今日は寒い?

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今日は天気が好いのでチェンソーの試運転。
ハスクバーナーの440eにて、重量は4.4kg。
一般に外国の方がチェーンソーは良質。
あまりガソリン臭く無いのが有難い。

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外国製のものは説明書不要の新説設計。とても単純。
職人仕事のノコギリなどであれば日本製でしょうけれど、
大戦期宜しく、重機など馬力モノはアメリカでしょうか。
(と、基礎知識を嬉しそうに書くのは素人の特徴です。)

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まぁ乗るだろうと目算したら、見事に乗り切らず。
ちゃんと整頓して入れるべきでした・・・。

とまぁ、こんな感じです。車があっという間にホコリだらけ。
赤松はね、薄い表皮がパリパリとしていて剥がれるのです。
その風情は好きなんだけど、剥がれ易いので散らかります。
掃除して、昨日車検に通したばかりなのですが・・・。


しかし今日は。温かい日射し?と思ったら存外に寒い。
最近は気温の感覚がよく分らない。温度計を見て納得。
昔は、もちろん温度計も天気予報も無いわけで。

三寒四温。今日は寒い日。厚い氷が張っておりました。

今日も寒くなりまして。

今日は朝から自家用車2台を車検へ。同時期ですと、まぁ結局は同じなのですが、出費がなかなかに嵩みます。とはいえ、田舎では車は必需品なればこそ。駅まで徒歩40分でしょうか。工房までも、徒歩で30分掛かります。健康には好いものの、色々な運搬がありますからね。

しかし最近は早いもので、昼過ぎには2台とも回収。
あまり金銭は掛けられないので、節約車検です。
近くにあったディーラーさんは・・・閉店・・・。

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午後からは補修を進めた程度。ゴロゴロと。大半は止まっているのですが、一晩なり置くと僅かに水滴が出て来るような、1㎜以下の微細孔が残っており、水滴で出て来る。「浸み」ではなく「漏れ」なので、せめて一晩は持ってくれないと困るわけです。微妙に補修したつもりが、補修し切れていない。そんな感じで、未だに去年の水指、割合に佳作を含めての補修。 見ての通り、ザックリした補修です。微細な亀裂が走っているので、緋色面ではそこだけを補修というのは無理があるというか、手間を掛ければ好いのですが、磁器でもないのに精密補修というのは如何なものかという辺り。

んでも、一度補修をしたものでも、納品先で新しく微細孔が開くというコトも。昭和期の陶工さんが造った水指などで漏れがあるものなど、「バブル期辺りで、検品してないんじゃないの?」と思っていたのですが、そうではない事例もありそうです。とても勉強になりました。よくよく焼きこまれたものに起こりやすいように感じますが、まだ推論の域。諸々、補修が終わればWebの販売を再開しようと思っていたのですが、さて、補修を終えてから少し置かねばなりませんから・・・。まぁ、補修は基本的に無償に近い形で受けるので、安心して頂く点では好いのです。専門職さんや道具屋さんではやはり、送料などもあり、最低でも数千円は必要ですからね。

あ、ちなみに転がしているのはワザとです。
散らかしているわけではないのですよ。

今日の夜は氷結温度。もう終わりかと思っていたら、少し雪も降ったりして。
そろそろと雪解け、せめて氷の張らぬ程度になってくれるとありがたいのですが。

利休忌の茶会

今日は楽志庵の定例茶会。いつもは水屋ですが、今回は久しぶりに御客様で寄せて頂きました。

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利休忌の頃。毎年に茶会を迎えて行くと、何かやはり、特別な感があります。
初めての時は長次郎黒楽にて、衝撃を受けたものでした。

茶会は利休道具を用いてのもの。

古材風炉先に南蛮水指、中興名物の翁手茶入に愚郎井戸。
茶杓は武野宗瓦でありました。二つ節のもの。

床は「打破虚空堂七八回」でしょうか。ちょっと自信がありません。
利休遺偈を想起します。

愚郎井戸の名品も、次第に育っている様子を楽しみに。
今は茶道口が開いた瞬間に見分けられるくらいです。

続き薄茶にては仙叟書付の黒棗。これも時代を経ているもの。
漆を厚く塗り付けているものでしょうか。

利休の道具。その良さを様々に感じられる様になって、茶会自体の楽しみも随分と深く、広くなっている事を感じておりました。そのどれもこれもが、利休の創始在ってこそのもの。私自身の仕事も、利休無くしては今日在るものではありません。あらゆるものへの感謝を旨とする茶道。正に、何事にも感謝であります。


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午後からは来客にて。柿の木を用いた展示台を頂きました。是非使って欲しいということで造ってきて頂いて。まだまだ、これから展示を思案するものですが、何とも有難いものであります。足は桜の枝。また近所より赤松の薪材も頂戴して、今日は色々と感謝することばかりでありました。


柳宗悦『茶と美』読解。27

『茶と美』読解。27
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⇒初版本第十三章(最終章)『陶磁器の美』抜粋と雑感 その3。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

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その美を形造る根本の要素はいうまでもなく「形」の美である。貧しい形はその利においても美においても、よき器となることはできぬ。ふくらかな円みや、鋭い角や、厳かな胴や、これらはすべて形の変化によって産み出される美である。
>

表面的なものと、本質のもの。例えば花入と花では、本質は「花」になり、従属して「花入」が存在する。茶碗と茶でもそうである。棗と茶でも同じく。更に道具そのものの中でも、一定の序列がある。陶磁器であれば、第一は「形」。装飾、即ち「着物」である釉薬は第二義である。「器は料理の着物」と云う様に、料理のために器があるのだから、褒めるべきは料理の見栄え、その感覚を踏み台にしての賞味であろう。器を誉めるとすれば、その後の話。同じく、陶磁器において、まず最初に見るべきは「形」というコトになる。

塗師さんに聞いて驚いた話があるのだが、塗器は基本的に分業である。よって塗師は棗にしろ造形に関与する部分が非常に少ない。というか、選ぶだけの立場に在る。蒔絵師ともなれば、真塗の下地大半の部分は塗師が行っているわけで、表面の蒔絵だけを施していくことになる。最後の表面を塗り上げた者の名前が作者となる。しかし棗も、やはり本質は「形」であると聞く。第一に見るべきは「形」。塗りでは無く、蒔絵でもない。「形」の良否。実際、中棗一つでも良否は存外に多い。「伝・利休所持」の棗も形は様々であり、必ずしも型紙で遺されているものばかりではない。その形の線は微妙に異なっている。加えて、「特別に素晴らしい塗りが施されているわけでもない」という話も聞く。塗りモノに関しては、まだ良否を評価できるような眼が全く無いので、何とも伝聞を実感すべく励んでいる。

しかしなかなか、現在では「形」を見分ける人は少ない。おそらく棗で「形は?」と聞いても「中棗」という程度であって、「甲盛りの曲線が云々で愛用しているのです」というような話になる事は無いだろう。逆に造る方も、陶磁器にしてもそうだが、たいして拘っていない場合も多い。茶の一般的常識としても、茶碗であれば「井戸形」とか「熊川形」とか、定型に嵌めて分類するのが関の山という辺りも多く、これは「中棗でござい」と同じ判断に相当するのだが、一応はこれで通ることになっている。暗記も簡単ではないかもしれぬが、今少し進んで頂きたいものだ。例えば音楽で「今の演奏は?」と聞いて「バッハですよ」などという応答は素人論だ。繊細だの荘厳だの、演奏に関する話となるものだろう。茶道具を美術品として認識するならば、その道の専門家たる茶人は、やはり美術的視点を習得していてこその茶人ということになる。

>
支那によって味わわれた形の美は、直ちに厳かな地の美をさえ想起させる。
>

例えば「唐物」の本義。「唐物でござい」から一歩進めば、唐物の形状を評価する根本として、「荘厳」という伝統の文脈が在る。「真格」と云ってもよいだろう。すべからく宮廷文物としての発祥であり、遥かな昔に造られた青銅器の荘厳が、以降の器へ決定的な影響を遺している。実際、青銅器の威厳は恐ろしいものがある。よく知られる胡胴花入、青磁花入などもその祖形は青銅器であり、青銅器の荘厳を穏やかにしたもの、という感さえある。唐物の端然たる完成美が目指した理想郷。教養の視点として踏まえていれば、唐物に求められる美の様式も理解が容易となる。もちろん、唐物茶入は日用品の転用であるからして、必ずしも「荘厳」ではなく、むしろ素朴なものさえ多く感じるが、ともあれその上のもの。もちろん、「唐物茶入」の厳かな雰囲気ではアレコレの美術論はどうでもいいのだが、美を感じてこそ「御伝来は?」という話の意義が深まるというものだろう。

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素地は陶磁器の骨であり肉である。一般に素地は磁土と陶土との二種に区別される。
>

基礎的な知識を解説するのも何であるが、よく質問を受ける。しかしこれを、何か物性的な「透光性が」とか「硬質で」などという言葉で言われても、サッパリ解らない人も多いだろう。携帯電話の取扱説明書みたいな説明は実際的なものではない。まず第一に説明すべきは「陶器は一般的な民間の焼物である一方、磁器は特殊な特上品として存在してきた。」という点であって、物性などは二の次である。専門家の悪い癖だ。今でこそ磁器は豊富に存在するが、かつては特殊材料であり、いや現代も同じく特殊な土である。中華の王朝文物に代表されるように、そこらの土を焼いたものであるわけがなく、特殊材料を用いた特上品。だから、磁器がどのように特殊であるかを覚えれば話は簡単に済むのである。まぁ、ここで展開してもしょうがないので、ここらで終わる。種類としては二種だが、磁土と陶土は地球上に50%ずつ存在しているわけではなく、その99%以上、限りなく全ての粘土が「陶土」であり、極めて僅かな量だけが「磁土」なのである。量産磁器というものは、貴重な天然資源の無駄遣いに他ならない。「雨だれ石を穿つ」というが、この速度が粘土原料生成の基本である。瀬戸キャニオンとして知られる様に、簡単に現代の量産陶器は「山1つ分」の浪費をしているのだが、これがどういうコトであるか、よくよく考えた方がよいだろう。安モノの茶碗一つでも、その原料たる粘土は大地の恩恵そのものである。それを骨として、肉として焼結させて用いるのが陶器というもの。

縄文土器が形を遺している様に、一度焼物となったものは、数千年程度で風化するものではない。地球規模の資源というような事を考えるのは昨今の進歩によるものであろうから、利休在世当時にかような事を考えていたとは思えない。ただ有田の磁器土、また中国の磁器土が貴重であるという程度の認識だっただろう。昨今は強制的に微細粉末に粉砕して、疑似粘土とする技術もあるようだが、そも焼物というのは、再生可能な鉄や木とは次元が違う、根本素材を用いているのである。作物などを造っていれば、土の神秘性を感じるだろう。種を埋めるだけで、日の光と水だけで、それが作物になり、樹木を造るのである。その土に、「炎」を加えたものが焼物である。


と、話が別の方向へと進んでしまったので、今回はここまで。

夜中の気温も温かく

今日は所要ありて終日外出でした。気候も暖かく。

三寒四温であるそうですが、さてどれくらい寒くなるものでしょう。そろそろ春へ向けて作陶意欲も充実してきましたか。気付いている人が居るのかどうか、というか、自分で書いたかどうか覚えていないのですが、伊賀の作陶に入る前は意図的に暇なことをやっています。気分的な安定というか、ともあれそういうもので、別に誰から伝授されたものでもありませんが、堰を切る様に作っていくことを好んでやっております。

大体もう、作り始めると作陶の話ばっかりになります。思っている事をツラツラと、つれづれなるままに書いているものですから、そのままです。少しく、縁側で作陶するにはまだ寒いのですが、日照の在る間は温かいものですから、三寒四温に合わせての晴耕雨読という辺りでしょうか。別に耕したり読書したり、というものではないですが。

何度か書きましたが、次回の窯焚きは例年よりも少し遅く。風の都合に合わせてのもの。三月は多少、関東に観光?のような辺りへも出掛けたりという予定もあり。今日は暇にチェーンソーのオイルやガソリンを買いに行ったり、湖岸方面へ出ておりました。最近は夜中に書いている事が多いので、日付が合わないのですが、私の中では本日の出来ごとであります。

そろそろと・・・

「う~ん、あれ作りたいなぁ・・・」

とか

「ん、あぁアレもだ。メモしないと駄目だな」

とか

「次の土は・・・」

とか、

そんなコトを考えながら、ゴミ箱行きのメモが増えてきています。

想定外。

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ちょっと御買物の品まで。漆塗りの瓶掛と釜です。同時に買ったので釜をそのまま乗せましたが、取り合わせとしては問題があるので駄目な写真です。

釜は別に高級なものではなく、ツクリも侘び系のもの。ちょっとした来客時に湯を沸かしておくのですが、あまり調子が高い、釜らしい釜であると、火鉢などに乗せても雰囲気が砕けてくれませんから、何か安くで手に入るものがあれば、と思っての話。飯も炊けるという釜ですが、逆に今の茶道では稽古としても使う人が居ないのでしょう。随分と安い買い物でした。

下の瓶掛は本格?的なもの。京の塗師さんのもの。少し涼し気で、夏場に好ましいのではないかと思っております。五徳も、赤津織部の窯モノですが、雰囲気が軽いので、漆と云っても雰囲気がとても軽く、面白い取合せになっています。土と鉄の重厚な感覚とは少し違って、なかなかあるようで、無いものですね。昨今は一般家庭で炭を熾すこと自体なく、もちろん瓶掛けなど使いませんから、今となっては作られることの稀少なものでしょうか。

あ、来客用ですよ。別に茶道用じゃありません。
(最近来客が少ないですが・・・。)


で、別に自慢がしたいわけでもなく。

釜もですが、数千円程度にて入手。う~ん、いいのか。安いことは、もちろん有難いものではあるけれど、しかし異常にも程が無いだろうか。嬉しいと云うより、まず先に心配が立ちます。特に瓶掛については、相応の作家さんのものであるし、直径は40cmもある。陶芸であれば大壺クラスのサイズですから、木箱だけでも五千円以上はします。織部の五徳も量産品とはいえ、窯元モノは窯内サイズが原価ですから、湯呑み三つ分くらいの価格でしょうか。。後は言うまでもありません。このサイズの塗りモノは、職人作でも相当な値段がするものです。

何だかなぁ・・・。市場原理で、需要が無ければ価格は下がるわけですが。
そりゃぁまぁ、「売れないものを作ってれば当然」とも云いますが・・・。

・・・納得が参りませんね。

想定以上の品だったので、想定外の衝撃でした。

焼物感覚の隔たり

今日は色々と連絡などが忙しい日。電話が多く在りましたか。春が近い感があり、私も何か、ソワソワと落ち着かないというか、何かやらねばならんというか、妙に焦りのような感覚があります。

そういった中で。最近は焼物感覚の誤差を思案しています。

水漏れや、歪みや、カタツキ、また重量などなど、「本格」というものは、およそ「格別」のものであって、つまり「普通一般の常識的感覚とは異なるもの」であることの方が通例です。私もまぁ、元々の素材が平凡な人間でありまして、別に高貴な生まれでもありませんし、忍術修行をしたわけでもありませんから、「普通の感覚を忘れていないツモリ」で居たのですが、最近は少し・・・。

「一般的感覚の変化を考慮出来ていない?」

というコトを想ってます。浦島太郎じゃありませんが、田舎に籠って「茶道と茶陶と畑の生活」ですから、街中に住んでいた頃の感覚は、「もう古いのではなからうか?」、と思っている次第。茶碗一つを見る目にしても、ここ数年で見違える程に変わって来たという自覚もあります。同じ様に、世間も変わっているのかなぁ、と。

いや別に、迎合しようとか、そういう話ではありませんが。

まぁ少し、当座の収入のために別途の思案も必要ですが。

ともあれ、足りぬ部分の説明を、もっともっと、慎重にしなければならんなぁ、と思っています。例えば焼締では、もちろん吸水性があるので、水を張ると、器が吸った分だけ水位が下がるわけです。だから、花入にしても水指にしても、用いる前に一時間程度、水に浸けておいたりするわけで、点前の直前に入れたりすると、蓋を開けたら水位が眼に見えて下がっているコトになります。焼締は水を吸ってこそ色に更なるツヤが出ますし、浸透が効き始めて気化熱による水温維持も始まります。水が循環して腐りにくくなります。だからこそ、濡らした敷板を用いたりするわけです。もちろん昔からの方式ですから、過去の名品だって同じ話です。

と・・・。私の感覚では常識なのですが、なるほど、一般的には非常識というか、「水位が下がる」など全く想定外であるようで。よくよく想ってみれば、同じ現象が起きるのは楽焼とか萩焼、あと焼の甘い志野などでしょうか。非常に少ないですね。特に最近のものは防水加工がしてあって、薄く作って在るので水位もほとんど変わらない。稽古道具で水位が下がる様なことは、まずありません。だから、驚いてしまう。更に使った跡に水蒸気の輪が残るとなれば、驚くばかり「水漏れではないのか?」という結果になるわけです。なるほど、よくよく説明書を付けないといけないなぁ・・・と反省しました。

こういう事を御客さんから教わって、初めて気がつくわけで。

茶碗などもそうですが、磁器でも高台は「土」でありまして、細かい砥石のようなもの。普通に漆器にキズが入ります。元より砥石の粉末は、磁器の材料になるようなものも多いわけで、よく丸卓などでも輪キズが残っていますね。別に信楽の様に石が含まれていなくても、キズは付くのです。だから、すべからく気を入れて丁寧な離着陸をしなければなりません。これも、とても基本的な感覚なので、「丁寧に置く」というものは「見た目の演出だけではない」という話です。加えて茶碗は高台が狭いものが多いし、茶入れなども不安定な尻すぼみが多くあり、丁寧に置かないと転げてしまいます。まぁ、こういう合理的説明ばかりというのも問題がありますけれど、物理的な直感力というものは随分と個人差があります。職人はすべからく、この物理的な直感が研がれている場合が多いので、我々に普通に解ることが、他人には解らないという事が、往々に。

自分には見えているが他人には見えていないことって、人それぞれ得意分野などなどあろうかと思いますが、何が解ってもらえていないのかがハッキリと掴めないので、説明を尽くすことが難しい。

人々の常識的感覚も変わっています。より一層、離れていく方へ。
だからこそ、本格指向である程、より詳細な説明が必要になる。

と、こんな事を痛感致しました。いや勉強になります。
まだまだ解ってないことばかりですね。

柳宗悦『茶と美』読解。26

『茶と美』読解。26
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⇒初版本第十三章(最終章)『陶磁器の美』抜粋と雑感 その2。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

>
真に美しい作は作ることそれ自らを楽しんだ時に生まれるのである。器がただ利のために作られる時、それは醜さに陥るのである。作者の心が浄まる時、器も心も美しさを受ける。すべてを忘れる刹那が、美の至る刹那である。近世窯藝の恐ろしい醜さは功利の心が産んだ物質的結果である。陶磁器をただの器だと思ってはいけない。器というよりもむしろ心である。
>

断っておくが、文章の中での言葉であるからして、この言葉だけを取り上げるとマスコミ宜しく意味を為さない。精神的視座が作品に決定的な影響を与えるという点については、こと茶陶におけるほぼ全ての大家が異口同音に唱えるものである。半泥子や魯山人なども同じことを著作で云うものであるし、また桃山の大家に於いても同じ話である。加藤唐九郎でさえ「茶道を馬鹿にする者は茶道具を作る資格が無い」と唱えている。小生が廻った著名作家からも、多くこの話を頂戴した。「究極的にはロクロを挽くよりも大事である」という話に帰結する。もちろん私もこの端くれを奉じる者だ。

陶工のみならず、茶道などでは特に精神性が要求されるものだ。その意味は、決して眉間にシワを寄せて難渋するようなものではなく、高尚に飾り立ててというものでもなく。全てを楽しむ点こそ大切になってくる。

もちろん、楽しいだけでは素人芸。技術を充分に習得してこそ、浄めた心が作品へと反映されていく。技術で苦労していれば、眉間にシワが寄るに決まっているのである。茶道で、点前も出来ない者がニッコリ笑顔で客と会話出来るわけがないのと同じ道理であって、技術稚拙なれば、見ている方がハラハラしてしまう。ここで功利を目指していると、どうしても腹黒い、何かを狙うようなものが感じられて、とても落ち着かないのである。これを柳は醜いと評する。人によっては「威圧感がある」などと云う。しかし本当の威圧感というものは、「本物が持つ威風」というものであろう。

>
陶磁器の深さは常に冷ややかな科学や機械的作法を超える。美はいつも自然に帰る事を求めている。今日もなお美しく器を焼くものは自然の薪である。いかなる人為的熱力も薪によって得られる柔らか味を与えることはできぬ。かの轆轤も今なお自由な人の手や足を求めている。均等な機械の運動は美しき形を産む力に乏しい。釉薬を最も美しい効果に磨り砕くものは、あの不規則な遅々とした人の手の運動である。単なる規則は美を産むことはできぬ。石も土もまたは色も天然のものをこそ求めている。近世の化学が贈る人為的色料がいかに醜いかを吾々は熟知している。
>

陶芸に関わらず、伝統的な工藝に携わると、第一の障害として登場するのは「素材」である。古きものと同じ材料が手に入らず、ために過去に劣るものしか作れないという事が、往往にして存在する。いざ手に入ったとしても、膨大な手間や金銭が必要で、とても自由自在に用いるには程遠い場合が多い。例えば桐箱一つにしてもそうだが、良質な桐材を自然状態でアク抜きした材料というものは、もはや壊滅的に手に入らなくなっている。昔は当然であった、「経年して美しいアメ色になる桐材」が、そも手に入らない。織物でも、手織りの西陣の柔らかさは驚く程のもので、今の様に堅くない。もちろん、昔は手織りの布しかないのである。陶器も、僅か100年前までは全てが原土で、手作りで成形され、それを薪で焼いていたのだが、今は薪窯でさえ難しいのが現状である。

何も復古的な、懐古主義的な話をしているわけではなく、薪炎とガス火では性質が違う。優劣はともかく、炎が違えば、電気、ガス、灯油、薪、更に電子レンジまで、焼き上がりは異なるものに仕上がる。だからもちろん、薪で焼いたものが何でもよいかと云えば、そうではない。要は最も適した選択が必要だという話である。例えばスッキリした焼き上がりが欲しいなら、薪よりもガス火の方が好いだろう。「現代はガス窯が一般的なのだから、ガス窯で焼くのが自然に適っている」などという言葉に騙されている。「自然に適う」とは、「自然に合わせる」というコトであるから、「焼締めは土味が命なのだから、薪窯で焼くのが自然に適っている」と唱えるのが正しいのである。現代の事情に合わせることが「自然」などというのは、よく改革を標榜する者が耳障りのよい言葉として使うのだが、それなら現代の陶磁器は「機械生産で十分」という結果になる。合わせているのは「自分の都合」であることが多く、「焼物の都合」ではない。

だから素材も、灰にしても何にしても、不都合なものは使わない事が多い。不均質・不均等で、手間ばかりかかるような原料は敬遠される。まぁ実際問題、良質な材料を使うには金銭面など妥協が必要な側面はある。だからまぁ、特別に非難するような話ではないが、あまりに皆がガス火では、火の神も面白くないだろう。

しかし当然だが、柳はわざわざ、皮肉的な表現で自然素材論を書いているわけで、実際は「人為的色料」の「機械製の完全品」を人々は求めるし、そこに金銭も集中する。それによって、陶磁器は尚更に、自然素材の使用から遠ざかっていく。柳の時代から半世紀の間の攻防があり、機械生産は圧勝を掌中に納めようとしている。庶民の器は「全てが薪窯の品」であった時代を越えて、「全てが機械産」へと変わってしまった。僅か100年の趨勢である。

お買いもの。

今日は雪解けでしたか。ガサガサ⇒ドサッと屋根から雪が落ちておりました。

う~ん、しかし最近少しモノ要りです。昨日は少々とエンジンチェーンソーを買う事にして色々と。従来は電気のものを用いていて、要は用途によって使い分けるものですが、出先で切ってもらわないと薪を貰えないので、そろそろ自前でチェーンソーが必要だなぁ、という投資。現状では自宅の山の手入れも出来ません。

しかしまぁ・・・結構高額なのですよ、これが。


お金の話はいいや。それで、昨日は大手オークションサイトを覗いていました。欲しい物も色々と。しかしまぁ、欲しいと思う様なものは高額になっていくので、諦める事が多いです。しかし写真は比較的大きいので、勉強になることも。著名作家のものなど、美術館で見ても高台や見込てのはあまり見ることが出来ません。高台と見込みは、まぁ製作者だけの話ですが、見所としてというよりも、造形の面で非常に勉強となる場合があります。

相変わらずに贋物が多いのは周知の通り。楽茶碗などは大半が贋物ですが、あれは一体、どこから拾ってくるものでしょうか。もちろん古伊賀などと銘打たれたものも、酷い贋物というも苦しいほど、全く酷いものが多いです。「いやぁ、これはヒドイなぁ。適当な信楽焼を拾ってきて灰を掛けて、ガス窯で焼き直して、古色浸け?かなぁ・・・」などと愉しんだりもするのですが、骨董市などで売られているものなどにしても、何か大手らしき、信用があるらしき?店でも、普通に偽の黒楽や、偽の伊賀を置いているというのが実際の処でしょうか。もちろん高額で。(値段だけなら桃山級!)

基本的に、美術品を扱う者がすべからく良心的であったり、贋物を排除する良心を持っていれば、かように跋扈する事も無かったのでしょうけれど、ともすれば贋物の方が多いかの状況ってのは、一体どれだけ贋物を仕立て上げれば気が済むのか?という感を抱いてしまいます。聞くに「そんなん常識や。贋物が多いことも知らんで買う方が馬鹿やぞ。」と仰ります。骨董品に関する限り、全く中国の事は云えません。古色浸けなどは、別に焼物屋がやるとは限らず、むしろ商売人の方が多いでしょうか。壺といい掛軸といい、およそ群がる人々の悪意は恐ろしいものであります。某番組の通り、基本的には騙されている人間の方が多いわけで、買うなら比較的判断し易い現代作家のものに限った方が宜しいか。

と、話のネタにコト欠いて今更な話を書いてみました。

柳宗悦『茶と美』読解。25

『茶と美』読解。25
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⇒初版本第十三章(最終章)『陶磁器の美』抜粋と雑感 その1。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

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読者は特に東洋での日々の生活の友であった陶磁器について、かつて何事かを考えたことがあるだろうか。それらのものが吾々の周囲にあまりに多いために、却って多くの者はそれを顧みる心を忘れているようである。しかも近代においてその技巧や美が著しく沈んだために、人は深い感興をそこに起こす機を失っているかもしれぬ。これに反してある人はかかるものを愛するのを、弄ぶ遊戯に過ぎないといって、その心を卑しむようにさえ見える。
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最終章の冒頭文。書籍を通じて、柳は誰か、いや世間的常識か、またそれを構築していた芸術評論を敵として、これに反発し、否定を重ねる論調を多く展開していく。最終章の冒頭文においてさえ、蛇足的反論を重ねて問うている。民藝の隆盛が在ったと言われる一方で、しかし当時の美的評論に於いては相手にされていなかったという事であろうか。読者に問い、感覚を喚起せずに居られない程、彼の危機感が差し迫っていたのか、それとも民藝への愛情が深かったのか。日々の生活用具への視点隆起という卓見と共に、彼の苦心を感じる冒頭文で最終章は始まる。

西洋の食器は金属器。銀器といえばペルシア銀器であろうか。西方では陶器の発見・発達こそ早かったものの、主に金属器やガラスの発達へと進む。今でこそ高価な印がある金属器だが、銀貨や銅貨を打ち延ばせば金属の皿になるのであって、本来それほど人々の感覚から遠い物では無い。金属器に木の器が主体であろう。

東洋では古くは木椀、これに高級品としての陶磁器の食器が発達する。その中心はやはり中華王朝である。釉薬に関しても、磁器技術に関しても、精密な細工から何から圧倒的に中国が主体。漆器とて中国が発祥のもの。遥か3000年以上も前の時代に、青銅器から漆器、陶器などの技術を持っているものだが、食器としての主体は陶器と木器に落ち着く歴史を経ている。

基礎的な歴史講釈は今更な話であるが、長大な歴史を見るに於いて、今や陶器が使い捨てに近い様な、割れても全く捨てられる安価品として流布している時代というものは、極めて異常な、近々10年来の話である。3000年に渡って珍重され、大切に扱われてきた陶器を、たかだか機械発達による量産などによって軽侮する存在に貶めているというものが現代の実態であろう。柳の時代は、その量産手法の発達期であり、現代は円熟期であろうか。機械文明発達による過去の文明破壊というものは、現代でも見る事が出来る。

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彼らを愛する者は必ずや二つの手の間にそれを抱き上げる。私達がかくしてそれに眼を注ぐ時、温かい吾々の手をそれらのものも慕っている様に見える。人の手は器にとっては、きっと母の懐の温か味があるに違いない。愛しえない陶磁器がどこにあろう。愛しえないなら、それが冷ややかな手で造られたかまたは冷ややかな眼で見るが故であろう。私は彼らに愛の性質を感じるにつれて、いかに陶工が愛を以てそれらを産み造ったかを想わないわけにはゆかぬ。陶工が一つの壺を彼の前に置いて、余念なく彼の心をその内に注いでいる後継を私はよく想像する。
>

器に対する愛情は、その手の動きでよく分る。一つの器に手を伸ばす動きだけで、その深浅が読み取れる。片手で持つとも、その動きは違う。台所の道具を扱う如く動きと、大切なものを扱う動きは違う。これを作り手の意識に戻した時、器を過剰に薄く、割れるを厭わぬ造形で以て製作する者は、愛情が足りぬと断言せざるを得ない。すぐに割れてしまう様な器を作る者は、一般に器に対する愛情よりも、己の腕自慢、自賛・自己顕示が強い。また器ではなく芸術が好きであったり、また金銭などへの愛情が強かったり、外的評価の高きを好む。とかく器だけを見ている者ではない。しかし例外がある。

長次郎は黒楽を創った。しかし彼が喜んで造ったかと云えばどうだろうか。楽茶碗ほど脆く造られたものは無い。それは特別な器である。心得の無い者には扱えぬ。茶碗への愛情が無い者を拒絶する器であると見ることさえ出来るだろう。器一つも大事に出来ない者に、これを所持し、用いる資格は無い。器の物性で見る限り、楽茶碗は最も低級である。しかし器に「道」というものがあるならば、最も至高と見る事も出来る器である。

楽茶碗は人間の精神を、自らの破損によって問い掛ける。頑丈で安価量産なる器は、何をも人間に教えぬ。禅の器として楽茶碗が孤高に特別なる所以を、千家流派を代表する茶碗である理由を、私はここに感じている。利休なくして、楽茶碗は生まれなかっただろう。無駄な装飾も何も要らぬというよりは、むしろ「在ってはならぬ」とさえ感じるのである。今、茶会では楽茶碗が当然のごとくに用いられ、楽焼も茶碗以外に様々造られているわけであるが、本来であれば巧者こそ用いることが許される茶碗だろう。未熟者が軽々しく用いるのは如何なものかと、個人的に思うのである。楽は特別であり、本来ならば楽家だけが造り、以外は造らずともよい性質があろうかと想う。茶人の十徳の様なものだろう。

健全たる器、必要な厚みを持つ堅牢な器でさえ割ってしまうような不手際は、モノへの敬意不足を咎められ、叱られるべきもの。茶道では更に進めて楽茶碗を用い、漆による補修さえ厭わない。人間には不注意が絶えず憑いている。それを忘れないための楽茶碗であり、金継ぎであろう。巧者が円熟してこそ、楽茶碗の先、井戸茶碗などの伝世の名碗を扱う資格があろうというもので、点前者と茶碗のつり合いが取れるというものだ。増して伝世の楽茶碗などとなれば、本当に心して掛からなければならない。元より点前稽古でも色絵などの茶碗から、点前と共に楽茶碗へ、更に楽茶碗から天目茶碗へと進んでいく。利休考案なる点前は一種、禅の公案というような複雑で深遠な意味が籠められている様に想うのである。「楽茶碗による平点前」とは、単に千家流を標榜するためのものではない。同じく楽茶碗は楽茶碗でなければ意味を為さないだろう。

名碗を大切にするのは、何も人間よりも茶碗が大事などという感覚ではない。過剰であるかもしれぬが、自らの破損で以て慢心や油断を訓える茶碗に、敬意を以て接するというものだ。過去に所持者として名を連ねた先人が、それぞれ慢心せず、敬意を以て守りぬいてきた道具。何も厳めしく構える必要はないが、それを受け継ぐに相応しい人物にこそ、名碗は所持され、日々用いられるべきものである。茶碗を道具として用いる。利休が既成の茶碗観に囚われず、清心な形で茶道専用の「道具」として昇華させたものが「楽茶碗の創意」であろう。道具を道具として活かす。何も新技法であるとか、色つやがどうとか、長次郎が芸術家としての嚆矢だとか、全くそんな事は二の次、三の次の話である。

自然美たる茶碗。柳は楽焼と云う例外を許していないので、以上に楽茶碗の説明を置く。堅牢なればよいというものでもなく、脆き器であればよいというものでもない。ともあれ自然である事だろうか。一本のモノサシで人を測るような者ほどに、一本のモノサシで道具を測ってしまう。「楽茶碗を抜きにして茶碗の美学は語れない」という言葉を聞くが、本義が在るとすればここに在ろう。

陶磁器の美。論じるには様々な角度から為されて然るべきであるし、当然に、個々別々に沿って最高位となるべきものは異なる。茶道においてもまた然り。客によって美しい茶碗の感覚も異なる。亭主によっても違うだろうし、茶席によっても違うだろう。「愛しえない陶磁器がどこにあろう。」との柳の言葉は、ここに極まる。如何なる器も活かし方次第である。同時に「愛しえないなら、それが冷ややかな手で造られたかまたは冷ややかな眼で見るが故であろう。」の如く、用いる事が難しく、単に人の煩悩を推し進め、娯楽享楽に堕落させる器も在る。少なくとも柳の云う「陶磁器の美」は、何か美術が云々、個性の芸術創造が云々、などという次元では無いことだけは、全く確かなものである。

雪の離宮観光

いやいや、今日は今冬一番の積雪でしたか。夜中に寒くて?目が覚めてみれば、
さてこそ雪でありました。

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夜中から車を丘の下へ移動させて・・・と、一仕事。
今日は外出にて。

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京都・桂離宮。雪景色の離宮観光。茶道の青年部の催行人員に
入れて頂いて御同行。ツクバイが最高の美を放って居りました。
(写真はトウロウですが)

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途上、昼食を挟んで茶道資料館、今日庵の雪化粧を見つつ。

午後からは修学院離宮。
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いやいや、寒さを感じない程に見るもの多くして、雪化粧も見事。


あちらこちらで大事故も。道路も様々渋滞しておりましたか。
無事に雇われ運転手の役割も果たしまして。

ありがとうございました~。

時々払拭?

今日は茶道の稽古。少しく今日は雪日和にて肌寒いような、日射しが温かいような。大炉も仕舞いの頃となりましょうか。今月の稽古は早くも三週目。

稽古は花月他、鉄瓶を釜とした点前など。男点前の特徴として共蓋でなければ、あまり稽古をしないのですが、帛紗扱いなど様々。今年も継続して基礎を徹底させています。最近四ヶ伝もやっていないような・・・(私以外の方は様々にされているので、観稽古です。)

軸には「時々勤払拭」とありました。点前はその大半が清める動作でしょうか。夏になると「毎日毎日草を刈って、う~ん、一体何をやっているのだらう?」と疑問に思う事もあり。茶道も最初は、水屋で清めて、清い場所で更に清めて・・・?などと思っていたもので、懐かしいような、いやまぁ、大して変わっていない様な・・・?。なかなか、心まで掃除が行き届かぬ様で御座います。心の内より綺麗数寄でしたか。言葉を知っているだけでは駄目で御座るな。

毎日清めていなければ、なかなかホコリが積もってしまう者で。

そう、特に仕事は土ホコリが山盛りに積もっていくのですよ・・・。

最近はね、ちょっと工房も改装して、整頓・掃除などもやり易い様に整えたいと思ってはいるのですが、今少し先立つものが不足していて、手持ちの雑木材ではなかなか厳しいことも解っているので・・・。

と、言い訳ばかりであります。

う~ん、時々払拭、時々払拭・・・。

箱の次第

相変わらずに寒い日々。家に居ることが多くなっております。

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今日は少し桐箱を。組箱までは行きませんが、上箱。
和紙の王である雁皮紙に、正絹の真田紐。それぞれ職人製。
中身は水野師匠から頂いたり、掻っ攫ってきたり(?)した茶碗。

桐箱は、桐箱を仕立てた者が、自分で手配した紐や箱を用いるもの。
有名な茶道具系美術館などは、約束紐(特定の織柄)を持っています。
同じく、私も準約束紐というようなものを使っています。

共箱に物語なりが生じるとすれば、やはり道具への敬意あってこそ。
まぁ、数年放っておいた私が言える義理ではありませんが・・・。

これでも、桐箱一式で樋口さん一枚は必要なのですよ。

まぁちょっと、自分の作品の紐と分ければ好かったのですが、
紐も高価な工藝品であります。自分の作品に正絹を使う場面は、
中身の話もありますが、滅多にありません。

ともあれ、とりあえず一安心。瀬戸へ行った際にでも箱書をして貰いましょう。

あ。

まだブログを更新してなかったようで・・・。う~ん、ネタ・・・ネタ・・・。

そういえば最近に水止め剤を買ってみました。水の浸みがどうしても止まらないような場合などに。まだ使っていないので効果は不明です。基本的に、シリコン剤などを用いるのは邪道と言いますか、実際私も強くそう思っていた頃もあり、今でもそう思っているのでありますが、言い訳っぽいのでヤメておきます。

実際問題として。もちろん水漏れと言っても楽焼よりはずっと立派に焼けているのですが、輪が残る程度でも「水が漏れた!」という様な向きがありまして、萩焼などでも、しっかりと焼かれたものが多くなっていたかに記憶しております。いやまぁ、薪窯がガス窯になってよく焼けているだけか、それとも土の配合が緻密に調整されるようになったのかは知りませんが、過程はともかく、食器はやはり、応じないわけには参りません。

また茶道具としても。稽古用の水指で一々に畳に跡がつくとなれば、やはり七面倒なものです。よほどの名品であればともかくとして、若輩陶工の凡作程度であれば、余程の自信作以外については、要望に応じていくらでも止めて良いのではないか、と考えています。我を通してまでやる程のことでは無いなぁ・・・、と。

昔はもちろん、随分と尖っていたといいますか、およそ若い頃?は激越な思想に染まりやすいというか、「本当のやり方以外は認めない!」みたいなコトを言っておりましたし、「他人がやるのは自由だが、ウチは絶対にやりません!」みたいな時代もあったので、素直に御詫びを申し上げます。

そういや、躍起になって三回焼き直したこともあります。大きな石爆ぜがあり、自然釉で強引に埋まるまで焼き直したもの。御客さんの要望でしたが、色々と教えても頂いて、とても勉強になりました。グイノミでしたから、それほどの負担でも無かったものの、半年以上お待たせしましたか。まぁ、グイノミで漏れるようなものは、普通に埋めてしまいますけれど。

もちろん、米の研ぎ汁などなど、そういった方法も。それで止まらない時に使う予定。一回、二回やって、止まらない場合があり、「割れ」であればこそ漆で止まりますが、「土の耐火度が高すぎる」という場合には何とも難しい時があります。原土特有の悩みです。昨今は茶会も場所を借りて行う事が多く、畳を濡らすという事も、色々と考えなければならない事が多くあるのが現実。炭でさえ火気厳禁、伝熱のみという場合もありますから、一定程度、これはまぁ、あくまで「水浸の気化熱による浄水保持機能という実用上の利点」を、「水止の効果的利用による利便性という実用上の利点」に転化するものでありますから、本質的にはそれほど問題のある転化ではありません。底部だけを止めれば、元々の利点を失うような事にはなりませんからね。

あ、もちろん「焼きが甘い」による水漏れってのは、「止める価値なし」ですよ。
あと、「治す価値無し」って作品も、普通にモノハラに行きます。
自信作は、古式の方法で止めます。

ある程度、現代の様式に譲るべきは譲ってよい部分があろうかと思うのです。
まぁ、きっと若い人からは、これでも色々言われるかな・・・。


とまぁ、ちょっと水止めの話まで。

柳宗悦『茶と美』読解。24

『茶と美』読解。24
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⇒初版本第十二章『蒐集について』抜粋と雑感 その7(最終)。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

>
私達は集めるものが美の標準に照らして高いものであるかどうかを省みねばならぬ。例えば湖東焼を集める者があるとしよう。美的価値からして中には多少良いものもあろう。だがその焼物には一義的なものがほとんどない。かかるものを幾個集めたとて、その意義には限度がある。美しさへの理解が深まるなら、かかる材料に満足する謂れがない。だが同じ焼き物でも九谷焼を集めるとしよう。湖東焼に比すれば段位が違う。作に多少の優劣はあるが、蒐集としての標準は高い。
>

う~ん。近江の者として湖東焼を貶されるのは不快であるが、赤絵という観点からすれば、一概に九谷焼の方が優れている点は確かなものであろう。段位が違うと言われれば、違うかもしれんが、近江の蒐集家が彦根に湖東焼美術館を建てるまでに昇華させたことを知れば、彼はどう言ったであろうか。近江の蒐集家が九谷焼なぞ集めていたら、それこそ不可思議な話である。具体各論に入ってのものと、概括的な話では、彼の云う段位が明白に変わって来る。有田在住の蒐集家が九谷焼を集めるというのはどんなものか。由来関連云々で集める程度なら分るが、伊万里・鍋島、また唐津を放り出して九谷を集めるとなれば、ちょっとどうかと思ってしまう。柳の生まれた東京では、コレといった蒐集名物もないかもしれぬが、地方では多く在地の工藝がある。だからまぁ、半分くらいの人々に対しては、この話は通用しないものだと了解した方がよい。ただ概論として一義と二義が違うのは当然の話である。信楽在地の薪窯信楽を一義とすれば、関東などで焼かれている薪窯信楽が二義や三義となるのは当然の帰結であろう。近江でなければ、湖東焼を蒐集するにしても、染付でも赤絵でも、有田や九谷の方が由緒歴史を持っているのであり、柳はそれを言っている。

>
自分に見方のない者が、自分を無遠慮に出すより遥かに賢明である。自分の分を知って自己を謙譲にすることは誰でもできることではない。正しい標準に依存することは結局その蒐集を無事にする。いかに多くの蒐集家が誤まった自己を出し過ぎることによて、蒐集を悪くしているかを省みねばならぬ。
>

美を知る上で過去の名品の評価に従う事は必要だが、蒐集まで寄ってしまえば、バブル期の伊万里やら信楽壺やら九谷やら、何か流行の如くに人が集まっていくことになる。権威化・高額化の弊害があり、彼の云う病菌の温床を作りかねない側面もある。話としては、利休の創意というものには確たる基礎が在ってこそという意味で、何も判らぬ者が「創意」、「創意」などとやってしまうことを批判する話であろう。分らぬうちは定説に従って、定見の中に身を浸けてみることが必要。徒手空拳は文字通り徒労に終わる事も多い。

>
蒐集は何か生活を明るくするものでありたい。ただ玩ぶことは最も避けたい。過去への耽溺は将来への展開を妨げてしまう。蒐集は自己の逸楽に止まってはならない。それによって何か世界の意味を高めなければならない。何も人類に寄与する所がないならむしろ恥ずべき行為である。それを単に利己的な興味に死なしめてはいけない。生活がそれによっていききし澄み深められるものでありたい。そうして他人にも多分に悦びを頒かつものでありたい。蒐集が単なる私事に終わって生活を萎靡せしめた例は乏しくない。私達は玩ぶことから活きることへそれを深めねばならぬ。
>

著作は戦前のものであるが、昨今は何事も利己的を是とし、止む無しと認める風潮がある。仕事にせよ趣味にせよ、「何か人類に寄与するような」社会性を持たなければならないというような感覚は、戦中の感覚から比較して、おそらく死滅に等しいものであろうか。「人と悦びを頒かつ」という点に於いても、例えば多くの会社は「悦びを頒かつ」において「利益を頒かつ」と同義に近いような感覚がある。それが生活を明るくしているならば良いのであるが、仕事にせよ多くのことが生活を暗くしている様な気がしてならない。茶道などにしても、陶器にしてもそうであるが、やはり何事も、「生活を明るくするものでありたい」と願うのであります。

>
良き蒐集家はものに敬虔である。この敬虔こそその蒐集に光を与えるのである。物だけではこの光りは現れてこない。蒐集は物よりも心に多く関係する。
>

蒐集をどう活かすか。多くの人の悦びを思考すれば、自然に良いものを目指し、生活を明るくするべく公開したり、茶会を開いたりするものであろう。敬虔な人で在ってこそ、ものを大切にし、ものを活かすべく考える。蒐集に於いて「道」なるものがあるとすれば、本道は結局、「心の姿勢に帰ってくる」という話であろう。



以上で第十二章「蒐集について」は終了です。

柳宗悦『茶と美』読解。23

『茶と美』読解。23
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⇒初版本第十二章『蒐集について』抜粋と雑感 その6。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

>
さらに一個の病気を数え挙げておこう。多くの蒐集家は「完全品」への執着が強い。それが一冊の書物にしろ一個の陶器にしろ、罅や傷や汚れを極度に嫌う。そうして完全でないと手を出さない人がある。かかる性質の人が多いのと、無傷なものが比較的少ないのとで、商人は完全な物に高値をつける。購う方では傷物だと難癖をつける。(中略)あのミロのヴィナスに両腕があったら、よもやルーブルの特別室に入りはしなかったであろう。一個の陶器を選んだとしても、多少のゆがみや貫入が、一層風情を添える場合があるではないか。(中略)完全なものの方が常にいいという法則は無い。まして完全なものでなくば駄目だという断定は成立しない。完全さと質とは必ずしも同一物ではない。
>

御存知の様に、これは蒐集家に限った話というよりは、むしろ一般の感覚だろう。何に起因する発想であるのか不勉強にして知らぬのであるが、例えば萩焼の浸みであったり、伊賀の焦げであったり。面白いことであるが、伊賀花入などを人の手に飾らせると、裏向きに置いて焦げを隠そうとする場合が散見される。特に緋色が綺麗というわけでもない。積極的選択ではなく、消去法による選択。粉引の貫入などもこの手の誤解を受け易い。目跡にしても同じ。高麗茶碗の魅力を象徴する口辺のゆらぎでさえ、これも同罪とされてしまう事がある。とかく完全をモノに、また同時に人へも向ける。割れ易い楽茶碗の存在が在り、キズを抱えた伊賀の存在があり、乾風一つで割れる竹花入が在り、色の抜けた茶杓が在る。時に「茶道具だけは特別」というような説明が下される場合もあるが、元より自然界は歪みがあってこそ「真の姿」である。いやまぁ、私もそうだが、人間だってそんなものだ。垂直な赤松なんて要らんだろう。桜が杉やヒノキの様に真っ直ぐで在るべきか。いや、その杉やヒノキでさえ、日光の偏りによって揺らいでいるもの。万事、自然の訓えに従ったものである。貫入に色が入ってこそ。歳を経て変わらぬ人間など居ないわけで、「松樹千年翠」の言葉通り、表向きは常に緑色。しかし中には千年の栄枯があってこその魅力。不完全なものを積極的に認めて行く姿に茶の道、人の道が在るのだろう。道具に託された言葉の千金を知るべきである。

>
銘を尊ぶようになったのは、近代の個人主義の影響に過ぎない。個性の出たもののみが高い美を約束すると考えるに至ったからである。しかし私達は無数の卓越した無銘品の存在をこの概念で説くことはできない。銘への執着は吾々の鑑賞をいたく鈍らせてきたのである。人ばかり見て物が見えなくなってきたのである。そのため物をじかに見届ける力が衰えてしまったのである。幸い物の価値と銘とが一致すればよいが、必ずしも一致するとは限らない。(中略)吾々は銘で集めるより、物で集めねばならぬ。
>

国宝だから見に行くというような、そういう話。相変わらず日本人のブランド信仰は強い。その方向性は好奇心に従って、新しきから古きまで、奇手から王道まで様々にクルクルと変化していく。例えば昭和期の茶道具高騰についても、文化教養の向上や眼の向上に拠るものではなく、今となっては一過性の流行の様な扱いで在ったことは明白だろう。民藝も一時期の隆盛を誇ったらしいが、これも肩書で民藝を見たのであり、何とも皮肉なものである。

さておいて、茶道具ではちょっと特殊な事情がある。歴代家元を軸とした書付。ここに独特の法則が成立する。なぜなら歴代の家元は、全ての流派子弟にとっての師匠である。無論、道具に関しても一流の目利きとしてこれを信頼し、その目線を追う事で勉学を深めるべくして、弟子の立場が在るものだ。こういった序列は無批判で構わない。よって、花押の在るものは問答無用で信頼されて何らの問題が無い。御家元は金銭に左右される御用学者とは全く違うものである。ただ問題は、書付の在るものを選ぶだけで満足してしまって、その目線を追わない処に在る。よく外部から批判される書付制度だが、書付の受け取り方に関する理解が浅いことが問題の根本に在るように感じる。

芭蕉曰く「古人の跡を求めず、古人の求むる所を求めよ」

というわけで、「御家元が書付したもの」こそが「足跡」。これを求めずに「御家元ならこの茶道具を認めるだろうか?」という視点でモノを見るのが正しい態度。御家元が書付によって子弟に教示するものを受け取るべきであって、お墨付きなどと考えていては意味が無い。書付の在るものを見ては、どこを以て書付をしたのか、という事を探求し、自己の眼を深めなければ意味が無い。茶は蒐集や目利きのために在るのではなく、精神修養を目指しているのだから、書付品を求めて得々としては何らの意味も無い。書付の多い歴代家元も居られるが、例えば「どんな道具でもいいから、茶を点ててごらんなさい」という意を汲みとれば、ここに意味が存在する事になる。その他様々な受け取り方があるだろうし、ともかくその目指している所を見落としては、何らの意味も持たないことを、改めて思うばかりである。高額な値段を載せる商人にせよ、踊る購買者、自慢する購買者も悪いのである。関わる人々が真摯な性情で居れば、誠に正しく運用されるに決まりきった制度。御当代が自ら書付を制限されたが、誠に哀しきは流派子弟ということになる。厳しい叱責に他ならない。

>
蒐集家は骨董商の言葉を頼る様な不見識ではいけない。骨董商は時折不正な儲けをしておかないと、商売が成り立ってゆかない。それで彼らの忠言には不純な動機が大に多い。しかも眼がきく骨董商は一割もいないものである。眼がきけば商売がしにくいかも知れぬ。否、商売はできないであろう。悪いものを巧みに売らずば利得は薄いであろう。まして人格の在る商人は一分あるかないかである。人格なんかよくては商売はできぬかも知れぬ。彼らの言葉は品物への保証としては極めて不純である。品物は当然買手の方で選択せなばならぬ。買う買わないは自由であるから、誰もこのことをしていると思うかも知れぬが、自らの力で品物を引き出す人は実に少ないのである。
>

時折に「信頼出来る骨董商を探す」という話も在る。茶会の用は足りるかも知れぬが、自己の修養が無くては意味がない。もし仮に「恥を欠かない為」だとすれば、何のための茶道であるか。自己の茶会に於ける名誉に汲々とするのが茶人の責務なのだということになれば、茶道の創始者たる利休は怒髪天を衝いて怒るだろう。許容されるのは「客が銘品で無ければ承知しないような程度の低い人ばかりなので、もてなす為に世話になった」という場合に限られるもので、全くの応急処置というか、例外処置というか、「非常時の処置」であろう。勉学として話を聞くのもよいが、巧者が用いるものではないだろうし、堂々と書き記したりする内容では無いだろう。柳が別箇所で「骨董商に操られている姿が多いのは茶人だ」と指摘しているくらいなのであるからして、危険は様々に潜んでいると見た方がよい。得てして、操られている本人は気付かないもの。

ただ実際には、戦後から現在に至るまでの問題がある。バブル期の「茶会で用いる道具水準のインフレ」だ。数百万の茶道具を使うことが「一般的な道具水準」となってしまって、これが解消されていない。だから自然、銘品を要求する客ばかりになっている。道具屋は儲かるかもしれないが、「茶は金が掛かる」と云われる通りの結果。例えば若い30代なりの「見習い茶人」が、いざ茶会をする際に尻込みしてしまうことになっている。とかく、様々な不都合が生じて来るもので、在るべき状況ではないだろう。利休が「竹」を積極的に用いた意味を、改めて考えてみたいものである。数多くある竹から、その日の朝に、清浄で美しいものを選んで切り出していく。朝から骨董商に電話するようなものは、およそ茶の道からは遠いものだと考えるべきであろう。名品を持てない様な人間は茶会が出来ないというような時代は、道具に振り回されてしまう哀しい感がある。「金襴の袈裟が無ければ経が読めない」などという道理は無い。むしろ「名品が無くとも茶会が出来る」ということを積極的に推し進め、低次元な茶会に納まらぬものとするための指導まで含めて成立させてこそ、広く茶を普及させる茶の師匠の仕事だろうかと思う。

話を骨董商に戻すが、私の経験からしても骨董商には心のドス黒い人間が多く含まれている。人におぞましさを感じる様な経験は滅多に無いものだと思うが、過去に私がそれを感じた手合いは、全て骨董商だったといっても問題が無いくらいのものだ。全てのものが換金物として見えてしまうほど哀しいことは無い。もちろん、そうでない人も居るわけだが、骨董は同業者の繋がりで流通が行われているのだから、悪鬼の中で善良な人間が生存出来る道理が無いのであろう。とかく生き残るのが酷薄な人という結果が見えている。永続的な良好関係は、「永続的に高価品を買う者のみに用いられる所作」と考えた方が実際に近いだろう。「良い骨董商」を「紹介」してもらっても、おそらく意味は薄い。利に従う者は、利の流れに拠って見れば見やすいもの。茶道具を茶の流れに沿って観るが如く、文脈に沿ってものを見ていれば、誤まる事は少なくなる。

青年部茶会。

今日は青年部の茶会でありまして、総勢22名。
仲間内の茶会というのも楽しいものであります。

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道具は持ち寄り。自作の道具がどう映えるかなぁ・・・
などと思いつつ、色々と使って頂いております。

気軽、と言ってしまえば何ですが、元より青年部は稽古人ばかり
でありますから、茶道具も特段に持っていないのです。

水指、茶碗4碗、蓋置という辺り。今回は破袋水指を。
著名作品無く、無名・無銘の道具の楽しみもあり。

しかし茶杓は大宗匠「若竹」にて、席を締めて頂きました。

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場所は瀬田・夕照庵。近江八景の「瀬田の夕照」にて。
天候も快晴。楽しい一日でありました。

濃茶・薄茶・半東などなど、未熟な中での経験ですか。
何が起こるか分らないというのは、意外に好物であります。

いやぁ・・・、しかし色々ありまして、思ったより疲れました。
皆さま、お疲れ様で御座いまして、ありがとうございました。

寒空の下で

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あらら。またぞろ窯場の屋根が飛んでおりまして。春風には少し早いですが、冷たい強風の吹く日が多く、おそらくは材木が収縮して、釘が抜けてしまったのでしょう。そろそろ応急処置にも限界が来ています。プラのトタンは、やはり耐久が低いというか、劣化が早い。安いもの、量産品の御買い得品は、およそ劣化速度が速いというのが、昨今の流行技法でしょうか。先日、何年振りかに買った服も、見事に粗悪品でありました。靴などでも同じく。安モノ買いの銭失いと申しますが、正直言って騙す商魂にも問題が。人なりモノを疑って見る必要がある時代というのは、なんとも哀れなモノヅクリです。

と言っても。トタンの話は知識不足もあり。未熟だから騙される側面というか、安モノ買いをしてしまうことも反省。屋根材に用いるには鉄材が基本とされているのも、理由があるのですね。「透明なので日照が入って良いのでは?」と安直に選択したのですが、よくよく見れば、多くはプラトタンの分厚いものを、更に鉄枠で固定している場合が多いかに思います。プラは鉄と違って「割れる」という性質があるので、そも素材選定の時点で誤まっていたという事で、プラが劣化したら、当然に割れ易くなる。いくら修復しても、耐久度は向上しないし、割れが広がって来る。

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まぁ、そんなわけで。屋根を親父と修理して、自宅仕事。真田紐の在庫が少なくなってきたので、そろそろ発注しないといけません。真田紐の作業と、掛け紙の用意は、箱の用意でも非常に手間が掛かるもの。普通一般では業者委託。まぁ、この話は何度か書いているので割愛しましょう。茶道具は桐箱と離れる事が難しいので、色々と話が盛り上がる事もあり。水指や花入は、かなりの長さが必要になります。

箱の用意は・・・採寸⇒寸法算定⇒発注⇒1週間程度で到着⇒真田紐を通す⇒掛け紙を寸法に合わせて裁断⇒箱書⇒押印⇒ウコン布に押韻⇒緩衝材を配置⇒品物を納める⇒陶歴を入れる⇒佳作には品物次第を筆書⇒納品書などを同封⇒寸法に合わせてダンボール箱を用意⇒緩衝材を詰めて厳重梱包⇒出荷。・・・かな。

意外に手間の掛かる仕事です。もちろん、これ以前に品物の最終処理があります。特に浸みの強いものなど、一定の止めを施すのですが、手間と時間が掛かります。小さいグイノミでも同じ手間が掛かるので、数が多いと相当な仕事量になります。業者に委託するのも解らないではなく、私も嫁さんなどに手伝ってもらう事が多いです。事前に箱を用意しておくと良いのですが、なかなかこれも大変な仕事。

桐箱はそれなりに原価も高いです。牛肉などが入っているようなギフト用の粗悪材は別ですが、一万円以下のもので桐箱が付いてくるコトは、あまり無いでしょう。付いてきても、あまり宜しく無い桐箱です。桐箱本来の実用面も半減した状態になっています。


さて、現実逃避の無駄話はこれくらいにして、桐箱の続きをすることにします。

細部に宿るもの

今日は茶道の稽古。10時間程も稽古が続いたので、ちょっと筋肉痛の兆しがあります。

先週に引き続いての薄茶平点前修練。「目の前に在るもの」を、「見えるようにする」という辺りが主眼でありました。和敬清寂という言葉の本当の意味。平点前を極めて行くための方法。先週も書いた様な気がしますが、己の能力以上のものを手にしようと思えば、相応の苦労というか、苦心というか。一種の心構えを伴う気付きが必要な事が多いという事を改めて問い直す場面が多くありました。

茶碗では、僅か数ミリの差異が美醜の境界を分かつコトがあるものですが、そういった基準を、そのまま点前にも適用して。一般的な順序ではありませんが、要は外から言われずとも、己の目で己を伸ばせる様に。何事も最終的には自分が自分を引き上げるしかなく。現在の器のままに居ても、何も発展しないという事を想いながらに。まぁ・・・一般的に云えば僅か数ミリの違いを苦心したりするような、そういったものです。でも、ロクロ一つでもそうですが、その数ミリに本質の宿る場合が多い。「神は細部に宿る」という建築方面の名言が在りますが、ミース・ファン・デル・ローエという、装飾を削ぎ落とした建築を旨とした人の言葉。例えば棗一つでも、真塗ともなれば棗の形、僅か0.1㎜の曲線誤差が美の本質として躍り出てきます。その誤差が悪かったり、真塗の程度が悪いものに、「装飾」という蒔絵が施されるものだと聞き及びます。削ぎ落とす程に、細部の高位が求められます。平点前は正に「削ぎ落とされた点前」と言いますか。釉薬を用いない「信楽」などもこの世界です。意味があるとか、無いとか、そんな次元の話ではありません。


ありがたい事に。久しぶりに思いだしましたが、ロクロなどに於いて「技を盗む」という手法というか、眼の作法?という様なものがありまして、他人様はどうか解りませんが、茶道の修練も同じものを使って、真剣に取り組むべきものだなぁ、と思いつつ。目線を一切動かさないで・・・とまぁ、言葉で説明出来るものではありませんが、出来る方にはこれだけで解ると思います。解らない人には、解らない。言葉を抜きにして技術の授受を行う作法。これが意外に万能的な使い方が出来るということに、今更ながら気付いてみたり。ちょっと、かなり集中力を使うので馴れないといけませんが。本来的には正客の作法としても、それくらいの集中力で見るべきなのでしょう。 久しぶりに用いてみると、日頃から正客の作法として訓示されてきた作法そのものでありました。一種の職人的特殊技術でしょうか。稽古の巧拙。ありがたいことに、手本となる多くベテランの方々が居られます。

高名な作家さんを始めとして。師匠の名手は、必ず「己で己を鍛えられるようにする」という事を主眼とされます。他人の手が無くとも、自分の脚で登って行ける様に仕立て上げる。そのために、割合に基礎的なものでも、自分で切り開く力を付けさせるために放置するという様な事が行われます。「魚を与えるより、魚釣りの技術を伝授すべし」という孔子の手法。これによって弟子が師匠を越える可能性を遺す。伝統というものは受け継がれるだけでは退歩します。力量の継承というものは9割も継承出来れば上々でしょうか。しかしそれでも、二代目には8割、三代目には7割の力量へと下落してしまいます。この手のものが、伝統の形骸化といわれるようなものであるし、難しい点であります。形だけの継承では退歩の一途。伝統の継承というものが必ず、形の継承ではなく、人間の本質論へと還ってくる理由でしょうか。

眼の前に在ることと、見えることとは違う。
意味が無いと思うのは、性急に「魚」を求めるに似たり。

凡庸な視座では凡庸な範囲しか見えないわけで、
つまり「思案処」であります。

先を見て習得すれば、更に先が見える様に。
「道」そのものでしょうか。歩むほどに先が見えるように。


さて、頑張りましょうか。贋物から本物を目指すために。

柳宗悦『茶と美』読解。22

『茶と美』読解。22
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⇒初版本第十二章『蒐集について』抜粋と雑感 その5。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

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吾々は数よりも質が遥かに大事なのだということを忘れてはならない。徒に量のみ多いのは、良い蒐集ではない。否、良い蒐集にはなれないという方が早い。質の良いものがそう数多くあるわけがないからである。無闇に集めても、蒐集の内容が高まるわけではない。却って粗悪になる危険が十分にある。数への執着はむしろ蒐集を悪くする。
>

例えば粉引碗が100碗あれば、100碗なりの順位が在る。良いものと悪いものというものを考えた時に、低いものを10碗持つより、100碗の上位を得る方が質が良い。碗と云うものは沢山用いるものではないのだから、量を尊重する理由は乏しい。至って単純な話である。例えば個展に於いてもそうであるが、名品はそれほど多く無い。私の穴窯でもそうであるが、佳作は1つや2つである。高麗茶碗でも、名碗はそれほど多く無い。伊賀や信楽にしてもそうであるし、長次郎などにしても同じことである。出来の悪い長次郎を10碗持つより、最高クラスの長次郎を持つ方が好い。目が無いと、結局これが出来ないことになる。個展など眉間にしわを寄せて眺めるくらいなら、専門家たる作家に「自信作はどれですか?」と聞いてみれば、参考としても色々と得るものがあるだろうか。売っている方になれば解るが、目を持っている人は、どれだけの数を並べていても、僅か1~2の佳作だけを対象に、他は眼中に入らぬ状態で話掛けて来られる。値段の安価には見向きもしないのである。

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あまり珍しさに執着することは正しくない。珍しくて良い物は、それこそ珍しいといわねばならない。珍しくて悪い物はこの世に案外珍しくないのだともいえよう。蒐集家はこのことに留意していい。珍しい物をと求める時、その蒐集は案外質の乏しいものに終わるであろう。それは正当な道ではないからである。
>

珍しくて良い物。稀少価値の最高位は曜変天目だろうか。例えば東京のものは景色が最高である一方、その造形に於いては最高位の天目形とは言い難い。寸法内には入るが緊張感に欠け、平凡に属するであろう。コト珍品というもので良い物というのは、本当に稀少だと思った方が好い。伊賀の名品に完品を求める様な話であり、文字通りの無茶、穏当なものではない。逆に珍しいだけのものとしては、例えば古い信楽茶碗や伊賀茶碗というものがあるが、珍品であるものの、伝世を貴ぶという意味を除外してしまった場合、茶碗としては珍種に他ならないだろう。

また「奇を衒ったもの」と見る事も出来る。ともあれ「一風変わったものが大好き」というのは日本人的な傾向だろうか。現代茶道具などによく見る造形は、伝統的なものから逸脱しているものが多いので惑い勝ちであるが、冷静に良否を見たいものである。基本的な視座としては、まず第一に良い物を探して、それが珍種であるかどうかは二の次。肩書みたいな扱いで十分だろう。「珍種の中から良い物を探す」というような事をやってしまえば、主客転倒してしまって、一度切りの「話のタネ」にしかならない。何度も使えば簡単に飽きられてしまうだろう。ついつい没頭して自分で気付かない事も多いから、簡単な事なのだが、常々の留意が必要な話であろう。

論者:近江の苔

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。かつて古伊賀が焼成された集落に近在。詳細はWeb・交通案内記事など。

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