柳宗悦『茶と美』読解。21

『茶と美』読解。21
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⇒初版本第十二章『蒐集について』抜粋と雑感 その4。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

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高い代価が商人の奸智にもとづく場合がいかに多いかを知らねばならない。売れないものに突飛な値をつけるとたちまち売れる場合は珍しくない。商人はしばしばこの手を使う。高価が人々の信頼を博すのである。だがものの価値は市価と常に正比例するとは決していえない。高い代価なるが故に物を誇るのは浅はかな趣味である。悪趣味と呼ぶ方が至当かも知れぬ。高い金額への信頼は、無見識の告白ともいえる。その中には名実伴うものも必ずやあろう。しかしその標準は決して頼りにならない。
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よく知られた話であるが、人間国宝に認定されれば価格は10倍に跳ね上がると言われる。よって派閥勢力など、様々な可能性を持つ子息・弟子は必然的に画廊や百貨店から非常な厚遇を以て歓待されることになる。この人脈が派閥内の権力に繋がる。否応なしに商人が群がって、作家を、また業界をダメにしていく典型例であろう。受賞に拠って突然に腕前が10倍になるということも無い。単純に肩書が付与されるだけの話である。それを無価値と断ずるのは些か問題があろうけれど、価格を10倍にするほどのものではない。道義的に行っても、作品の価値を主体とするならば、せいぜい二~三割の高騰でも多いくらいなもので、本当の意味では、全く価格を上昇させる理由にはならない。ただ後進のことを勘案するくらいなものであろう。

作り手は、あくまで作品価値の向上を主体とするべきなのは無論である。市場価値や稀少性などを考慮に入れても、職人根性ならぬ商売根性の評価が高まるだけである。その意味では、例えば「〇〇代襲名」などと言っても、相当に価格を低廉化させても然るべきところのものである。血筋で腕前が上昇するのであれば苦労はないわけで、血筋で腕前が上がらぬからこそ、〇〇代目という苦しさがある。しかしだ。かような「価格に於いての理想論」というものは、世の中に晒してしまえば鎧袖一触で破壊されていく。昨今は「金銭転化出来る肩書」や「商売上の自己演出能力」が成功(?)に不可欠という側面が在る。ここでの「成功」とは、あくまで「金銭的な成功」であるが・・・。

よって、価格を信じてはならぬ。特に因襲に囚われ易い経歴の鎖を持たされている作家の価格には、様々なものが乗っている。それを勘案する事も必要であるし、また品物の本質を見ることも大切であろう。肩書だけで人を見るというのは、自己の見識に対する「慢心」に他ならず、非常に「御粗末な見識」とされるものだ。

見解の中立性を考える時には、食べ物を想定すると、身近なものであるだけに誤まりが少なくなる様に思う。高額な食材、贅沢な食べ物というものは、必ずしも美味とは限らない。珍味が美味と同じように高価を獲得する例は多い。また、美味しいと評判の店には行列が出来て売上も高いのであるが、しかし「美味しいとは限らない」のが常である。作家が商人に潰される例のように、行列が店をダメにしていく場合もある。かよう、本質というものは人々の中にも常識的感覚として理解される範囲の話である。

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まして高価なものは贅沢な品多く、贅沢には華美とか軟弱とか、さまざまな病菌がつきやすい。高価なものへの自慢は、とかく内容において空虚である。
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黒一色の黒楽を筆頭に、美の品質向上は専門的で、一般に理解され難い側面をもつコトが多い。民藝などもそうである。こと素朴を旨とする中では、なかなか差異というものは見て貰えない。場合によっては自己満足などと揶揄されることになる。結果、商売上に解りやすい指標を与えて、例えば「軽い、手間が掛かる、色数が多い」などの理解されやすいモノサシを与え、大衆を低俗美へと導いて金銭のタネにする。かよう商売人が創り出した、中身の無い空虚な工藝論に毒されてしまった人は多く、その誤解を解くのには本当に苦労をさせられるのである。軽くあるべきは軽くてもいいが、本当に軽さが第一等級の観点であるかどうかを考えて頂きたい。茶杓では作者第一という。御香は「香り第一」であろう。その視点で、本当に茶碗は「軽さ第一」であろうか。飯椀だってそうである。軽いものがいいなら漆器椀がオススメである。軽さと耐久を第一とするならプラ食器が最高だ。「軽いだけの器」こそ、柳の云う「軟弱という病菌」を持った器に他ならない。そも「軽さ第一」などというものに素材として土を選択するというのは、どう考えても合理性・必然性に欠けるのである。あらゆる工藝に精通すべき目利きとなればこそ、モノヅクリの基礎を見落としてはならない。

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集まった物の間に有機的な関係があれば、どんなに集めても立派なものに育ってゆく。だがこれがないとただ雑然とした蒐集に終わってしまう。個々の間に何らの連絡が無く統一が失われてしまう。こういう蒐集の著しい特色は玉石の混淆にある。美しい物と醜い物とがきっと同座する。正しいものと間違ったものとがいつも混雑する。蒐集家にはこの病気が最も多い。しかも軽い病気ではない。
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玉と石。玉とは「贅沢品」ではなく「美しい物」。石とは「低廉品」ではなく「醜い物」。茶会の道具組みなどでは、もちろん道具にも序列が在る。そういった意味で、火入など、道具組みの序列が比較的低いものに注目してみるのも1つであろうか。茶碗よりも名品で在ってはならぬから、比較的「低廉でありながら、一定の品質美」というものが要求される。火入は選択肢も少なく、名品は滅多にないだけに、選び所が非常に難しい。これを「有機的」つまり他の名品と関連させるとなれば至難であって、解っているかどうかの基準になりかねない。マニュアル的選択によって、何とも言えぬ場面が多いわけだが、ここで気の利いたものが出ていたりすれば、1つの楽しみともなるだろう。だからこそ難しい。玄関の具合如何によって亭主の配慮深浅を知る楽しみに近い。しかし、この楽しみを提供するには力量が必要である。一系統の美的感覚だけではなく、こと複合的なもの。一定の蒐集量も必要であり、茶人として火入の灰共々、腕の見せ所となるものだろう。

洋菓子

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一週間程早いのですが、洋菓子の日でありました。

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ケーキなども作って貰いました。

洋風というか、キリスト教の風習ですね。もちろん日本創作的な商業的イベントの側面はありますが、昔から割合に、風習というものはいつのまにか定着していくのでしょうから、特段に目くじらを立てるものでもないかと。年賀状などもそうでしょうけれど、元々は年始挨拶の欠礼状というようなものでしょうか。中元・歳暮の贈り物というものも、本来は「祖霊供養のための供物を、遠い分家の者が宗家へ送る慣習」だったそうであります。言われてみればなるほど、親父などが盆暮れに行った際、まず仏壇に供えておりますが、現在は何か、例えば某ハムの様に、祖霊が喜ぶものではなく、本人が喜ぶようなものを送っていて、全くの形骸化も観じます。

いやまぁ、だから別に否定するわけではなく。
変質というものはある種の変革です。

現代は新しい意味づけ?として御歳暮や中元も「感謝の印」と表現されているのですが、「洋菓子の日」も最近は「感謝の印」というものになってきている様な感がありますから、段々と同じ様なものというか、新しい形の風習に変貌しつつあるのかなぁ・・・と。キリスト教的なイベントとしては、「年末のキリスト教イベントよりも、「それらしく本義に近いのかも」などと感じましたか。

と、「意味の無い感想」でありました。

でわでわ。

春らしい?

今日は何となく、雨に春の薫りが混じっていた様な気がしたのですが、さてどうなのでしょう。

う~ん。とりあえず今月から漆教室を休養にして。今日は自宅で補修作業を進めておりました。正直、萩焼並みの土作りというか、粗い粘土ってのが、さて漆で止めるものか、米なりで止めるものか、調べるのも大変です。ちょっと大量に貯まってきているので、困った物。以前はまぁ、正直それほど止める意味があるのか?などと思っていた頃もありますが、現代の茶事情を考えていく際には、程度を踏まえないと難しい面を感じます。

次回の焼成は・・・どの程度で行くかなぁ・・・と思案もしつつ。

前回はかなり粗い粘土を用いたので、これはこれで困った面も多く。


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昨日の蹲花入もその1つですが、当日は問題ないものの、
一日を経てしまうと水が少し溜まります。

実際には敷板を用いるので敷板が濡れる風情でしょうか。敷板があると、板が水を吸収して、外観上の問題も無くなるのでありまして、真行草などの話だけではなく、実用面もよく考えられているものだと感心します。板は濡らしておくものと聞きますが、その理由というものの1つでしょうか。

ただまぁ、掛花入では敷き板がありません。どうかとなれば、程度によって温かい会場であれば浸水量よりも乾燥の方が早い場合もあろうかと思います。気化熱で水が冷えてくれて清浄に保たれ易くなります。古来知られてきた水甕作用。使っていれば止まって来るものですが、花入などは茶が入るわけでもないので、花のアクなどでしょうか。なかなか止まり難いのが実際。そんな浸みの程度1つでも、確認には時間が掛かります。

昔に販売されていたものなどは、確認も適当であった面があるような感があり、
浸水の多いものが時折に散見されるようですが、この辺りの理由でしょう。

何くれと、手間が掛からないようでいて、焼締めというものは非常に面倒を見なければなりません。

音楽と茶道

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今日は午前中来客。同業さんでありまして何事?と少し警戒もしましたが、
お気楽に色々と。伊賀作品などを見にいらして下さりました。
薪窯をやりたい作家さんも、昨今はどうなのでしょうね。

で、午後からは一昨日に書いた・・・

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ん?ここ?って感じの音楽ホール。写真左奥のコンクリ建物です。

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コラボ企画って話でありましたが・・・。
若手ピアニストの演奏が主役でしたね・・・。あとは脇役。

「日々是好日」と申しまして、脇役は脇役なりに勤めを果たすのが茶の心です。
音楽については、下手なことを書いて馬脚を顕しても仕方が無いので割愛。

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演奏が終わって・・・。あぁ、すいません。蓋を開けたら「Jazz聞きながら抹茶一服のノリ」で企画者が決定されてました。メインの演奏が終わって、緊張感を解いた処でサービス演奏をしつつ、ガヤガヤの中で和菓子⇒呈茶⇒解散。しかし末富さんの和菓子。見るも見事、味わうにも見事。う~む、素晴らしいものが四種。音に聞こえる名声・腕前は伊達ではありませんね。見事な職人技でありました。

来客百人弱の方々への呈茶。狭い場所で一挙に点てて行く。なかなか、こういった手順は経験が無いと一朝には難しいものですから勉強もさせて頂きつつ、一種の戦場の様な場に身を投じておりました。

演奏会も・・・久しぶりに見てみると勉強になるというか。例えば演奏中に「演奏だけが聞こえる静かなる時間を作り上げるための工夫」というものは、まぁステージをライトアップ、観客席を「不便なほどに暗くする」というもので、見事に意識が集約されます。草庵の茶に於ける演出に通じるものがある様に感じましたか。例えば軸は白紙に書かれて浮かび上がるものになりますし、炉の炎や竹の白色、点前者の手先などもが「光を反射するもの」と相成ります。

で、演奏が終わると会場が明るくなって、ガヤガヤと緊張感が解ける。薄茶の世界でしょうか。特に静かな時間という点では、演奏会における静寂は見習うべきマナーですね。「大勢の人間が居れば仕方が無い」という考え方が誤まったものであることを考えさせられます。静かな茶席って、とても好いですよね。釜の音や、風の音が嬉しくなります。和敬清寂の「寂」の味わいと言いますか。

音楽は一種の舞台芸術ですが、茶道も総合芸術として舞台芸能の要素を持っている面がある。
つまり演出の要素も在る程度思考する必要があるということでしょうか。


そんなことを感じつつ、呈茶手伝いをさせて頂きました。
御客様も喜んで頂いた様子。美味しいという声も多く。


ありがとうございました。

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農家と作陶家

今日は日射しも暖かく。少しく自宅~工房の道路は山間でありまして、今日も雪道が残っておりました。坂道の雪ってのは厄介というか、侮っていたので最初の冬にクルクルっと回転した経験が御座います。初窯が終わった冬の頃ですな。兄がタイヤのチェーンを買って土産に持ってきてくれたのを覚えております。日陰はいつまでも雪が残っておりますね。

最近は色々と、晩飯なども多少は考えるようになってきたので。本屋に行くと料理本のコーナーにも寄るようになっております。そういえば茶道雑誌も女性コーナーに在ったりしますね。

本の話は別にいいんですが、無農薬野菜って話を色々と、まぁ別に専門的に調べたわけではなく、ネットだのというような、程度の低い話でありますが、農業の問題っていうのは、とても興味深いというか、まぁ例によって工藝の問題に先んじて困っている内容が多く参考にすべき点が多い?と感じたもので。まぁ、誰向き?って云えば、訓練校の生徒さん辺りでしょうか。そろそろと卒業時期ですね。

まぁ、家庭菜園。自分の畑で野菜を作るわけで、ウチも基本的に肉類と調味料だけを調達して、野菜や米は貰ってきたり自家調達したりというもの。こういうものは、比較的無農薬系というか、非常に安心して食べられるものとして考えられています。しかし一方で、普通一般に入手できる野菜というものは、農薬を用いたものしか手に入らない側面が強い。

ここに於いて、無農薬と農薬使用との論争はとりあえず置きます。専門家ではないので。残留しない農薬であれば問題が無いとか、虫に食われた植物は農薬的毒素を発生させて自衛してしまうとか、色々あるにせよ、どうも「化学的な決着がつくまで話の基礎がコロコロと変わる」というものだと観察されます。素人がアレコレと言っても始まりません。それに農業の大規模企業化だの、高齢化だの、無農薬指向だの、様々な利権的構造が絡んでいるので、自分は自分で、という話になります。

人々は「無農薬を支持」するわけですが、生産者は「その値段じゃ作れない」というコトになりまして、要は「値段」に於いて折り合いが難しい。なぜならば、価格としては「農薬を用いた大量生産品の価格を支持」しているからです。その結果としては、無菌工場など大規模屋内プラントなどの野菜生産へと進んでおりましょう。これは無農薬に近く、大量生産が可能だから値段も居り合いがつきやすいわけです。「合成の誤謬」と申しますか、人々が望んでいたのはおそらく、「小規模でやっている無農薬栽培が支持され、その道の専門農家によって大規模化され、最終的に一定の安価で人々に供給される」というものを望んでいたのでしょうけれど、話は全く違う手法で実現され、農家の預かり知らぬうちに「農業を成長産業にしよう」という話が聞こえて来るものでしょうか。

あれ・・・?と思ってしまうのは私だけでしょうか。

一応、「安心・安全な野菜」が「低価格で供給」されているわけです。粉塵も無いから、昨今気になる「放射能の影響」も無いわけであります。これって、表面的には理想が実現しているのではないでしょうか。

でもやっぱり、「あれ・・・?」と思ってしまうのです。

何事も感情論だけで片付けるのも問題ですが、化学的見地だけで片付けるのも問題でしょう。「どこに問題が?」って、売場で「植物工場で生産」なんてことを書かない辺りが如実に示す様に、ちょっと違うわけです。風評被害とも云えるかもしれませんが、工場栽培のものが危険だから買わないというものでもない。

色んな議論があろうかと思うのですが、先の農薬にしても「人体に実際の影響は無い」ということで、「農薬に対する過剰な敵視は迷信や誤解」ということを説得したとして・・・。でもやはり、人は農薬を用いた野菜に、感謝や祈りを捧げるかと云えば、どうも難しいのだと感じます。どうも「これは・・・理想していたものとは違うな」と。

我々は日々の健康のため、生活のためによりよい食事を求めるわけですが、別に工場製の野菜を買ってまで長生きしようとは思わない。除菌云々だってそうですが、商業広告に乗せられている人は、それほど多く無いかと思います。そういった「中庸」の感覚がどこか潜んでいるかに思うのです。

陶器に於ける作家品というものは、いわば「農家の無農薬野菜」でしょう。色々と作られているが、普通一般の人が手にするには、何らかの縁や、もしくは一定の金額が必要になってきます。多くは知らず知らずの内に、「〇〇焼」とシールが貼られた「工場機械製の食器」を、それとも知らずに使っており、頓着しない人や、社員食堂・学校給食などでは更に廉価な「プラ食器」が一般的です。外食チェーンや加工食品・冷凍食品が中国製を始めとする廉価野菜を用いることに共通していますか。「廉価」を突き詰めていくと、「酷い食材」に「酷い食器」という、何ともつり合いの採れた存在が誕生します。大学の学生食堂などは色々と無理が現れているというか、一定の安全性を確保するために「彩り」や「味」を犠牲にしており、健康的で合理的であるが、如何にも「貧しい食卓」というか非常に「見た目が淋しい」ものになっておりましょうか。正直、まぁ学生の頃だから楽しく無い事もなかったのでしょうけれど、今となって1人で食べるには敬遠したい食事ですよ。(←あくまで個人的な嗜好ですが。百貨店の社員食堂などもこの雰囲気ですよね。)

「健康的な食事が、廉価で」という理想。なかなか、頭で考えた理想ってのは、実現してみると不備の多さに驚くことが多いわけです。

そういった意味で、です。陶器家がよく、「機械製はダメで、作家モノは好い」という言い方をするわけですが、昨今は機械製の方が丈夫で、電子調理器や食洗機などの使い勝手もよく、品質は均一、価格も安く、デザイン面も進歩しているわけで、一概に作家ものが優れているとは言い難い現実が、まぁこの5~10年くらいで、不景気と共に襲いかかって来たわけです。正直、場合によっては機械製の方が手軽に用いられる場面があろうかと思うのです。要は農薬業界が、様々な進歩改良を加えて、殆ど無農薬に迫る様なもの、場面によっては凌ぐものを、以前と変わらぬ低価格で作るようになってきたわけです。

そうするとですな、「人々の喜ぶ器を作る」という原義が、色々と揺らぐと思うのです。自信を持てなくなるというか。クラフトフェアにしても、それほど売れなくなっているわけで。自分は誰のために作っているのか、という辺り。

特定の答えは無いわけですが。
自家の小さな家庭菜園のものを、安くで人々に売る。

そういう仕事だというコトでしょうか。イイモノ、こだわったものを作るにしても、
現代の作陶家の現実は、「無農薬野菜の個人農家」という辺りに感じます。


仕事を大きくするにしても、理想を追うにしても、また大規模工場と闘うにせよ、最新技術に対抗するにせよ。他業種に比して見ると非常に客観的に見ることが出来る例は多いものですから、1つ参考になればと、ツラツラ若輩者の思い付きを書いてみました。どんな野菜を目指すか。市販品っぽい綺麗な野菜を作るのもよし、味だけに拘るのもよし、中間点を目指すもよし、新品種を探すのもいいでしょうし、目新しい野菜の栽培や、希少品種を作るのもよいでしょう。経済的に儲かるように農薬を用いて家庭菜園をしてもいいわけで、ビニールハウスを進化させて「個人栽培だけど無菌室」みたいにやっても自由です。

と、中身があるようで、多分スッカラカンの話でありました。

「理想の置き方」という意味では、これからの人に参考になるのでは。

私は「茶人御用達野菜」という辺りでしょうか。

以上、そんな話でした。

寒中の節分

いやいや、今日は寒かった。朝から配管が凍って色々と苦労をしました。冬らしい?と云えば冬らしい。道路は氷点下、室内温度も1~2℃であります。例年はこういった日が何日か続いた様な気がするのですが、どうだったのでしょうか。

2月の稽古も始まって。今日は基礎、薄茶平点前。色々な癖を修正して頂いて。最初の頃に指導も頂いている筈なのですが、気付いてみると色々な不足もあり。打出の小槌みたいなもので、まだまだ、いくらでも出てきそうな勢いであります。帛紗1つでも未だに悩むことがありますが、ともあれ言われて初めて気がつくようなものも多く。そらまぁ、未熟者が自分で自分を見ても、まぁ未熟者の視点でありますから、解る道理が無いわけです。所々に在った「自己流の陥穽」を反省致しました。なかなかやはり、自分の力量でしか物は見えないものですね。

そうそう。明後日の日曜日ですが。
http://www.shiga-bunshin.or.jp/souzoukan/event/2406.html

>(引用)
2012年は作曲家ドビュッシーの生誕150周年になります。その記念すべき年の幕開けに、楽曲演奏だけでなく、ドビュッシーの作品をイメージして製作された染色画や京菓子をあわせてご紹介し、ピアニスト、型絵染作家、御菓子司の3人の匠の技と感性が融合した「聴覚」「視覚」「味覚」で楽しめる演奏会を通して聴衆に新たな感動を体験していただくことを目的に開催いたします。
>

こちらの呈茶の手伝いをさせて頂くことに。文化振興団体の活動。演奏会を聞きに行くのも本当に久しぶりなので、とても楽しみです。(←違うだろ。)当日券もあるようで。守山駅より徒歩で数分程度でしょうか。茶菓子は末富さんです。まぁしかし、ドビュッシーの作品をイメージした・・・?という辺りは興味津々でしょうか。「ドビュッシーをイメージして陶器作って下さい!」とか言われたら・・・正直キツイです。特定の曲目などが決まっていれば多少は一考の余地があるのかもしれませんが・・・。

まぁ、この辺り、どこも同じかもしれませんが「横文字」+「アート」という言葉が大好きなトコが主催の様子。「文化」と云えば「音楽や現代オブジェ」などを想定するハイカラさんへの訴求が多いです。いわゆるというか、そのもの「アートコラボレーション企画」というもの。ただ企画屋さんはともかく、内容となるものは本当に文化を担う人々ですから、安心して楽しめることでしょう。「Jazzの流れる茶室で現代茶道具による・・・」にはならないと思うので、その辺りは御心配なく。(まだ会場を見に行って無いので何ともですが・・・。滋賀県でソレをやっているのは別の団体だったと記憶しております。)

会場の「スティマーザール」(ドイツ語?)は、「調律された空間」とありますか。音楽の本質は「音そのもの」ですね。私も一応は齧っていた頃があるので、今でもトランペットの音が悪い演奏は聞きません。逆に好い音であれば、それだけで購買対象になります。茶道でも、楽茶碗など薄暗い小間の席が最も好く見えますが、要は環境まで含めて、そのものの本来の力を存分に発揮させるという思想です。それの音響版ということになりましょうか。コラボ企画風(?)に云えば、広すぎる書院の茶を、「侘び茶に調律」したものが「草庵」というものになるのかもしれませんが、言葉が西洋文化を想像させるので、あまりこの言い方はしっくり来ないですね。具体的なトコは私で説明出来るわけもなく。生誕150年さえ知らなかったくらいですから。


茶会は朝が早いものですが、こちらは午後3時半開演。

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チラシはこちら。80名までの御席の様であります。
御都合が宜しければ是非。

さて、今日はこれから豆まきです。

大雪らしい。

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今日は雪の日。風が強く吹きつけて気温を奪っていく感がありましたか。甲賀はそれほどの積雪にもならず。滋賀県には警報も出ている様ですが、割合に気楽なものでしょうか。明日の朝が少し心配ではありますが。

ただまぁ、世間的には色々と大雪で苦労されている話も。経験の無いモノは想像も難しいもので、なかなか苦労を想像することさえ出来ないものですか。昨今はツィッターなども情報共有のモノと言われましたが、次第に自己顕示の強いものばかりというか、広告・喧伝的なものが増えてしまって、少しく停滞感を観じています。

個人的にはダライラマのツイッター。書店で本など購入したりしましたか。なかなか、手放しで本当に称賛出来る人というものは少ないモノですが、禅というものの理解にしても仏教、つまり仏陀が基礎ですから、在るべき姿勢として非常に示唆に富んでいます。芸術とは何か、というような内容もあります。

宗教に抵抗感の強い方など、あまり誤解されても何ですから少し引用しておきますと

>
心の修練は芸術です。もしこれを芸術と考えてもいいのなら、人生そのものが芸術です。形に現れた芸術には興味がありません。ただ瞑想して、心を修練するだけです。形に現れたという点からいえば、自然本来の姿も芸術です。
>

という辺りです。(書籍からの引用)

自然物を最高の美とする原点にしても、心の修練を基礎とする道の思想としても。元より日本という民族に於ける宗教はその大半に於いて神仏、自然信仰と仏教ですから、伝統芸の思想に於いて仏教的なものが混在するのは、むしろ当然の帰結と考える方が自然でしょうか。特に民間に於いてこそ信仰も深いものがあり、如何なる田舎の小さな集落も、寺社仏閣を中心に据えている場合が大半です。むしろ何らかの寺社仏閣があるからこそ、奥深い山中にも集落が存在してきたのではないか、とさえ感じる程の場所が少なくありません。

非常に達観した視点を様々に、解りやすく学ぶことが出来ます。

雪の日は読書など、如何なものでしょうか。

不安定な焼き上がり。

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相変わらず不安定な焼き上がり。と云っても、
別に安定指向は無いので、これでいいのです。
卵手を感じさせるヌメリのある焼き上がりも。
少し小振りの、薄茶用抹茶碗。

tenmokuyuu_20120202033539.jpg 

こっちは鉄釉。場所に拠って巧く出来たり、ダメだったり。
う~ん。掴んだと思ったのですが、オカシイなぁ・・・。
あ、写真のものは比較的予想範疇のものです。

試験も色々とやらねばならんのですが、水が冷たいのでついついと。
今日は何だか随分と冷えるそうでありますが、今(午前三時半)でも、
まぁまぁいつも通り?という感があります。さてさて。

論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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