現代工芸の置かれている環境について

さて、昨年は何やら日展の書道部門にて、審査の不正というか、有態に云えば談合が行われていたことが明るみに出たとやら。どうにもニュースを見ていないものだから知らなかったものではあり、また、そういった公募展ありきの現代の病巣を今更に覗く趣味もなく気にもしていなかったのではありますが。昨年の10月末の頃に新聞の一面見出し記事を飾ったようです。

そして同じく。少し検索するだけで、「あぁ、今更か」、「知ってた」「話は聞いたことがある」「他の公募展も似たようなもの」・・・・などなど。知っている人は多く、その腐敗の程度というものは、それこそ実は人間国宝の選定時代から、いや日本の「美術界」などという団体を作った明治の原点からして怪しい匂いがしている。私は陶芸しか知らぬので何とも云わぬが、そも特に明治大正の時代というものは交友関係を基軸に、それこそ同郷人の引き立てに始まって、それが極めて一般的な常識であり、マナーであり、利権であったわけですから、むしろ「現代的な価値観から断罪すれば、すべてが腐敗している」という有様です。

最近でも、淡交など雑誌にしても、美術館館長という方々は変わらぬ記事を書き続ける。ヨイショするほどの作品でも無いものを、しっかりと持ち上げる。それは美術館で展覧会を行うためでもある。誰かがしっかりとした視点から評価しているというよりは、マスコミやCMよろしく、何をか誘導し、意識を植え付けるための記事でしかない。もはやどの評論を見てもそればかり。昭和の頃でこそ、魯山人を始めとして当時の人々は歯に衣着せぬ議論を戦わせているし、作品集にしても気骨ある評論がされている過去を見ることが出来るわけだが、最近そのようなものを見ることは一切無い。それこそ堂々と魯山人を馬鹿にしたようなCMこそ流れていたわけだ。

立花大亀老師は、その頃から美術界公募展の腐敗を見抜いて、これに近づかないことを勧め、同調する百貨店の美術画廊をも否定されていたわけであるが、事情を見ればこそ、それは全くに当然のもの。「エライ先生」が、ものの5秒も見て審査するだけのもので高額な出品料を得る。派閥は決まっているし、入選しない派閥は入選しない。書に関わらず陶芸だってそんなものばかり。

しかしながら。「成功」するためには、その「腐敗した道を踏むしか無い」のである。なにせ百貨店はこれに同調しているわけだし、美術画廊にしてもこれに同調している。美術館もまた然り。陶芸雑誌というものは美術館にベッタリ。広告を出す画廊の「御囲い作家」を持ち上げる記事ばかり。全てのものがセットになっている。だから、結局のところ、陶芸家はこぞって「入選するための対策」を勉強することになる。嫌だろうが何だろうが、それしか基本的には用意されていないのである。茶道具なんてものは現代の公募展では否定されている。まぁ、某派閥が現代茶陶というものを提唱して、自分で公募展を作って自分で審査して賞を与えている。その目的はむしろ「従来価値観による茶道具の否定」であって、茶陶と云いながら、伝統と云いながら、「全く伝統的な茶道具を否定するために在る様な派閥」としか思えない。

ものは言い様であるからして、伝統の革新を分かり易く大衆に云えば、「斬新」という手法を使う。分かり易さ、訴えやすさ。公募展もそうだ。身内はそれでいいが、百貨店などでの展示にせよ、人々から「?」という反応を貰うことを恐れている。そう、百貨店でやる限り、売上が必要なのである。茶道具を置いても、だれもその価値が分からない。しかし技巧を凝らしたものや、如何にも新しい形のものを展示すれば、人々にも分かり易く、陶芸に素人である資産家はそれを購入することが出来る。現代は茶道具を見る数寄者の資産家など居ないわけであるから、結局はそういうことになる。

色々なものが繋がって、今の流れがある。不況の中であればこそ、公募展の受賞歴という肩書を弟子に与えて、百貨店で実績を付けさせる。しかしその百貨店も不況である。美術画廊なんてものは不要になりつつある。別の手としてマスコミを使えば簡単に絶頂人気の作家をも作ることが出来る。もはやそういう手も厭わないのが現代の陶芸界。全く、そういった世界になっているのが実情であろう。理想なんてものは元より無い。そも小山富士夫だって友人陶芸家を次々と人間国宝にしたのである。そして派閥派閥で繋がって現代に到っている。一体そも、理想が実現していた頃というのは、一度たりとも無かった可能性さえあると思う。

その意味で。日展での不正。それに伴って人々の「やっぱり」という反応。


そもそもこれほどに腐ってしまっている。腐敗臭がしないわけがない。人々は気付いているし、公募展の肩書なんていうものにも興味は無い。伝統工芸、特に百貨店での公募展や美術展も、随分と怪しいものであることに感づいている。余程のことが無ければ足を運ぶことが無い。美術界が腐っているせいで、そも美術自体を遠ざけている側面さえあるのではないだろうか。特にひどいのが骨董の世界だ。明らかに全うな商売が少なかったせいで、またそれが鑑定団という番組で毎日の様に暴露されていくことで。それは娯楽かもしれないが、陶器というもの自体に対して、自己を磨いて評価することへの恐怖を植え付けている側面がある。

目利きを誤る。そんなものは当然、誰もが日本の伝統を知るために踏まなければならない道であるのに、それを大笑いの笑い者にしてしまうのである。着物1つだって、化学繊維か天然繊維か。漆1つだって、ただの黒顔良なのか、プラスチックなのか本漆なのか偽漆なのか。そこからの勉強なのである。笑ってバカにする様な事じゃない。日本人の教養には工芸品というものへの感覚が決定的に欠けているし、教育も行われていない。そのくせクラシックや現代美術、それこそ西洋絵画なんてものを学ばせる。そんな環境で、日本の工芸なんてものが育っていくわけがないし、それを守る人も現れることが無いのである。


適当なこと。


まぁ現代の風情というものは「テキトー」で済まされている。大事なのは金銭や数字。
昭和の頃に心ある大家が鳴らした警鐘は、まさに放置されてしまった。

茶道で云えば、すっかりと利休茶道が忘れ去られようとしている時代。
陶芸に関わらず、多くの美術工芸が同じ環境に在る。歴史的にも最低の工芸時代であろうか。

正月にそのことを改めて感じながら。とはいえ、今の環境で出来ることも少なくなりつつあるようです。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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