のんびり?

冬はのんびり、といいつつ、「のんびり」という言葉がしっくりこない。寒いからでしょうね。のんびり縁側で、という様には参りませんか。暖房費が高くなるので最近の設定温度は14℃くらいです。昼間は日射しが暖かいものの、あまり外仕事も少ないので微妙な辺り。工房は連日氷点下です。

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とりあえず焼いてます。ガス窯って、あんまり暖かくないというか、
普通は暖かいのですが、ウチは外設置なので無意味であります。
乾燥が遅いので、いっそ家の中に持ち帰って乾燥させました。
今晩はかなり厳しい寒さになるようで。

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冬の椎茸。凍えているというか、乾燥状態です。
雨が降ったりした時だけ、大きくなります。
やはり雨は暖かいのでしょうね。

ガス窯終了の予定は・・・、深夜三時頃?かな・・・。

しばらく漆も

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漆も今月でしばらく休養に入ります。次回の窯焚きはちょっと、気合いを入れる予定なのですよ。と云っても、家で多少の仕事はあるもので御座いますが。

漆もしかし、様々ですね。写真のものはグイノミですが、まぁ窯で転がっていたものすが、治すとなれば、何とも工程も非常に長い・・・。様々に漆を調合しながら、合計すると10層以上塗り固めて行くというものに。写真の状態で6回目の漆作業。一度塗れば数日は作業が出来ないので、何とも気の長いものであります。続きはGW終わってから。

今日は作業も少なかったので、茶道具に於ける漆工藝の見所などを色々教わったり。塗師さんの名前、(実際の多くは蒔絵師さんの名前?)が応答されるわけだから、やはりまずは塗りの色を見るもの?という疑問というか、当然と思える推定をぶつけてみたりしましたが、なかなかに意外な答えでありました。もちろん安モノの稽古棗は別として。どこで品格を見るものかなぁ、と思いつつ。(有名・無名に関わらず、1つの棗に対し木地師・塗師・蒔絵師はそれぞれ別の職人さんが作るのが基本。)

しかし実際、品格のある棗ってのは在りますよね。
何が違うって、まぁ別物としか思えない様な。

そんなオボロ気なものではイカンので、様々勉学も進めていこうと思いつつ。そろそろと、次の窯焚きへ感覚を移して参りましょうか。まだまだ、気合い充填中というような、準備運動の準備という辺りです。

初茶会2012

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今日も琵琶湖へ。淡交会の初茶会でありました。朝から雪がチラついて、暖かい茶の嬉しい時節でしょうか。新年と云うも、早や一月も暮れてまいりましたか。春が待ち遠しいものであります。青年部の仕事がありましたので、午前中は受付などに居りました。青年部50周年行事も、淡交会滋賀支部65周年との合同と相成りまして、何くれと諸兄の方々にお世話になります。

なかなか、御茶の世界で30そこそこの年齢では子供みたいなもの。
伝統系の世界では、大体にそういった側面があろうかと思います。
40代でもまだまだ。「若手も若手」という雰囲気でしょうか。

桃山時代、「人間五十年」の時代を思えば、何とも悠久なものであります。

茶会。濃茶席、薄茶席、祝膳席にてありがたく。簡単に記しておきますと、濃茶席は三条実満の初春の詩。中興名物の瀬戸茶入「八景」に大宗匠の茶杓「仙境」。御本三島の「山翁」にて、ありがたく頂戴を致しました。青磁花入に高麗卓の清赤絵の水指。唐様式の点前座に和物が取り合わされた道具組。どこか中国の宮廷的な華の雰囲気を採り入れた感を思いました。紫禁城の霧の朝?というような辺りでしょうか。

薄茶席もゆっくりさせて頂いて。淡々斎にて「瑞雲生五彩」。今日は朝からの雪から曇り空となり、夕刻からは少しく晴れて参りましたか。なかなか、雲行きの怪しい日本も、かように晴天への回天が為されると嬉しいものであります。


以上簡単に。色々と御世話になりまして、ありがとうございました。

 

柳宗悦『茶と美』読解。20

『茶と美』読解。20
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⇒初版本第十二章『蒐集について』抜粋と雑感 その3。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

>
蒐集は私有に生い立つが、進んでそれを公開し、または美術館に納めることは1つの美挙である。それが私有物から共有物に進むからである。個人的意義が社会的意義をも加えるに至るからである。(中略)私達は死んだ美術館をたびたび目撃する。だがこれに反し、よく活かされた美術館においては、物は遥かに大きな生活に入る。
>

彼は若い頃に朝鮮に美術館を設立していることもあり、また日本民芸館の設立を目指しているわけであるからして、少々美術館を非難する矛先は鈍らざるを得ない。美術館も美術館で、何とも御粗末な学芸員を抱えている場合も多いから、私蔵を死蔵にしても仕方が無いし、「倉庫の肥やし」にしても仕方が無い。好い美術館とは、即ち好き管理者が存在しているという話になる。保存管理だけではなく、公開や扱いに於いてという意味でも、結局は人間がどう扱うかという話に帰結する。私蔵と美術館蔵の優劣を結論することに意味は無い。

むしろ「死んだ美術館」というものを正確に人々が理解することが大事であろう。柳の云う「死んだ美術館」とは、「閑古鳥が鳴いている美術館」ではない。戦前なので、それほど美術館も多く無かっただろう。好い美術館はいくつかある。例えば東洋陶磁美術館に於いては宋磁の至宝が蒐集されているが故に、それを俯瞰することも出来るし、深浅の程度を知る事も出来る。蒐集自体に価値が認められるし、また展示においても飽きが少ない様に感じる。そういった話であり、別に「来場者数」などという現世利益を指標とする人物ではないだろう。また同時に、どれほどの人々が展示されている品々に理解を示しているだろうか。民芸館にしてもそうであるが、全く解らないままに見ている人が非常に多い。しかも、昨今は来場者数も極めて少ないものだ。展示解説は歴史的な話の羅列であることが多く、歴史的価値や技術難易度など、解りやすき話ばかりを解説する側面が強い。価値の押し付けもどうかと思うが、何とか方策が無いものだろうか。美術教育などを始めとする「欠陥」を長期的に放置してきたことが問題となっているように思う。美術の価値は金銭ではない。わからないものは楽しく無い。それは当然の話であって、そこに「公共施設」の仕事があるべきだろう。「解る人間だけが愉しめばいい」「どうせ理解されない」「自分もよくわからない」などというような仕事振りでは社会的責務を全く果たせていない。現代に於ける「死んだ美術館」とはこの手の公立美術館を指すのだろう。

>
蒐集には珍妙なのがある。(中略)ナポレオンのハンケチがどうであろうと、西郷隆盛の下駄が何であろうと、歴史には直接の関係がない。そういう蒐集は結局は奇態な趣味というまでで、話種になるのが関の山であろう。集めたとて罪は無いが、強いて遺さずとも差し支えのない代物である。蒐集となるからには馬鹿気ている。保存の意義が薄いからである。
>

いやまぁ・・・結構楽しいと思うのだが・・・。どうせ歴史上の人物のものだから、歴史的な日用品としての面白さ、つまりは話の種であるが、洋館などの生活感を再現するには非常に重要なものであろう。特に歴史などに於いては、時に病的なまでに資料収集をするわけであるからして、何かの役に立つこともあろう。いやまぁ、役に立たなくても、こういった蒐集を灰塵にする必要はない。西郷隆盛館に下駄が在ってもええのでは。単品では意味が薄いものの、蒐集されれば面白い。許してやって下さい。

>
最も普通なものの例に郵便切手が来る。(中略)興味が低級だと詰られても仕方があるまい。かりにそれらのものが一瞬時に灰に帰ったとて、この世の大きな損失にはならない。
>

美術だけが世の中の指標ではなかろう。金銭価値だけを指標と考えるに似たり。ちょっと病的ですよ、柳さん。道楽ってのは必ずしも社会的意義を伴う必要はないと思うのです。さもなければ、大半の工藝品なんてものに社会的意義は無いのであります。

>
巻煙草の包紙と浮世絵とは美術的段位が違う。同じ浮世絵でも写楽と国芳とは価値が異なる。等しく書物とはいえダンテの文献を集めるのと、豆本を集めるのとは格が違う。狸に関する絵や玩具をいくら沢山寄せたとて、美的にも史的にも意義を有つことが少なかろう。それは単に個人の特殊な嗜好に止まるというに過ぎないからである。法然上人の研究家が、上人に関する文献を蒐集するのとは意義が違う。それは個人の嗜好に終わることではないからである。蒐集でも下らぬものを対象とするのは愚かである。
>

この手の格付けが、そも民藝品が低級に見られていた元凶の思想。柳が「単なる高麗趣味・民藝趣味のオヤジ」と評価されている向きが在ったのではないかと推測してしまう。少なくとも柳は「美術的段位の高いモノ」を集めているつもりで居たのだろうけれど、結局、民藝品というものは美術館に陳列される事は少なく、「民藝オヤジの店にある」という辺りのものになってしまっている。

しかし、今風に云えば「猫グッズ」みたいなものか。「招き猫」を「信楽のタヌキ」の如くにマスコットにしようと、何だか東海の伝統窯が主導権を争っているようであるが、正直呆れている人間も多かろう(←失礼!)。柳の云いたいことは、つまり蒐集するのであれば、意義の高いもの、つまり、自己を高めてくれるようなもの、また仕事や人生に関わるもの、専門性の高いもの、社会性の高いものなど、「折角集めるのであれば何かしらの意味を持たせて、好い蒐集を愉しむべきだ」という話をしているつもりなのであろう。

この辺りには、戦前的な「国家奉仕者」の意識に基づいたものだろう。社会奉仕の意義が薄弱な現代に於いて、この感覚を共有することは難しくなっている。およそ蒐集というものにおいて、社会的意義を持たせたり、将来的な美術館設立などの構想を持っている者は少ない。正に個人の趣味で楽しんでいる。見るという点に於いても、およそDVDなどテレビの高解像度映像で十分に満足するし、茶道具などはむしろ、茶席に置いてみるべきものだから、いっそ美術館に陳列するよりも価値があるかもしれない。もちろん演出過剰は無意味であるが、今後は図録などの形態も変わっていくことだろう。柳の視点からすれば、これは「公共性の向上」である。こうなってくると、逆に美術館に在る必要性が薄弱になっていく。どうせ触れないのである。もちろん、実物の感覚は重要であるが、大半の来場者には必要が無い。ならば、必要な人間に予約制で実物を触れるようにすればいいのである。巨大なハコモノは必要ない。小さな茶室と小さな洋館、それに保管用倉庫が在れば、多くの凡庸な公立美術館は十分に機能を果たせることになる。集約すべきは中核都市に在る良質な美術館が管理すれば、より相関性の高い展示が可能になる。あとは財団法人の美術館で十分だ。無意味な美術館は淘汰されて然るべきであろう。むしろ必要なのは学校教育に於ける良質な美術教育者ではないか。

寒い中での

今日は茶道の稽古。稽古には「稽古用と定めた着物」を着用しているのですが・・・。着物って洋服のコートが使えないから面倒?です。袖が入らない。かといって、おいそれと買うにも御値段しますよね。まぁ、車での移動が多いのでそれほど寒い思いをするわけでもありません。

稽古は花月。台子による花月というコトで、正月らしい?格調の高い稽古でありましょうか。しかし今日は風邪で休まれている方も多く。稽古は8時半から始まるので、朝方に降雪が在ると大変な思いをするわけですが、大雪注意報が継続して出ているものの、滋賀南部域では積雪無し。なんとも助かっております。タイヤチェーンなども購入していないのですよ。怪我にせよ風邪にせよ、くれぐれも気を付けなければなりませんね。

ネタが無いので・・・。う~ん。

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先週に書いた粉引の話を続けましょうか。

粉引は、まぁ粉吹という人も居ますが「粉吹」という呼び名は外観上の呼称に近く、特定の茶碗を指す感じのもの。技法的には白い粉を引くので粉引の方が通りのよいものかと思います。白い焼物は清冽の象徴であり、高級品であり、実際問題としても白い粘土は貴重で、神聖な土の扱いを受けていましたから、鉄分を含んだ土に、白い土を纏わせるという発想は、やはり白への憧憬から来るものです。よって、基本的に白い土に白化粧をするというのは、「脱鉄技術の進歩」によって豊かな白土を扱える現代的の手法でありまして、そのもの「白化粧」と呼ぶべき辺りでしょうか。

ちなみに白い土を使う割に、ザックリとした釉薬掛けを行っているので、「掛け外し」は1つの特徴です。高麗系は、どうも丁寧に作っているんだか、適当に作っているんだか、今一つ分からないトコがあります。白い土を使うのだし、焼成に廻すのだから、しっかりと全体を白くすればよいものを、掛け残した箇所をそのままに、「指でちょっと塗り足す」とか、「ちょっと浸け方が浅い」という仕事振りをやって平然としている。全く、敬意があるんだか無いんだか、雑器なんだか祭器なんだか、職人の根性を疑う様な面白さがあります。

方法としては、別にそのもの、ザックリと掛けるだけです。手抜きの方法は煩雑なので一々書きませんが、別に撥水剤を使ってマスキングしたり、そんな面倒なというか、作為的なことをやる人は居ません。食器作っている人には星型など抜いてくる人が居そうな感じですが、そうなると「デザイン」になってしまいます。ちょっと適当な掛け方をやると、普通に様々な掛け残しが出来てきます。ともすれば何でもかんでも「デザインなの?」と聞く方が居られますが、現代的なものとか、京焼とか、そういったもので無い限り、「抹茶茶碗」に「デザイン」という話は・・・滅多に無いかと思います。

話を戻して。最終的に「製作側の視点を得ること無しに十全な目利きは難しい」と云いますが、要は「撥水剤の景色」(昔で云えば蝋など)の技法と、「適当な釉薬掛けによる掛け残り」の結果差異を知ろうと思えば、もう実経験が無いと始まらないわけです。技法書を漁って見ても、粉引の掛け残し方なんてものは、載ってないか、まぁ載っていても大した知見にはなりません。最終的に、判断を下支えすることになる理知的な部分、頭脳的な判断を強固にしようと想うと、よほど愉しみでやらない限り面倒な話が待っています。

あまり技法云々で判断するのも断片的でありますが、個展会場など様々な場所では、こういった「作り手ならではの知識」を引きだして行くと、勉強になる事も多いかと思います。私も、専門外のコトに関しては聞かなければ解らないことが沢山あります。いくら著名な作家さんでも、やはり薪窯のことを知らない人は、薪窯のことを聞いてくるものです。

逆に専門家というなれば、専門的な知識と経験を蓄えておかなければなりません。
茶道などともなれば、陶や漆などの工藝に、書や能の知識、四季風物に茶花まで。
いやはや、一体「茶人」というものは知識だけでも難しい。

暗記は・・・昔から大の苦手科目なのですよ・・・。

今日も

いや、寒いですね。寒いのは当然なのですが、仕事にならんのですよ。土が凍るので作品も作れないし、せいぜい凍土を作るくらいですが、水道が凍ってくれるので話になりません。甲賀では氷点下の予報が連日に続いています。日射しは暖かいのですけれど、最近は風が強いようで。

乾燥までに一週間以上は掛かるので、その間に一度でも凍ればダメになります。
まぁ、それでも少しくらいは挽いてみましたが・・・。


う~む。やはり例年通り、二月中頃まで待たないと厳しいのでしょうな。

柳宗悦『茶と美』読解。19

『茶と美』読解。19
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⇒初版本第十二章『蒐集について』抜粋と雑感 その2。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

>
道具好きの茶人が、夢中で茶器を探し廻った話が沢山残る。名器に向かっては金子などは軽い物である。大名達にとっては欲しさの前には、お城さえも小さく見えたであろう。ものを愛した気持ちがよく分る。茶器に冷淡では、もともと茶事など起るまい。生活が常識的なら茶事のごとき余計な遊びであろう。茶器など無くったっていいからである。しかしなくったっていいものに夢中になるのが蒐集の面白い点である。人間にこの余裕がなかったら、生活はさぞ冷たいであろう。
>

この議題は面白い。要はなぜ名品が必要で、なぜ茶道が必要か、という話になる。市民楽団がなぜ必要で、住まいに美が必要であろうか、という問題。そも百円均一の茶碗でも茶は飲める。そも、茶を飲む必要があるのだろうか。水ではダメなのか。世の中では断捨理の流行が続いている様であるが・・・。まぁ実際、不要なものは多い。削ぎ落としたものに効用もある。茶室など、必要なもの以外は一切が片付けられた清浄な空間である。捨てるとは、まぁ別の視点で云えば、「本当に必要なものとは何か」という話である。限りなくものを捨てるだけでは、清浄な空間を得る事は出来ない。ここに於ける余裕が何であるか。即ち人々が生活の余裕として愉しみ、大事にしてきたもの。これが、いわゆる文化というものであろう。

>
なぜ要りもしないものを沢山集めるのかと聞く方がある。だがここは「なぜ」というような合理的な道ではない。入り用だから集めているのではない。別に心を惹くものがあるからである。
>

「なぜ,なぜ」というのは、それを口にするにせよ、黙するにせよ、昨今はともすれば合理的理由無しでは納得出来なかったり、また何らかの合理的理由を見出そうとしたりする傾向が在る。例えば「焚き火」の暖かさはどうであろうか。桜の美しさを一々理論で説明するだろうか。昨今は直感というものが蔑ろにされている傾向があるけれど、直感は非常に優れた能力を持つ。頭脳というものは補助機能である。これは丁度、「茶器本体の美」と「箱書由来」の関係に在るだろう。まず直感として感じられる美が在り、加えて頭脳的にも価値を感じるだけの歴史が在る。昨今は頭脳を直感よりも上位に置くような傾向が在るようである。しかし茶道に云う様に、「心を導くのは頭脳」であるものの、これを逆に取れば「頭脳は案内役に過ぎない」という話になる。当たり前であるが、偵察隊と本隊の序列を交換してしまっては、何とも脆弱な部隊となってしまう。闇夜・豪雨の中など、そも偵察隊など役には立たない世界が数多く存在する事は、万人としては恋愛などが代表例であろうが、つまり「理論的に」言っても誰もが経験している話である。

>
蒐集には時として不純なのがある。利益を見越して集めるごときその例である。新画を頻りに買う者があるとしよう。美しさに打たれて集めるならそれでいい。しかし思惑で買う者がある。値が上がるのを予想して集めるのである。絵画を陶器の道具にしてしまう。蒐集もこうなっては下落である。買うものが正しい作であるか、美しい品であるか、それは二の次である。それがいかに高価に売れるかに念慮がかかる。買うことの悦びよりも、売ることの悦びに興味が注がれるのである。蒐集と云うより商売である。それは1つの財産に置き換えられた物品に過ぎない。こんな利己的な意味を出ないものは、もとより論じる価値が薄い。
>

バブル期の茶道具などは典型的である。今でも似たような市場がある。無形文化財の子息や、著名作家の子弟など、これまた「頭脳」に頼って合理的な算段を用いる人は跡を絶たないし、云うまでも無く売り手もここに便乗している。作り手においても、今は数少ない弟子入りであるが、技術が欲しくて行く場合よりも、打算的に著名作家から選択する場合が少なくない。要は「投資と回収」が成立するかどうか、などということを考えている。

金銭の蒐集に悦びを見出す事が世間的に見苦しいとして、その代替物としての高級品を求めるならば、少し辛辣な表現であるが、「金銭蒐集体質」に「虚飾」が加わっただけで、それは尚一層に病的である。この病的な習慣を煽り立てて金銭を得るものが居れば、この病的な商関係に便乗して作品を高額にする作家も居る。バブル期の茶陶を見れば、どうにも毒された著名作家が多いことに閉口せざるを得ない。聞くならく、富裕層が熱狂していた一方、茶人は冷徹で在ったとか。今の茶道には人間国宝の作品が登場する機会が極めて少ないのであるが、まず以て、立花大亀老師がこの毒された制度を批判している。同じく、柳もこれを批判しているのであるが、現実は虚しく、民藝創設の友である河井・濱田氏も、理解者であった富本も、「価格高騰の狂乱」に参加していくのである。

一息。

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今日は事務仕事。作品の写真を撮ったり、ハマ擦りの仕事をしたり。

漆教室の翌日は・・・少しだけ痒い。僅かに赤味が挿す程度なのですが、微妙にジンジンとしているので、何となく不機嫌?というか何と云うか、痒く無いのであるが、痒いというか・・・。漆に少し触ったくらいでは腫れなくなったから、ついついと、ゴム手袋を省いてしまうのがいけないのでしょうよ。

んで。毎度痒いと思うのですが・・・。忍耐って難しい・・・。
道徳は理論よりも実践と言いますが、痒いのって・・・辛いですよね。

で、まぁ一服したり。数茶碗は数茶碗としての好適寸法が少し違うという辺りでしょうか。とりあえず点て具合くらいは確認しておく必要があろうかと思いつつ、端数の茶碗で試してみます。最近は少し、家で抹茶を点てておらず。正月廻りでは両実家などでも点てて回ったもので、以降はミカン箱に仕舞ったままでありました。

今日は冷えました。今日は工房へ行っていないのですが・・・。
まぁ・・・多分・・・、現状の乾燥途上のものは全滅でしょう。

冬は仕方が無いです。それだけ雪解けが待ち遠しいもの。

うるしうるし

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今日は漆。いつものように読書。京都駅前の檄安チェーン店ですよ。
オススメを頂いたので読んでみました。先日の某情熱番組もそうですが、
無駄に刺激的なタイトルというか、肩書を付与するのはマスコミの悪い癖。
他流ですが中身は千家の茶に関する話でありまして、学ぶところも多く。

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先週に引き続いて、新しい店の発掘作業。
千円以下のランチですが、探せば色々あります。
徒歩では兄の店に行くのも無理がありますので。

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午後から漆。金継ぎなどなど。本仕様の道具と、手抜き仕様と。
よく紹介されている真鍮粉は安いわけですが、本職さんは値段
的にも1000倍?近い本金を用いて色々とされます。
漆工程を色々と学んでみると、視点の違いは第一に耐久具合。
つまり、外見上では判らないものが多く含まれている。
表面に見える漆や、金の下に隠れているもの。
ここに手間を掛けるのが漆の作業。とっても細かい・・・。

んでも、「高台は見えないトコだから、気にしなくていい」
というような、陶芸とは正反対の根性も在ったりするようで。

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ともあれ、今日は寒い風が吹いておりました。
和ろうそくは風にも負けず、煌々としておりましたか。

新年会

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今日は昨日の焼成分を検品。バリ取りの作業も残ってます。
土作り⇒ロクロ成形⇒高台削り⇒検品⇒白化粧釉薬⇒灰釉薬⇒窯詰⇒焼成
⇒検品⇒採寸⇒桐箱発注⇒バリ取り⇒洗浄乾燥⇒桐箱梱包⇒箱書⇒出荷

書き出してみると、割合に手間が掛かっているのですね・・・。

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今日は地元新年会。集落的な各家長による新年挨拶会でしょうか。
茶道にしてもそうですが、どこへ行くにも最年少でやっております。
支部の初釜と日程が被りやすいのですが、今年は被らず幸運なことで。

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食事後はグランドゴルフなども。昼前から四時頃まで。
ボチボチ、愉しく好い運動でありました。
 ちょっと・・・食べ過ぎ・・・。

え~っと。明日の漆教室も終日でありますから、貯まっている仕事は火曜辺りに
処理していく予定であります。

今年の初焚き

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今日はガス窯。茶碗の窯。一回の焼成で25碗に相成りますが、数個程度、原土に起因する不良が出るので、見込みとしては20碗辺りが目安でしょうか。これでも、ガス窯としてはかなり小型です。

今日はガス窯を詰めつつ、薪の仕事をしつつ、粘土を作りつつ、タタラ作業をしつつ。
色々で忙しくしておりました。

あとは焚き上げるだけ。気温が昼間で1~2℃。焚く分には好いのですが、
少し急冷になるのが冬場の特徴でしょうか。

初稽古

今日は茶道の初稽古。天気は朝から雨でありましたが、冬の雨は少しだけ、どこか温かいような気がするのは何故でしょうか。まぁ、実際に朝晩の冷え込みが抑えられるという事もありますが・・・。

初稽古は基本の薄茶・濃茶に加えて、大炉の稽古を付けて頂きました。新年第一の訓示は「禅定の客」という講話にて。初稽古では昼食に雑煮を皆で囲みました。ありがたいもの。今年は様々に行事もありますれば、張り切って参りましょう。茶道もまだまだ初心でありますれば、学ぶこと、実践すべき事は山の様に待って居ります。


そうそう。
稽古場にては拙作の粉引茶碗も用いて頂いているのですが、
粉引という技法には、皆さんなかなか、得心が行かない様で。

先程に釉薬を掛けていたので、写真を撮ってきました。

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まず、これが土の状態。ロクロで挽いたもの。昨日に挽いたものです。
ちなみに建水の試作品です。依頼によっての薄挽きで、2mmくらい。
径は18cmくらい?でしょうか。微石が混じっている原土。ここらが限界
辺りかと思います。磁器の様に削れば1㎜まで薄くなりますが・・・。

18cm径のものを2mm厚で挽き上げるのは、それなりの技術が要りま
す。出来ない職人さんは、数十年来のベテランさんでも出来ません。
ま、薄挽き技術で感動出来るのは訓練校生辺りくらいなものでしょう。

強度的な実験作ということになります。

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話が飛んだので戻します。これが「白化粧」。釉薬みたいなもんです。
白い粘土が原料となっていて、鉄分の多い土に用いるのが原則。

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で、更に透明釉薬を二重掛けします。乾燥後に二重掛けしたり、乾燥前にしたり、
はたまた素焼きをしてからしたり、色々なやり方があります。主に木灰が原料。
ちなみに今は真っ黒ですが、焼成後は透明になります。

細かいトコは関係無く、総じて「白化粧+透明釉」を「粉引」と呼びます。


しかしまぁ・・・釉薬の乾燥が遅いので仕事が捗らない冬の日であります。

柳宗悦『茶と美』読解。18

『茶と美』読解。18
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⇒初版本第十一章『染と織』省略
⇒初版本第十二章『蒐集について』抜粋と雑感 その1。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

>
この世に蒐集を好む者はいたく多い。私もまたその1人である。だが省みると蒐集を深めることはそう容易ではない。そこには多分な心の準備が要る。人は物で蒐集を考えるが、物を左右するのは心である。物だけでは蒐集にならない。そのためか、良い蒐集は案外少ない。(中略)中に二つの主要な問題がある。蒐集は所有することであるから、第一有ち方の問題が起る。正しく有たずば有たないに劣る。次に集めることであるから、選び方の問題が起る。誤まって選べば選ばないに等しい。これらのことへの考察がこの小編の骨子である。
>

蒐集。製作というものも、自らの作りたいものを作るという観点に於いて底通するものがある。骨董屋にしても、またその辺りの陶器屋にしても、また料理屋へ行ってもそうであるが、「どのような器が使われているか(展示・蒐集されているか」というものには一種の傾向が見て取れる事が多い。これは茶会などに於いてもそうであろう。「人脈や運が必要な名品云々」とは別の部分で、蒐集主の嗜好を見てとる事が出来る。

例えば、如何に豪華な家具調度品を集めたとしても、では玄関からの飾り付けを見れば、何か感じるものがあるだろう。全てが有用に、また美が調和されている様なれば愉しいが、全てを美術館の如くに並べていれば自慢たらしく感じるものであろうし、雑然としていれば「集めるだけが趣味か?」という疑問が湧いてくる。

蒐集は金銭に拠るが、互いに調和するものを取り揃えたり、またそれを巧く活かすだけの感覚を養うのは難しい。そういった意味で、蒐集の奥深さというものには限りが無い。これを深めないままに、金銭に明かして高額品や名品を買い集めたところで、人間は容易に見透かされてしまう。例えばどうか。「簡易で済む様な用途に人間国宝の品を使う」などというものには、「金銭価値観の麻痺」でしかなく、「美的価値の活かし方」という教養に欠けたる人間であることが喝破されてしまう。

物は物であるが、物にはかように「心」が反映される。

物を選ぶにしてもそうだが、「物」に「心」を合わせるのは初心の話。「人間国宝の品」は「好いモノだ」ということで、己の視点を冷静に見る。やがて「心」に「物」を合わせる処へと進むことになるが、未熟なままに進むと「人間国宝のモノ意外はダメ」とか「機械製品はすべて堕落の産物」とか「伝統の無いものは底が浅い」などの「呪縛」を遺したまま成熟してしまうことになる。

集めたものを「一個の群」として成立させる道程は、遊びの蒐集なら話は別だが、やはり本気になって蒐集を行う段となれば、非常に難しい。長次郎黒楽1つでも、活かし方を身につけ、それを主体とする「脇役」も揃えて行く。この辺りに「教養」もあろうし、「好みの表出」がある。茶道の取り合わせというものも、本来は自己所有物を用いるわけであるからして、突き詰めれば「心」と「教養」の問題に帰結する。

第十二章『蒐集について』は比較的長文の議論にて、上記の問題についての「正しい蒐集とは何か」という旨の論述が行われている。

休憩。

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今日は休日扱いであります。
オヤツに白玉団子。小学生の頃に調理実習で作りましたか。
嫁さんに聞いても「作った」と言ってましたから全国共通?
小学校でやるものも、実際にはなかなか作らないような・・・。

加水混練⇒茹で上げ⇒冷水に浸ける。

何とも簡単な仕事であります。材料もモチ米粉ときな粉。

う~ん。安くて簡単、素朴。誰でも作れる。だからって馬鹿に
したものではないようで。高級菓子も美味ですが、こんなもの
も愉しいです。 利休さんの理念からすれば、現代の茶菓子と
して立派なものかもしれません。客が来てからでも間に合う。

盛り付けは伊賀板皿に本象牙の菓子楊枝。
象牙は象牙職人さんに安く分けて貰ったもの。

も少し上品に盛れば、なかなか嬉しい感じかもしれません。
(ちょっと我田引水気味?)


う~ん。鉄釉辺りで久しぶりに板皿でも作りましょうか。

柳宗悦『茶と美』読解。17

『茶と美』読解。17
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⇒初版本第十章『工藝的絵画』より  抜粋と雑感 その五。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

>
美しいものがわずかより生まれず、しかも高価に陥ることはいかに人間の幸福からは遠いであろう。吾々は美を多く生むためにさらにまた一般の所有とうるために、新しい道を考えねばならぬ。ひとりこの求め二応ずるものは絵画の工藝カではないだろうか。なぜなら多と美を結ばしめるものは美術ではなく工藝だからである。工藝性と社会性とは1つだともいえる。1つでなければいまだ充分工藝的なものとはいえぬ。だから私達は次の様な希望に燃えていい。(中略)進んでは多く描くことで、美をさらに深める道へと出ねばならぬ。そうしてさらに工藝的性質において、絵画がその機能を最も充たし、かくして最も美しい絵画に高まることを信じていい。
>

第十章の末文。事実、唯一性・稀少性というもの。多く、ここでの絵画にしてもそうだが、陶芸においても、「量産が可能なもの」を、「商売上における打算的事情によって量産しない」ということが、常識的に認められている。もちろん、例えば伊賀焼に於ける窯変など、「製作上における必然的事情」であれば別であるし、京絵など「必然的に手間がかかる時間的事情」などもある。全てを断罪するような所作は話にならないが、例えば人間国宝クラスの品々としても、中堅作家の仕事にしても、現代の多くはガス窯であり、本気を出せばまぁ、抹茶茶碗を一日に数百挽くことが容易なのである。まぁ、さすがに品質に問題が出るとしても、一ヶ月に100碗くらいは余裕をもって製作が可能。熟練の職人は一日に1000碗を挽くのであるからして、これくらいは妥当な線だろう。

もちろん、造っても売れるわけではないし、実際にこれを実現させると中堅作家の売上を食い潰してしまうわけで、徒弟制の復活など様々な改革が必要になる。まぁ、とりあえずそこは置いて、冷静に本来の姿を考えてみた時、現代式の、特定富裕層にのみ供給されているという現実は、やはり疑問を感じる。おそらく、売っている本人も感じていることであろう。そういった本義の部分でこれを実践に移したのは、譬えば半泥子や上口愚朗の販売態度であろう。個人譲渡を基本として、売る場合はべらぼうな高額。此の手の噛み付き方と別に、大人としての所作は魯山人の量産式販売であろう。これら三人は一様に人間国宝制度を批判しているわけである。安価で売り渡せば高額販売で儲ける人間がうろついてくるのは厄介な話である。作品は料理のため、茶のため、己のためのもの。「換金物」としてされることの拒絶。一方、桃山系にしても、また民藝派の巨匠でさえも見事に「稀少製作・超高額販売」を行っているわけで、現代までこれが主流派である。

今はまぁ、誰もが「高額化」=「好いコト」と考えている節がある。

創られた常識。現実に即して製作側も否定することは難しい。別に人間国宝保持者といっても、偉そうにしている人ばかりでもなく、普通に会える人も多い。人柄も好い人が多い。販売を商売人に任せているという辺りが多いのだろう。高額化には百貨店や画廊など「商売者」が介在する。昔からこの業界は、製作者よりも、その商品を転がす人間の方が数倍の利益を得ている。

「社会性」という点に於いての問題点。著名作家のものは富裕層へ、一般作家のものは中堅家庭へ、機械量産のものが一般家庭へと流れているのが現状。しかしまぁ・・・機械量産が普及して、果たして人々の美的感覚を隆起するだろうか。むしろ喪失させるばかりであろう。実質的に人々は機械量産品しか手にしていないことが多い。高額化の問題と同時に、此の手の過剰廉価の問題もある。器の価値が喪失し、飯椀を割ったところで、大して怒られる事もない。器を割らぬよう大切に扱う心を失わせている。そりゃそうだ。実際、「自然の恩恵(自然産物)」でも、「お百姓さんが作った御米(手作り)」でもなく、「化学的な合成食物(機械量産)」なのだ。神仏も人情も無い所に道(仏心)の生じる道理は無い。

色々な問題があるけれど、どれもが複雑怪奇。
柳の指摘も正しいが、修復はほとんど不可能にさえ見える。
美術教育から始める必要があるだろうし、そうなれば数十年単位の仕事。
現状を壊滅的と見るならば、それくらいの年月は当然のもの。

困難を承知の上で取り組んでこその理想であろうか。

漆も始めました。

今日は今年最初の漆教室でした。去年に完成させた根来塗の箱、柿合塗の棗など。しかしまぁ・・・難しいものですな。基本的な部分、ホコリ云々にしても、非常に丁寧にやらねばならんという事が、完成品をいくつかこなしていくと、まぁよくよく判りました。塗ればエエってものではないということで。金継ぎ1つにしても、書籍などで簡易に紹介されているものとは次元の違う感があります。

あぁ、さすがに教室的作品は、自己満足としても厳しいモノでしたが、光源1つでも漆の表情は随分と変わるという話。教わったことをペラペラと書くのもどうかと思うのでココでは書きませんが、漆の十全な美しさを見るに於いて、光源はとても大切なのだそうです。いつか?茶室を作る際には覚えておくべきことでしょうか。

あ・・・写真が無いので漆の話はこれくらい。

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午前中は本願寺などでゆっくりさせて頂きました。
月曜日は美術館は休日なのですが・・・

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こちらのギャラリーは開いてます。テーマにピンと来ました。

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本願寺とは、即ち一向一揆門徒衆。中世の大衆動向に欠かせない重要事項。即ち利休時代の時代背景として、絶対に外すことの出来ないものであります。西本願寺では750回遠忌の最終日で在ったという話でありますが、本屋でも親鸞の書籍が平積みされておりまして、小生も読まねばならんなぁ・・・と想いつつ。 ともあれ勉強すべき歴史事象なのです。

もちろん、利休は禅宗でありまして、当時としては武家を中心とした上流階級の宗派。しかし思想的に根本が仏教である点は同一でありまして、原点回帰をする程に宗派の差は影を潜めてしまうことになりますし、現代よりも宗派は混交しています。他宗派の信仰も多く見られる時代であります。

文章は展示の一部。庶民はこの当時、もちろん農耕は技術未発達である上に、戦乱による刈り取り強奪、焼き払いによる土壌破壊が行われておりますから、狩猟や漁業は重要なもの。まぁ現代としても、自分で家畜は殺さぬが、肉は大好物というのが一般的な話でありまして、この当時も、仏教的には動物愛護という観点から屠殺業を蔑視していたらしい。国民全員が仏教徒なればこそ、動物愛護は常識的感覚であったわけでしょうか?実際には火縄銃が広く猟銃として流布したという話もあり、戦国の世は未だ謎の多いものである様子。

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も1つ。少し抜粋すれば、「難しい学問や厳しい業をすることができる人は限られているのだから、そういった事が必要なのだとしたら救われるものはごく少数になる。そうではなく、男女貴賎を問わず、日々の暮らしの中で誰もができる念仏こそが阿弥陀如来が選びとった業である」という現代訳があります。これは何か、現代の工藝における高額傾向、芸術指向に対する問題提起と感じる側面もありましょうか。限られた富裕層だけが、人間国宝なりの数百万の器を求めることができる時代。それが最高の工藝の理想世界でありましょうか。 「日々の暮らし」という面では、工藝では民藝運動がこちらの方面。芸術指向に偏重することの問題点。

利休は禅方面ですから、一種の貴族的な側面がありましょう。抹茶ってのは高級品。しかし同時に、竹花入には「男女貴賎を問わず、日々の暮らしの中で」という性格があるやに感じます。もちろん禅的な解釈から来るものと推定されるわけですが、曜変天目などの高価なものを主体にすることはなく、瀬戸天目など和製量産物への流れを形成していくわけですから、高級志向的権威主義に対する一種の反逆と解釈すれば、浄土真宗的と見ることも出来ます。文章のように「難しい教養や厳しい修行を経ていない人」にも、「茶の道」を感じられる世界。そう、「誰でもが楽しい」というような「享楽」ではなく、誰もが「救われる」=「人間の道」(仏道)を目指すという理想・思想は、この当時、庶民に流行した浄土系宗派の思想にも底通していることになります。

現代的にも、千家には比較的保守的な表流、大衆への隆起を担う裏流が両輪として在るわけですが、利休には禅的な理念昂揚に加えて、茶の大衆普及性を思考していた可能性もあるのでしょうか。茶道の大衆化に於ける「南方録」的な「末世観」が真実か、後付けであるかは別として、日本における末世思想は中国発の仏教思想に連なるものですから、もちろん念頭に無かったわけではないだろうと愚考してみるのであります。。

まぁ、実際には宗教理念というものも、なかなか庶民には浸透しなかった様ではありまして、現世利益的な目的の者も多かった?のかな。一向一揆の歴史などを概観するだけで、随分と難しい話、ややこしい話が多いようで。理念の具現化というものは至難ということでしょうか。

んでもまぁ、禅も浄土宗も、真宗も、仏教は仏教です。解釈の違い?であるし、法然さんも他宗批判を禁じてます。庶民も、一向宗の信仰者が、同時に他宗派に属したり。大名も同じで地元仏寺の菩提寺あり、禅寺大徳寺の菩提寺ありという様に、複数の加護を祈念していた時代。なのでまぁ、当時のキリスト教流布にしても、信仰する神様が1つ増えただけというか、その様な側面もあったことでしょう。時々、「利休はキリシタン」みたいなトンデモ流言飛語がありますが、多宗教の理念が混在している方が、利休時代は常識的感覚でありましょうか。

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そうそう。門前には私の作陶における基本原則の言葉も在りました。
工藝だけではないのですね。

寺院は観光資源ではありませんし、仏像は美術品ではありません。
どこぞで覚えた話、「祈りを失った仏像」は「単なる彫刻作品」である、と。
仏教は茶道の親でしょうか。今少し、宗教を正面から感じるべきか。


とまぁ、色々と思索を飛ばしつつ寺院の暖かい休憩所で読書していたら、突然に講和が始まったので早々に退散してしまった小生であります。しかしまぁ、まだまだ勉強すべきことが山積みの様で在ります。

2012初茶会

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さて、今日は一門初釜会。年の茶道始めという辺りでしょうか。
今年は案内役として。来賓の方々を始め、一門の皆さまを御案内。

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濃茶席・薄茶席。軸は三条実朝?によるもの、茶杓は不見斎による「丹頂」。
茶碗は左入にて吉祥の銘にて、次碗が三嶋で山翁、三碗は姥ヶ餅で長生。
釜は与次郎の阿弥陀堂にて、皆具はなんと御深井であります。
美的には茶入が非常に秀逸にて、景色も形も素晴らしい翁形の瀬戸茶入。

一席目にて、宗道先生の点前。ありがたい一服でありました。

烏帽子に翁、姥?・・・。能の演目・・・?などと思ってみましたが、勿論無知なもの。
検索すると・・・「翁烏帽子」にて「春日龍神」という能がある様子。
さてさて今年は辰年で御座いますが・・・?。

また茶杓の不見斎ですが、京都・天明の大火から復興を成し遂げた九代御家元。
色々と感慨を受けた方も居られたのではないでしょうか。

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午後からは宴席。210名の一門各位。沢山の教室がありますから、
御世話になっている方々も沢山に。


今年も茶道が始まります。さてさて、どうぞ宜しゅうお願い申し上げます。

柳宗悦『茶と美』読解。16

『茶と美』読解。16
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⇒初版本第十章『工藝的絵画』より  抜粋と雑感 その4。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

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すべての画家達は将来次のようなことを考えるべき義務が当然起こりはしまいか。一枚より描けずまた描かぬ絵に仕事を止めていいか。美しければ一枚ぎりでもいいともいえるが、同じ美しいものが沢山描けたらなおよくはないか。(中略)美しい絵はざらに描けるものでないというかも知れぬが、それは描く道に何か欠陥があると考える方がよくはないか。もし事情が変われば一枚ぎりの絵というようなことが、却って不思議となりはしないか。唐代に有名な「樹下美人」の図がある。どんなに美しくとも沢山描けた絵であった。またどんなに同じ図柄でも皆美しかった。一枚より描けない民画というものはない。
>

鋭い指摘であろうか。別に何枚だって書けるものは多い。著名になるほどに、貨幣価値を高める為、という場合が少なからず存在する。茶碗もそうであるし、御高僧の軸にしても、また茶杓銘にしてもそうである。1つ限りと見せかけて、複数存在する場合は珍しく無い。といっても大量生産とはならない。茶道具の名品の多くは、「手作業範囲の量産」に拠るものが多かった。陶芸にしても、また茶釜や棗にしても同じことであろうか。唯一性というものがどこまで重要視されたかと云えばどうであろう。信楽が流行すれば、信楽を取り寄せた様に、侘びなら侘びという様な中で、一種バブル時代のブランド品の様に、大量消費行動が在ったかに思ってしまうほどであろうか。元より、「沢山ある」という事が、むしろ好まれる場合もあるだろう。竹花入にしてもそうであるが、利休作としても、まず「美的価値云々」というより「ありふれた魅力ある自然素材の採取」という側面を見るものであろう。山海珍味を貴ぶというのは、やはり異質のこと。

珍しいものは珍しいもので珍重するが、それに囚われてしまわない事であるかと思う。逆に言えば、好いものが出来て、それが量産出来るなら、量産すればよいという事になろう。もちろん「中庸」が肝要であるからして、機械の様に量産して業界を潰す様な真似は「過剰」であるわけだが、一点主義というのも同じく、貨幣価値に重点が「過剰」であろうかと感じる。まぁ量産が不可能なものもある。それにしても人間の手作業範囲というものは、なんともよく調整された節度を守ってくれる。「手の届かない仕事をするな」という言葉は意外に重い。

>
近代において個人的絵画は異常な価格を求めた。稀有な天才の所産であるから当然なことともいえる。これにつれて画家の存在も特別な人間といて取り扱われた。あらゆる自由、時としては奇癖や不徳さえも画家に許された特権の如く考えられた。しかしかかる位置は必然なものであろうか。画家もまた社会人たることにおいて変わりはない。なぜもっと尋常な人間であってはならないのか。尋常なことが作物を低下せしめるだろうか。近代の絵画の欠点は病的なことにありはしないか。健康な美が見失われたことにありはしないか。
>

本質的には好い人間が多いので少数派である。しかし最近も同じくであるが、陶芸家が芸術家扱いされる様になってより、勘違い陶芸家は居る。若い作家でも礼節を外した人間が多々在る。まぁ「金銭的貧困による欠礼」は勘案して頂くとして、それでも目に余る行為が在る。やはり職業選択のせいであろうか。商売上の愛想を除いた場合、一個の人間として自己顕示欲の強い人間、また自己陶酔・他者見下し型の人間の割合は高いように思う。しかしまぁ、実際には世間一般の割合から、少し偏在が認められる程度であろう。人間的な基本性格は別として、鼻持ちならないのは特権思想。「俺は芸術家だから」というような特権思想というものは、およそ作品や活動に現れている場合が多く、やはり忌み嫌われて然るべきものだ。

最終的には一個の社会人として、まず普通に断罪して然るべきものは、断罪すればよいのである。先の例の他、「あらゆるものを犠牲にしてまで製作を」というような無理は、いわば「仕事人間」でしかない。やはり人間的に問題があろうかと思う。普通の人に使ってもらうものである。人として平易に暮らして、その手の届く範囲の仕事に作品の製作も在るべきだろう。更に言うなれば、”一個人として”平凡な人間よりも、高尚な人間を目指すべきである。なればこそ、高尚な人間に過剰な自己賛美は害毒。よくよく自戒が必要だと想っている。「高い特権思想」と、「高い人品風格」というものは、全く内実は正反対であって、肩書と本質の違いであろう。「芸術家は狂ってこそ」などという話もあるが、「最初から狂人を目指すような人間」では「上っ面の狂人」でしかない。「誠実」で製作を突き詰め、「結果的な狂人扱い」と捉える方が正確な理解だと愚考する。「手の届く範囲の仕事」の類似に「地に足のついた仕事」という言葉が在る。 つまりはこの事であろう。柳の云う「健康の美」の示す意味に同じである。

寒日。

一昨日に雪降らんなぁ・・・と書いていた時間に降っていた様で。

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昨日は初積雪。

雪が降ると・・・降ったその日は大丈夫ですが、

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翌日の快晴の日が最も凍りやすい日になります。
放射冷却。基本的に曇っている日は大丈夫です。

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夜中に暖房と火鉢を付けておいたので、何とか凍らず。
ムロ設備がある人は、白熱灯を付けておくって聞きますね。

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無事に仕事が出来たので安心。しかし来週まで寒いのかな。
見込みが弱冠広めなので、井戸形とは少し離れた形。

そういや釉薬も凍ってます。何か影響ってあるのかしらん。
釉薬を少し暖めると初期乾燥が早く進みますね。

ともあれ、冬の仕事はゆっくりです。

柳宗悦『茶と美』読解。15

『茶と美』読解。15
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⇒初版本第十章『工藝的絵画』より  抜粋と雑感 その3。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

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工藝的なるものは必然に非個人的な性質を帯びる。個人が支えるのではなく、多くの力が交わるからである。だから無銘である。一人の天才の所業ということができぬ。かかるものを作る者は多く、誰が何処でどう作ろうと、大方は同じ度の美しさに達し得たのである。だから光るものは非個人的な美しさである。なべて工藝的なものにはこの性質が多い。個人の仕事に止まるならいまだ充分に工藝的なものに達していない証拠ともいえる。元来工藝の道は個人の道ではない。だから工藝的なものは非個人的な美しさへと入ってゆく。ここで、何もすべての個人的な作が醜いというのではない。
>

非個人とは、工房作品を指している。個人のアクが強いものというのは好悪を呼ぶ。宋磁の多くは工房作品であるし、長次郎も工房作品である。しかしまぁ、ロクロを挽いたのは当然に一人であり、優劣も存在するわけであるからして、なかなかに線引きは難しい。長次郎にしても、好いものと、それほどではないものがある。これが作陶者による差異であるならば、やはり個人の才能というものは無視することが出来ない。桃山陶磁に関しても、渡りの熟練工が居たとする説もある。当時存在した奴隷市場による職工の売買にしても、様々に交流の経路が存在したであろう。あまり工房だから好い、個人だからダメ、という点に捉われても仕方が無い。特に現代の工房作品というものは、あまり宜しく無いものが多く含まれている。

むしろ美というものを考えるに於いて重要なのは一期一会であろうか。茶会は亭主が仕切るものであるが、客が悪くては如何に苦心してもこれを得ることは出来ない。客が如何にスゴイ用意をしても、これを受け取る者が居なければ話にならない。そういった意味で、茶の世界は1人で至高のものを用意する事は不可能という結論になる。同じく、工藝品も道具である。広く捉えれば、これも単一で存在するわけではない。飯椀なれば、飯と共に在る。茶碗なれば茶と共にある。伝統的な道具というものは、まず用途を思案しており、その意味で主従の転倒もなく、無事に調和を達してくれるものが多い。個人、非個人という観点を、少し角度を換えてみることで、一つの示唆になるであろうか。

>
なぜ民画(大津絵、小絵馬、泥絵など)が工藝的な美しさお有つに至るか。第一それは個人に所属する絵ではない。描く者は無名の画工である。もともと個性の表現など志す彼らではない。だから天才のいない世界だともいえる。画工は1人ではない。類した工人達は大勢居たのである。一枚の絵に家族の者達でさえ手伝ったであろう。事に慣れれば誰でも携わり得た仕事であった。それのみではない。画題さえ一定のものに決まっているのである。だから同じ絵を繰り返して描く。なぜこんな平凡な事情からよく美しい絵が生まれるのか。下品の絵と謗られはすうが、却ってこのことが作者から妄念を取去るともいえよう。一番至純な姿で民族の信仰や道徳や情操がしみ出ている。
>

現実的には少し事情が違う場合もあるし、そうでない場合もある。現代とて、京絵や染付辺りは作家自らが描く事は少なく、差配するだけという場合も少なく無い。著名な作家作品にしても同じ話は普通に存在する。名前を冠しては居るが、職人が作っている場合は多々在る。逆に「〇〇工房製」と云っても、職人頭の1人が根幹部分を取り仕切り、単純作業だけを割り振っている場合も多く、実質的に1人の職人による作品に近い形の工房作品も多く存在する。また、例えば漆芸などは漆を塗る作家と、蒔絵を施す作家は別である。京焼にしても多くはロクロ職人と分業である。窯だって、まぁ誰でも焚ける様な窯を用いる場合も多い。具体的に見る程に、この手の理論が全く現実には通用しないという事を感知することが出来るであろう。

かつての名品には、至純な人が、信仰深き者が、道徳情操に優れた者が製作したのではないかと感じる側面がある。それこそが民藝の本質的な美であり、柳が主張したいものであろう。それは別に感受性という問題ではなく、単に仕事振りを見た上での話で判じる事が出来る。簡単に言えば誠実な仕事の跡が見えるのである。しかし工房とて誠実とばかりは云えぬ。裏事情を云えば単純では無く、不実な人間だって多く居る。結局は個人にせよ工房にせよ、それ自体が持つ性格というか、雰囲気に帰結するであろう。柳の知見不足を補って修正するとすれば、「名品というものは誠実な風の吹く工房や個人に生まれるものであろう」と、愚考・我田引水してみるのである。

論者:近江の苔

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。かつて古伊賀が焼成された集落に近在。詳細はWeb・交通案内記事など。

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