけれど。

「本当の茶道具」の位置づけも、同じ話。

「名脇役」を脱出して「和」も何も関係なく「主役」を競う「現代茶道具」。
日本文化、伝統工芸として華々しく世界に売り出すには、わかりやすい。
実際、今はこれが主流になっています。

伝統的な精神に則って、「主役を引き立てる名脇役」に徹して、自然の
ように、在ることを感じさせないような、「和」の精神の中に存在してきた
名品の古き、本来の伝統茶道具。

形は同じ茶道具です。用途も同じ。でも、中身は180度違う。

こういうの、全くマスコミだとか文化行政だとか、何も知らずにやってて。
わかりやすい、また声の大きな方へ、経済に良い方へ、流れていく。
だから、今後の流れがどうなるかは、自明なのです。文字通りの流れ。流行。

長い休養を経て。自分の未熟さと、現況の厳しさに立ち尽くしています。

独学「禅のすすめ 道元のことば」より その4

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その4。

p19『典座教訓』道元より
道元”如何是文字? 如何是弁道?”
典座”一二三四五 遍界かつて蔵さず”

文字とは何か、修行とは何か。
文字は文字であり、修行でないものは何もない
~ここまで~

言葉は言葉であって、それ以上でもそれ以下でもない。
中国古来の、論語は「実践」してこそ。読むだけなら馬鹿と同じ。という教訓だ。

論語は、日本の道徳的な規範の原点であるわけだけど、
本を読んで、判ったような、出来たような顔をする人は多い。

理想的な人格「君子」の実践というのは、とても重くて。
分かったような顔をするくらいが、関の山だったりする。

でもそれって、読むだけのバカと同じ。
そう、論語は言っている。

分かったような顔をして語ることは、傲慢だ。
実践出来ていないのに、知識だけで偉そうにする行為は虚勢だ。
それで、さも実践しているかの様に虚勢に虚勢を重ねていく。
これを「小人の行い」と、論語は云う。

分かったような顔をしなくてもいい。
無理をして自分を「君子」にしても、実践の重さで潰れてしまう。
実際に、私は自分で自分を潰してしまったのだ。

出来ることを、自分の範囲で、日々実践する。
偉そうに、理想ぶる必要なんか、どこにもない。

1つ、自分への教訓として忘れないでおきたいのは。
高所から物を申している時点で、論語の「道」からは遠い人だ。

色々な、高名な作家を巡り歩いたことがあるけれど。
語っている言葉と、その実践に大きな差があることは、悲しい。
その落差が大きければ大きい程に、その姿は醜い。

それを、ここ数年、実感した。
やってみて、分かった。

分かったことは、論語に書いてあった。
やっと論語の意味が、1つ、分かった。

それで、自分の居る世界が、見えるようになった。

独学「禅のすすめ 道元のことば」より その3

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。その3。

p17『上寧宗皇帝表』道元
”仏法の位次は、尊卑・年少を論ぜざるなり。
先に受戒せし者、先にありて座し、後に受戒せる者、後にありて座するは、
けだしこれ七仏・諸祖の通戒なり。”

道元が渡航後、日本僧の待遇改善要求を皇帝に願い出て、達成した言葉。
仏教では、元の身分、財産、階級、男女などに関わらず、「入門の順」
という「平等思想」がある。

「利休は身分平等の精神を茶室に・・・」
という書き方が教科書にあるけれど、

仏教の高僧である利休が設計したのだから、
仏教思想の平等が盛り込まれていなかったら、
逆におかしい。あって当然のもの。
これを「特徴」と書いちゃう感覚のズレは、
よくある昭和の歴史作文です。

茶席ではよく、男性なので・・・という男尊思想、
来賓扱いとして議員さん優先も茶飯事ですが。

茶室を仏教の修行道場と見るなら、
「仏教の修行場のように身分男女なく修行順に並ぶ」のが本来と解ります。
遅刻厳禁とか、私語厳禁、金銭や陰口の禁止など、色々なものが戒律に準じて
語られているのだと認識することは、大事な見方かもしれませんが、
きっちりと、これを教わることはありませんし、私も教わったことはないです。
受戒は、茶道では僧名(茶名)取得、十徳着用なのかな。

でも修行と言ってしまうと、色々な忖度といいますか、
そういうものが出来なくなるのも分かります。
世の中一般とのすり合わせ、必要資金、人数などなど・・・

理想を運用するための矛盾は、洋の東西を問わぬもの。
大人数の大寄せ茶会をする上では、指導も出来ない。
お道具も、良いものを使うことが重なっていく。

「仕方ない」を繰り返し、受け継いでいくと・・
それがやがて「風習」「慣習」「伝統」、「普通のこと」になる。

例えば茶道の師弟関係も、仏道修行なら、師が弟子を養うわけで、
御家元の周辺はそうなっていると聞き及ぶわけですが・・・

ほとんど茶道稽古場では、稽古代といいつつ、実際は寺院と檀家のような、
ざっくり、江戸時代の檀家制度の様になっているのが普通になってる。
檀家が、金銭支払いと引き換えに僧を招いて教導してもらう形だ。

ちょっとした場面で、茶道の半強制的な徴収形態に疑問が出る。
なんで、手伝いに行ってるのに、金銭の支払いが必要なのか。
勉強代っていう言い方もあるけれど、檀家制度の流れでしょうね。

だから、高僧を呼ぶなら御礼が必要になるし、待遇も必要になる。
でも、まさか檀家制度のようなものとは説明出来ないでしょうね。

本来的な師弟なら、陶芸でも内弟子、外弟子を弟子と言います。
陶芸教室にきてる生徒は、生徒であって、弟子とは違う。
弟子は無料で御礼奉公したりしますが、養ってもらったから。

茶道では内弟子制度も見ないし、ほぼ先生と生徒の関係だけれど、
それで師弟関係とされているのは、檀家制度的な観点なのでしょう。
要は仏教的な視点を見ていくと、色々と氷解する場面がある。

現代の茶道は仏教色というか、宗教色をなくして、「文化」としての
表示が望まれている側面もあるとはいえ、「仏教」の中にあります。
茶会が寺院を舞台に行われることが多いのは、そこに依るもの。
「同じ日本文化の仲間」みたいな感じで見せてるけど、一心同体の仏教徒。

陶芸は「茶道を切り離した茶道具」という自己矛盾の時代。
茶道も「仏教色を切り離した数寄者の茶」が脚光され、
そこから、どうにもゴニョゴニョした部分が内包されている。

仏教色がなんでこんなに排除されているのか、
茶道を学んでいくと出てくるモヤモヤの正体は、仏教、仏道。

それが継続されて数十年。昔は寺院関係の人が多かった茶道も、
茶道を「茶道文化」と認識して参加する新しい層が増えて・・
それが、次世代の茶道を担う青年層を形成するようになると・・

仏教のつもりで、茶道を始めたのではないのですから。
実際、高校や大学の茶道というのはそういうもので・・・

華やかな文化を楽しみたいという人が多くなり、矛盾が出てくる。


そりゃぁ、そうなりますよ。

独学「禅のすすめ 道元のことば」より その2

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏 より、適当な独り言。

p12、道元『正法眼蔵随聞記』より
”国家に知られ、天下に名誉せんことを教訓す。”
”高僧伝、続高僧伝等を披見せしに、
大国の高僧・仏法者の様を見しに、今の師の教えの如くには非ず。”
”此国の大師等は土かはらの如く覚て、従来の身心皆改ぬ。”
~引用ここまで~

指導者は全国的な知名度、高い地位を求める修行を指導している。
しかし古の高僧も、中国の高僧も、全くそんな行動、指導をしていない。
つまり、今の指導者はゴミクズようなもので、全く価値がない。

権力をものともしない、痛烈な批判。問題発言もよいとこですね。
彼が権力者の産まれでなければ、その後に渡航僧になることは難し
かったと思いますよ。権力による歪みというのは、現代も同じ。
源流を見てみると、今の状況の歪みが見えてくる。原点回帰の大切さ。

陶芸でも、工芸会(人間国宝派閥)の指導っていうのはひどいものでした。
「一般受けのするもの、分かりやすいもの、売れそうなことが大事」
「茶道具なんてものは、もうダメです。入選しないよ。」
コレダケの言葉が、1万円払って作品を見てもらっての指導内容。
そして派閥による入選可否の横行。

「馬鹿じゃねぇのか!?」と、そんなブログ記事を書いた覚えがあります。
今の時代って、もうホントコレなので、「これが普通」になってる。
というか、コレの中に入らないと、登って行けないようになってる。
会社の派閥とか、町内会とか、まぁ別に不思議もなく古今に存在しますね。
そういうのが、芸術だの工芸だのにも、まぁ普通に存在してます。

若い頃は、やっぱり純粋といいますか、反権力的と言いますか・・・、
結局、「現代茶陶は茶道を切り離した茶道具という矛盾した存在」と突き止め、
更に言えば、「工芸会は、その成立からエコ贔屓の政治的な存在」と行き着いて、
自分で茶道具の在り方を勉強をしようと、茶道の修業を志していった思い出です。

独学「禅のすすめ 道元のことば」より その1

さて、久しぶりに勉強でもしようと思い立ってみました。

茶道の大成者である利休が「豪商」であり「臨済宗大徳寺の高僧」とは知られた話。
この当時の禅僧は、著名な僧ともなれば戦国大名の師匠となり、
政治はもちろん、時に兵法などの軍事さえ指導する最上位の地位。

茶道を深めようとすると、「秘伝の点前」や「許状」、「地位」などなど。
ついつい、最初は、そういった「分かりやすいもの」を目標に頑張ってしまいます。

でも、次第に色々と知ろうとして禅の入門書をパラパラと読んでみると、

「う~ん?」「あれ?」

と、思う事が沢山出てきます。そんな話を整理してみる、適当な独り言。

パラッと開いたのは、「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆氏。

なんのことはない、子供を連れて涼みに入った図書館で借りた本です。
筆者は道元の研究者にして現役の住職兼、大学教授とありますので、
そこらの歴史学者や歴史文筆家が書いたものよりも信頼が置けますね。

陶芸でもそうですが、実地経験のない、美術史家とか芸術論者の書籍って、
残念ながら上っ面を滑ってる感じで、知識面の学習にはよいけれど、
器に関する分析や所見に関していえば、正直言って微妙なものばかり。
受け売りで語ってる感じと言いますか、「名品だから名品」みたいな。
腰回りの曲線が素晴らしいとか、「実地の感性」で語れてるものは皆無に近い。

そういった意味で、茶道をやってない茶道研究家、禅をされていない禅研究家
の言葉というのは、どうしても空虚さがつきまとってしまって、よくない。
「日々是好日」の言葉1つ、受け売り解説されても感動が無いようなもの。

読み解いてみようとしている私がスッカスカなので。
身近な中から、なるべく実のある、分かりやすい書籍を選んでみた次第。

道元禅師は、もちろん利休の臨済宗ではなく曹洞宗です。
その始祖である栄西に学んだ上で、更に本場中国で禅修行をした方。
両者の違いは「公案」と「座禅」などと言われるようですが、
それは今現在21世紀などの話であって、道元の言葉が書かれた当時は、
「栄西に学んだ上で、中国で禅修行を重ねた人の言葉」です。

なので、「道元禅師は曹洞宗だから」という論法は、ちょっと本質に遠いかと。
「臨済宗の始祖たる栄西に学び、それを中国本場の禅に照らした高僧の言葉」
と見れば、日本における禅の生成期の思想、言葉と見ることが可能です。

およそ仏教全体、始祖を重んじて、それを大切にする風習がありますので。
茶道が利休に常に回帰していくように、更に利休の禅思想の本流を知ることは、
茶道の観点を知る上で、なかなかに勉強になるのではないか、と思います。

夏を迎えて。

natuyasumi.jpg
しばらく更新が途絶えておりまして。
夏休みは仕事もあり、子供の世話もありで、なかなか時間も取れず。

 natumosakari.jpg odekake_201908120558325fa.jpg 
お祭りへも出かけて、色々と連れまわして、
プールへ行ったり、熱を出したり。

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子供は夏の産まれなので、誕生日も2回あり。

 uminiittari.jpg 
海にも連れて行きました。


楽しそうでいいですね。陶芸体験には夏休みの子供さん連れも。
自然の涼しさだけなので、クーラーも検討したのですが、
扇風機で何とか我慢をして頂いておりますが、
都会からお越しの方は涼しいと仰って下さります。

お盆は祖父と叔母お参りもあり、体験予約も止めて、ゆっくり。
嫁さんも休みになったので、ようやくにブログも更新という次第。
PCの置いてある部屋は・・・昼間は蒸し風呂なのですよ。

体調は・・・もうね、体が重くても、さて暑さのせいか、風邪か、
疲労のせいか、エアコンのせいか、どれがどれだか分かりません。
割とハードな日々を送っています。

色々と心境の変化というか。


落ち着いて、今後の方向性を考えています。

自分の趣味的には、秋に「楽窯」を作ろうかと思っていますが、
現況の茶道具の価格暴落状況を見るに、茶道具はもう主軸には出来ないです。
ここ数ヶ月の間にも、暴落は進行中という感がありますね。

ヤフオクなどを見ていても、収集家の放出品も散見される状況。
随分昔に私が作った、一番良い仕上がりで売れていった酒器なども。
かつて、応援して下さった方が亡くなったのかな、と思いつつ。

茶道はもうしばらく休眠。
高価な茶道具を求めて、茶会を披いてきた世代の手法は、
正直に言って、次世代には荷が重い。

私自身も、「貧乏人根性が出たら茶道は駄目」という言葉を受けて、
上を目指して、様々な採算を度外視して続けてきたのですが・・・
しかしながら無理をしても、上の世界ほど別次元で。
そうすると、心ないコトを言われることもありました。
あれは辛かったし、悔しかったなぁ。
まぁでも、祇園祭りの御稚児さんで知られるような、
そういう感覚なのだなぁ、と諦めもあり。
茶道具を作る分には十二分に学んだかな、と。
貧しく在るべしとはならないのが今の環境。

そんなことを、ちょっと冷静に観られる様になったかなぁ。
やはり、浸かりきっていると色々と見えないものです。

身の丈にあったお茶を、来窯される方々に。
初めて頂かれる方、子供さんも多く居られ、
それを楽しいと思っています。

そういえば、昔に話を聞いた名作家の多くも、
茶道は現役ではなく引退後の方ばかりでした。

少し前に友人に言われましたが。
「過労で死にかけるくらいヤバいトコまで行った奴が、
1年や2年で復活するわけないやろ。まじやめとけ。」

なるほどなぁ・・・。思い返してみれば、結構危なかった。
障害でも抱えてたら、家族に本当に申し訳ないことになっていた。

まぁ、建て直しの陶芸体験も、まずまず順調ですし、
陶芸の業界では、40歳前後からの参入も珍しくないくらい。
仕切り直しは、まだまだ出来る。


そんな気持ちで、新しい方向を思案しています。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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