しきたり

さて。ここ数日では昨日が朝から地元新年会。おそらくは元々、各戸の家主が紋付袴で会食をした風習の名残であろうかと思います。それこそ紋付袴というもの自体、現代では一種のコスプレと云いますか、若い世代の感覚から云わせて頂くと、一種「結婚式で着てみたい」というような、元来そうであっただろう、「家紋を背負って振る舞う」というような性質からは無縁のものになりつつあろうかと思います。時節柄ですが、成人式で「紋付」を背負って暴れるというのは、それこそ端的に現代の「家紋」の扱いを示しているのかもしれません。

茶会が紋付礼装を旨とする際も、やはり「家紋の有無」というものが区分となっているわけですが、実際には家紋というもの自体、特に知ることもなく。私自身も茶道を始めて、着物を始めて仕立てるに当たって、改めて確認して知ったような次第です。他の場所ですと・・・千両箱に付いていたり、嫁入り?道具の長持ちなどに金箔で押してあるのを見た覚えがありましょうか。年末の赤穂浪士では、何故なのか知らないのですが、大々的に家紋が刺繍されていますね。あそこまで行かなくても良いとは思うのですが。


余談はさておき。

地元新年会。在所13件の戸主が集まってのもの。私が入らせて頂いた4~5年程前は礼服での新年会でしたが、年々と服装についても緩くするようになってきて、今年は特に礼服で無くともOKというものに。特に葬式関係などもそうですし、家々持ち回りで行っていたようなものも全て公民館などを利用するようになって。これを「生活改善」と呼ぶそうで、つまりは「古くから行われてきた慣習を破棄する」ということを、一種美化といいますか、「世のため人のため」ということで、次々と推し進められています。ホンの数年前までは自宅での葬儀しか無かったものを、今は大半が葬祭場を使うようになって。何かの堰を切ったかのように、「しきたり」というものは一瞬で失われるのを不思議に思いながら見ています。自宅葬儀1つにしても、では葬儀の準備にせよ灯篭の配置から借りだし先から、分かっている人が居た様ですが、そういった世代が次々と亡くなっていくにつれ、「生活改善」という指標と、そもそも「しきたり」に意味を見出せない世代感覚とが相俟って、全く誰一人として、自宅葬儀というものが不可能になりつつある。

田舎では、そういった「生活改善」が次々と進められています。近い辺りでは正月の「おせち料理」を想像して頂くと近いかな。調べれば調理方法などは分かるのですが、その意味にせよ、有難味?にせよ、「一体なぜそれを食べるのか」と問われれば、正直私も知らないです。どこもかしこも、「雑煮」だけは皆さん美味しく召し上がっておられるかと思うのですが、ウチも全く変わりません。年賀状も年々と少なく、形式のものになりつつありますね。色々な「しきたり」が無くなっていく。中元とか歳暮を無くす。迷信などを排除する。

例えば。葬式の際に、粗供養として、田舎では抱えきれない程の品々を頂戴することになります。一日葬儀の手伝いをして、夕刻前からの会食に酔った足取りで持って帰るのは、正直危ないくらいの量です。これが何故に必要なのか?と思う人は多いでしょうし、同時に無くしてしまえば良いものを、と考える人も多いのでしょうか。意外にネットで調べても、大量の供養物を配布する理由は判然としないそうで、葬儀会社の人でさえ知らないという結果でしたが、以前、地元の和尚さんに聞いたものでは、文字通りの供養。「亡くなった方への供え物。あの世に居られる方々への供え物であり、来訪者への御礼などでは決して無い」という話を聞いて、「あぁ、なるほど」と感じ入ったものです。駄菓子のようなものが混じるのも、あの世への供養。「施餓鬼」という風習に似たあたりでしょうか。


「しきたり」。その意味を知らなければ、本当に何のためにやっているのか、誰のためのものなのか、サッパリ分かりませんね。いわゆる「知識」が無ければ分からないもの。感覚的に美味しい「雑煮」は残すけれども、感覚的に美味しいとは言い難い「それ以外のおせち料理」は「改善」してしまうというのは、うぅむ。一体全体、好き勝手にやっているだけの話ですね。仏教1つにしても、随分と信仰心の低い国ではありますが。供養1つにしても、その仏教的な意味を聞けば、自身の関わる葬儀で大量の供養を積む人が居ても、何ら不思議では無いような気がします。

「茶道」というものも、同じく一種の「しきたり」が多く存在します。一見して何の意味があるのか分からない所作の数々。意味が分からない初心の頃は必ず、「小面倒な所作は省略して、美味しい御茶だけ飲めば良いのでは?」と思ったりしてしまうものでしょうか。意味を聞いて初めて、「決して省略してはならないもの」である事を感じられる。楽茶碗1つにしてもそうですし、茶杓にしても、軸にしても、もちろん茶道具にしても。

良いと思うものは、良い。悪いと思うものは、悪い。

けれど、往々にして「無知に依る主観的な誤判断」に気付かないという落し穴があります。合成の誤謬なんていう言葉もありましたか。一人一人は決して間違えては居ないのだけれど、その積み重ねが大局を大きく間違わせる結果になる事がある。一人一人が利益を追求して、決して悪いことでは無いのだけれど、気が付くとそれが様々な伝統的なものを押し潰していく。本来、それを制御するのが政治。人々を経世済民する人。世を治め、民を整える人。別に政治家国会議員でなくとも、かつては高僧もまたそれを勤めていたし、また、それぞれの分野で上に立つ者が居る。そういった人々が、誤らない様に先導していく。それこそ10年や20年、100年の展望と共に。

残念ながら多くの工芸では、地位にある筈の人々は権力争いに明け暮れて。
また、地位を使って身内を優遇するだけの世界になっていて。


なかなか難しい世の中です。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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