柳宗悦『茶と美』読解。27

『茶と美』読解。27
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⇒初版本第十三章(最終章)『陶磁器の美』抜粋と雑感 その3。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

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その美を形造る根本の要素はいうまでもなく「形」の美である。貧しい形はその利においても美においても、よき器となることはできぬ。ふくらかな円みや、鋭い角や、厳かな胴や、これらはすべて形の変化によって産み出される美である。
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表面的なものと、本質のもの。例えば花入と花では、本質は「花」になり、従属して「花入」が存在する。茶碗と茶でもそうである。棗と茶でも同じく。更に道具そのものの中でも、一定の序列がある。陶磁器であれば、第一は「形」。装飾、即ち「着物」である釉薬は第二義である。「器は料理の着物」と云う様に、料理のために器があるのだから、褒めるべきは料理の見栄え、その感覚を踏み台にしての賞味であろう。器を誉めるとすれば、その後の話。同じく、陶磁器において、まず最初に見るべきは「形」というコトになる。

塗師さんに聞いて驚いた話があるのだが、塗器は基本的に分業である。よって塗師は棗にしろ造形に関与する部分が非常に少ない。というか、選ぶだけの立場に在る。蒔絵師ともなれば、真塗の下地大半の部分は塗師が行っているわけで、表面の蒔絵だけを施していくことになる。最後の表面を塗り上げた者の名前が作者となる。しかし棗も、やはり本質は「形」であると聞く。第一に見るべきは「形」。塗りでは無く、蒔絵でもない。「形」の良否。実際、中棗一つでも良否は存外に多い。「伝・利休所持」の棗も形は様々であり、必ずしも型紙で遺されているものばかりではない。その形の線は微妙に異なっている。加えて、「特別に素晴らしい塗りが施されているわけでもない」という話も聞く。塗りモノに関しては、まだ良否を評価できるような眼が全く無いので、何とも伝聞を実感すべく励んでいる。

しかしなかなか、現在では「形」を見分ける人は少ない。おそらく棗で「形は?」と聞いても「中棗」という程度であって、「甲盛りの曲線が云々で愛用しているのです」というような話になる事は無いだろう。逆に造る方も、陶磁器にしてもそうだが、たいして拘っていない場合も多い。茶の一般的常識としても、茶碗であれば「井戸形」とか「熊川形」とか、定型に嵌めて分類するのが関の山という辺りも多く、これは「中棗でござい」と同じ判断に相当するのだが、一応はこれで通ることになっている。暗記も簡単ではないかもしれぬが、今少し進んで頂きたいものだ。例えば音楽で「今の演奏は?」と聞いて「バッハですよ」などという応答は素人論だ。繊細だの荘厳だの、演奏に関する話となるものだろう。茶道具を美術品として認識するならば、その道の専門家たる茶人は、やはり美術的視点を習得していてこその茶人ということになる。

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支那によって味わわれた形の美は、直ちに厳かな地の美をさえ想起させる。
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例えば「唐物」の本義。「唐物でござい」から一歩進めば、唐物の形状を評価する根本として、「荘厳」という伝統の文脈が在る。「真格」と云ってもよいだろう。すべからく宮廷文物としての発祥であり、遥かな昔に造られた青銅器の荘厳が、以降の器へ決定的な影響を遺している。実際、青銅器の威厳は恐ろしいものがある。よく知られる胡胴花入、青磁花入などもその祖形は青銅器であり、青銅器の荘厳を穏やかにしたもの、という感さえある。唐物の端然たる完成美が目指した理想郷。教養の視点として踏まえていれば、唐物に求められる美の様式も理解が容易となる。もちろん、唐物茶入は日用品の転用であるからして、必ずしも「荘厳」ではなく、むしろ素朴なものさえ多く感じるが、ともあれその上のもの。もちろん、「唐物茶入」の厳かな雰囲気ではアレコレの美術論はどうでもいいのだが、美を感じてこそ「御伝来は?」という話の意義が深まるというものだろう。

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素地は陶磁器の骨であり肉である。一般に素地は磁土と陶土との二種に区別される。
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基礎的な知識を解説するのも何であるが、よく質問を受ける。しかしこれを、何か物性的な「透光性が」とか「硬質で」などという言葉で言われても、サッパリ解らない人も多いだろう。携帯電話の取扱説明書みたいな説明は実際的なものではない。まず第一に説明すべきは「陶器は一般的な民間の焼物である一方、磁器は特殊な特上品として存在してきた。」という点であって、物性などは二の次である。専門家の悪い癖だ。今でこそ磁器は豊富に存在するが、かつては特殊材料であり、いや現代も同じく特殊な土である。中華の王朝文物に代表されるように、そこらの土を焼いたものであるわけがなく、特殊材料を用いた特上品。だから、磁器がどのように特殊であるかを覚えれば話は簡単に済むのである。まぁ、ここで展開してもしょうがないので、ここらで終わる。種類としては二種だが、磁土と陶土は地球上に50%ずつ存在しているわけではなく、その99%以上、限りなく全ての粘土が「陶土」であり、極めて僅かな量だけが「磁土」なのである。量産磁器というものは、貴重な天然資源の無駄遣いに他ならない。「雨だれ石を穿つ」というが、この速度が粘土原料生成の基本である。瀬戸キャニオンとして知られる様に、簡単に現代の量産陶器は「山1つ分」の浪費をしているのだが、これがどういうコトであるか、よくよく考えた方がよいだろう。安モノの茶碗一つでも、その原料たる粘土は大地の恩恵そのものである。それを骨として、肉として焼結させて用いるのが陶器というもの。

縄文土器が形を遺している様に、一度焼物となったものは、数千年程度で風化するものではない。地球規模の資源というような事を考えるのは昨今の進歩によるものであろうから、利休在世当時にかような事を考えていたとは思えない。ただ有田の磁器土、また中国の磁器土が貴重であるという程度の認識だっただろう。昨今は強制的に微細粉末に粉砕して、疑似粘土とする技術もあるようだが、そも焼物というのは、再生可能な鉄や木とは次元が違う、根本素材を用いているのである。作物などを造っていれば、土の神秘性を感じるだろう。種を埋めるだけで、日の光と水だけで、それが作物になり、樹木を造るのである。その土に、「炎」を加えたものが焼物である。


と、話が別の方向へと進んでしまったので、今回はここまで。

夜中の気温も温かく

今日は所要ありて終日外出でした。気候も暖かく。

三寒四温であるそうですが、さてどれくらい寒くなるものでしょう。そろそろ春へ向けて作陶意欲も充実してきましたか。気付いている人が居るのかどうか、というか、自分で書いたかどうか覚えていないのですが、伊賀の作陶に入る前は意図的に暇なことをやっています。気分的な安定というか、ともあれそういうもので、別に誰から伝授されたものでもありませんが、堰を切る様に作っていくことを好んでやっております。

大体もう、作り始めると作陶の話ばっかりになります。思っている事をツラツラと、つれづれなるままに書いているものですから、そのままです。少しく、縁側で作陶するにはまだ寒いのですが、日照の在る間は温かいものですから、三寒四温に合わせての晴耕雨読という辺りでしょうか。別に耕したり読書したり、というものではないですが。

何度か書きましたが、次回の窯焚きは例年よりも少し遅く。風の都合に合わせてのもの。三月は多少、関東に観光?のような辺りへも出掛けたりという予定もあり。今日は暇にチェーンソーのオイルやガソリンを買いに行ったり、湖岸方面へ出ておりました。最近は夜中に書いている事が多いので、日付が合わないのですが、私の中では本日の出来ごとであります。

そろそろと・・・

「う~ん、あれ作りたいなぁ・・・」

とか

「ん、あぁアレもだ。メモしないと駄目だな」

とか

「次の土は・・・」

とか、

そんなコトを考えながら、ゴミ箱行きのメモが増えてきています。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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