年の瀬

あぁ・・・。風邪気味です。いかんですよ、これわ。毎日大根を半分くらい消化(消費)しているというのに・・・。ちょっと休養を摂らないといけません。

茶会。

今日は楽志会の開炉茶会。水屋で餅を焼いておりました。

席は翠巌老師軸に宗旦茶杓を軸とした開炉席、薄茶席は紅葉と松竹梅の茶人正月席でありましたか。今日は色々とあったので、帰宅後すっかりと疲労で寝込んでしまいました。目覚ましで起床して、今から地元の常会(月例連絡会)です。

う~ん。最近ダメ続きです。昔からの読者は御存知、ダメな時はこんなにダメか、というもので、何もかもが巧く運ばない。ここ1~2年はあまり無かったのですが、一ヶ月来、調子がかなり悪い。以前の記事を読んでおられた方は御存知、怪我が無いだけ好いモノの、田村神社に行って神頼みするくらい悪いのです。ともかく家に籠っているくらいしか仕様が無い。3日前ほども気分転換に紅葉を見に散歩へ行ったら、見事に土砂崩れ。道が途絶されてましたか。書かないものが色々と。非科学的ですが経験則。ともかく動くほどに泥沼に陥る時節が時折に在り、色々なものを失うコトも。今日は気合いを入れ直す予定だったのですよ・・・。


もぅしばらく、大人しくしています。

増量中。

昨日に引き続いて薪の作業。今日は比較的暖かい日でありました。

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これでわ判らないので・・・

makiokiba.jpg昨日⇒ makiouryou.jpg 今日

という感じです。

窯焚きの使用量は4列~5列くらい。積み方などにも拠りますが。
基本的には杉。間伐材とコア材。あと松、雑木。少し生木も多い。

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こっちの松は完全な生木なので。2~3年くらいは寝かせます。
窯焚き最終日に搬入して、今日になってようやく屋内収納。

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そろそろと秋も終わり。椎茸の収穫が最終便という感じです。
原木椎茸。これも2年寝かさないと生えて来ないのです。

つくづく、人は「分刻み」ですが、樹木は年輪宜しく「年刻み」ですね。

晴天

今日も好い天気。

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午前中は古いストーブの芯を取り換え。解体清掃。昔の機械は単純なので、素人でも多少修理が可能。昭和50年代の代物が二つ。私が産まれた頃のものですが、常に現役で働いていたもの。ちょっと昨年辺りから色々と怪しく、芯を交換しないと駄目になってしまって・・・・。で、芯は市販されているものの、型式が判らんので解体して現物確認。

う~む。さすがに交換するストーブの芯が売って無い・・・。

互換出来るものがあれば大丈夫らしいのですが、さてさて。

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午後からは薪の仕事。この手の仕事は一人でやっていると寂びしい感じなのですが、人数が多いと調子も出ます。写真の手前部分まで一杯にする必要がありますから、まだまだ補充が必要です。


あ。告知が無いので大丈夫と思いますが、明日・明後日のロイヤルオーク楽志庵茶会。今年は茶陶展は御座いませんので一応に御知らせを。月曜日は水屋入りしております。

来年辺り、また機会が頂戴出来ると好いのですが・・・と、思っております。
今年は作品全般に亀裂も多く、漆の習得など、地力の向上です。

日和と日陰。

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今日は天気も好いので、縁側で器の処理仕事。水漏れ検品なども行います。難しいわけではないものの、迂闊な処理をすると駄目にしてしまうので、気を遣ってやらねばなりません。日の陰りが早いので、日陰になってしまったら引き上げ。日陰になると寒いんですよ。多分ですが、今日の朝方など、場所によって薄氷が出来ていたのではないかと思います。

今作は、かなり荒い土を用いたので、「割れ」による水漏れは少ない一方、「浸み」が少し強い様子。全体的にやはり手当が必要でした。細かい土を用いれば、「亀裂」という結果になり、粗い粘土を用いれば「浸み」という結果になります。頃合いが大切なのですが、土の選択は土味が第一でありまして、頃合いを第一に持ってくるのは「量産の御仕事」になってしまいます。薄く挽ける粘土を用いるなども、磁器や食器、茶道具では茶入とか、そういった類の場合でしょうか。

ともあれ・・・結構な粉塵が出るので、作業服も真っ白。

グイノミなどの小品がようやく終わった辺り。

最近は晩御飯も鍋続き。今日は煮込み料理でも作りましょうか。

器の価格。

午前中は事務仕事。今日は風が強いです。ついでにブログを書いてしまいます。

器の値段。

原材料費ってのは、およそ工芸品は安い。陶磁器に関わらず、広範に及ぶものの大半は同じもの。大半は人件費であって、喫茶店のコーヒーほど安くありませんが、やはり大量に作る程に安くなっていきます。この辺りの原材料費は、景気・不景気に関わらず、あまり変動していません。昨今は逆に廃業する材料屋さんも出ているので、高額化する場合があります。例えば薪窯の薪材などは安くなりません。逆に高くなる一方です。ガス窯のガス代も高額化しているし、灯油も同じ。天然灰なども製造者の減少によって希少化していることでしょうか。

それを加味しても、陶器の値段は随分と下がりました。何度も書いているので手短かに書きますが、市価で50円というものも普通に在ります。100円はよく知られたもの。300円も出せば、およそ必要なものは手に入るし、500円出せば土鍋も手に入ります。伴って、作家作品にしても、薪窯作品でも非常に安価に流れ、ガス窯なれば飯椀でも300~800円程度に低廉化。もちろん、一部の一流作家は高額ですが、しかし売れているかと云えば別の話です。もちろん、手に入れる場所などを知らねばなりませんが、普通一般の人が満足する辺りのものは、まず2000円出して買えないという事は少ないでしょう。低廉化は、ここ数年で見る見る内に進んでいます。

限界価格。元より、芸術稼業というものは人並みの年収には程遠いもの。アルバイトしながら、限界価格で提供する若手作家。本来、原価には人件費を含んで計算するものですから、人件費の部分は奉仕活動。値付けの原則から云えば「原価割れ」の状態です。原価を割り込んだ価格設定をしても、尚一層の値引き交渉があり、購買の絶対数も減少の一途。背水の陣を以てさえ、如何ともし難いのが現状です。

また現状、底値50円辺りの品を提供しているのは中国産の陶磁器です。近年の不景気により、100円均一辺りは国産陶器が占める様になっています。もちろん機械量産の産物ですが、ここは動かない。陶磁器業界は、ダイソーやスーパーなどの販売を見ての通り、「100円回転寿司」が全国的に展開している状態です。大半の人々は量販店で安価陶磁器を買い求めており、陶器市で大量に買い求めるような時代は終焉を迎えています。底値を提供している機械製品は、むしろ西洋や途上国にも販路を広げている状態で、ウエッジウッドの倒産劇をも引き起こしました。日本では「たち吉」の歴史ある本店が閉店に追い込まれましたか。要は従来の高級品市場を、低価格という武器によって打ち果たし、次々と領土を拡大している状態です。品質も向上し、資本力によって材料費の低減も進む一方です。

危ないなぁ・・・、と思いつつ推移を見てきましたが、ここ10年の変化は劇的なもの。もちろん、収益としては中国の工場。機械を操作している方々に入るわけで、あとは輸入業者とスーパーなど量販店の利益。百円均一も国産とはいえ、数社の量産工場の仕事です。国内の陶磁器業界には全く恩恵がありませんから、日本の食卓が変わっていない様に見えても、日本の陶磁器業界は壊滅的です。正直、例えば作家全体で談合して価格を上昇させても、おそらく「閑古鳥」という結果になるでしょう。食器に関わらず「作品単価の値上げ難度」は相当なものです。

経済用語などで「合成の誤謬」と称されるもの。消費者の安価指向が国内陶磁器産業が壊滅させ、作家の収支指向が品物の低質化を呼び込んだ。個々の消費者、作家、窯元が、それぞれ自己利益を優先するコトは合理的で正しいコトかもしれませんが、それによって産業自体が壊れつつある。

「合成の誤謬」と云う言葉で検索すると、色々と考えさせられる事例が多いです。

豊作になると農家の収入が減る様に。例えば作家全員が薪窯で制作すれば、薪窯の単価は下がり、全員が原価割れという結果に陥り、結果として薪窯の壊滅に至ります。瀬戸が鳴らした染付が好例で、高品質・高級磁器であった染付を大量に生産して一世を風靡しました。国民は喜んで染付の飯椀を求め、御互いに好い時代に見えました。しかしその結果、染付の単価は著しい低下を見せ、機械による印刷転写技術は「絵付職人を不要」とし、染付に対する価格感の低下は「染付作家の喪失」に。結果として、瀬戸は「僅か数十年の栄華と引き換えに瀬戸染付の伝統を喪失」したのです。

で、今の陶磁器業界の状態は、瀬戸染付の壊滅を教訓とせず、機械量産の魔手を野放しにした結果、陶磁器全体に対する重大な損失に至っています。量産企業が事業を拡大し、品質を高め、中国に機械を輸出して安価量産を進めていく事。それが、ともすれば海外進出などと賛美された時代もあり、私利私欲と阻害するコトが出来なかった。

そうして現況、更なる量産技術の進展。不景気の中、歪みモノ作家領域を打ち果たすべく「手作り風量産技術の拡充」が完成。業務用などには採用も進んでいます。破竹の勢いで低価格品の品質向上が進むことを、大衆も賛美。抗すべくも無い状態で「合成の誤謬」が進んでいく。 「時代の流れ」などと云う云い回しが多いでしょうか。

問題は・・・これを止める術が無いコト。

「器の価格」とは。原価を優先すれば高額化して販売不振となる。利益を優先して薄利多売しても、将来的には一層の価格低廉化を呼ぶコトに繋がる。いつまでも貧乏暇なしで、原価割れの奉仕価格を続けるコトになる。

この難問解決に必要なのは・・・少なくとも頭脳では無いなぁ。。。
悩んでも無駄。そういうコトです。それしか結論は浮かばないのです。

人の手が作る器が、大衆から乖離する。

「器の価格」が示している現状は、「永年の御愛顧感謝祭」かもしれません。

火鉢。

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今日は来客。といっても身内でありますが。

モクモクファームなど案内して来たのですが、平日の閑古鳥が嘘の様に、スゴイ人でありました。う~む。やるなぁ・・・。実際、食べ物も美味しいものが多いです。入園料を払って中に入ったのは初めてでした。


寒くなって。去年頃に作って庭で一年晒した火鉢ですが・・・。う~ん。やはり火鉢に白っぽいものは微妙であります。手触りを考えて灰釉を軽く掛けてあるのですが、鉄釉にすればよかった。ちょっと冬の頃合いに作ってみましょうか。来年辺りの販売に向けて、何か作るものを探していたので。それほど、需要があるとも思えませんが・・・。

夏のバーベキュー炭を買い忘れていたので、炭の在庫が少なめ。

いっそ、炭も自前で作るかなぁ・・・と思ってみたり。
薪に適さない雑木ってのが、少し多めにあるのです。
椎茸の原木にもいいのですが。

それとも、楽窯を作って薪材とするか。

そんなトコであります。

あ。

今日は土掘り。ついでに粘土を造りに掛かろうかと思ったら・・・まだ断水でした・・・。
一週間程前からポンプが壊れているのですが、明日辺りに修理が終わるような話。

う~ん。土を掘って、少し篩土を作って。多分、二~三時間しか仕事をしていないぞ。色々とやりたい事はあるけれど、軍資金が無いので当面は動けません。手持ちの資金も用途が決まっているので拠出不可。まぁ、今のトコ何も仕事が入って無いので、よくある開店休業状態です。そういや、開店休業状態の小店舗や飲食店って沢山あるけれど、実際のトコどうやっているんでしょう。

仕事、仕事って云いますが、不景気なればこそ、暇な業種は暇。百貨店の店員さんなども「いや~、今日は一人も買わなかったよ~。」なんて話を聞きますが、ってことは、終日暇なわけであります。暇は同じ。問題は・・・自営業だと給料が出ないのですな。起業って大変。仕事しただけ給料が出るってのは、スゴイことです。

そういえば、以前紹介した信楽の「森のCafe」さん。

先日に寄ろうと思ったら「しばらく休業」とありました。何とも泥棒によって店が壊されたとか。何とも心無い話。井戸掘りから始まる、端正込めた手作りの店を破壊出来る根性・・・。全く酷いものです。綺麗な植物なども無駄に破壊していったとか。良心も何も無いというもの。

そう、田舎では強盗団がウロウロと周回しているのですよ。私も、車の窓ガラスを割られ、大事なものをゴッソリ盗まれた事があります。警察も・・・一時間も掛かるんですよ。正直、ホントに話になりません。救急車も同じこと。無駄な市町村合併によって、遠い処からしか来ないんです。一種の無法地帯というか。

しかし何と云うか・・・。酷い時代になったものです。

茶陶の衰退について

どうも数日、随分と疲れていた様でした。色々と迷惑を掛けたり様々に。今日から仕事再開です。


で、1つ何か書いておくかなぁ、と思いつつ。

昨日に思ったコト、ですが。茶陶の需要に関するもの。骨董などが売れていない、茶陶が売れない、というのは、勿論に不景気などの一時的な要因も在る一方で、大枠としての茶道人口減少、というコトが、まま云われている様で、「茶道人口」という言葉で検索すれば、まず「減少」という事が書かれています。

ただ、実際にどれくらい減っているのか、というのは実感としては判りません。しかし「随分と減った」という話は各所、多くの方々が話をされていて、おそらく事実、その通りなのだろうなぁ、と感じます。販売面という事でも、画廊にしても百貨店にしても、茶道具の扱いは相対的に随分と低下しています。百貨店の主役も過去の話。今となっては茶道具を扱わない百貨店も多く在ります。

まぁしかし、今更に百貨店に茶道具を置いた処で、茶道人口が増えるものではありません。茶陶が良質なものを送り出したとしても、微々たる影響しか無いでしょう。茶道具が悪くなったなど、どれにしても、根本的に原因を背負える様な影響力を保持出来るわけがありません。茶道はやはり、茶道だけで独立出来るもので、茶陶は副産物です。骨董茶道具・茶陶にしても、需要の土台は茶道隆盛の推移に依っている面が強い。根本的な解決に於いて自己の裁量はとても少なく、歴史的に見ても、桃山時代に茶陶で鳴らした窯場が、江戸時代に入ると食器・雑器に転向。現代も、昭和の茶陶期を経て、現代に茶陶を作る者は極めて少ない状態です。

今は明らかに茶陶の供給過多を調整している時期。不景気だから売れない、とは云いますが、根本的な潮流として、これを押し戻す事は不可能である事を想います。

茶道隆盛について。隆盛の頃には「無駄に増えた」という論客が多かった様で、茶道人口の減少を喜ぶ方も居られるのでしょうか。現在は「爆発的な隆盛を誇った時代の方々が、熟練の域に入っておられる時代」と見ることも可能です。高度経済成長期に爆発的増加が生じたと聞き及びますから、1950~1970年頃に茶道を始められた方々は、茶歴40~60年という熟達の時期を迎えておられるわけです。別の視点で云えば「茶道の本質的な隆盛時期」と見る事も可能かもしれません。人口が増えれば「隆盛」、減少したら「衰退」というのは、「経済面の話」でしょうか。

しかしどの分野も同じ様ですが、高度経済成長期にバリバリと仕事をして、多人数の中で勝ち上がって来た職人。その層が抜けてしまうと、一挙に瓦解状態に陥るというモノがあるようで。ここ数年、陶芸に於いても、誰もが知る様な茶陶名家の当主の訃報が多く在り、一方で「後継者不在」という話もチラホラと。力量が全く育っていないという意味での「不在」の話も。過去と較べての「全体的な品質の低下」は、もはや随分と云われて久しいものでしょう。過去の大家に匹敵する作品を送り出せる作家が、何とも出て来ないというか、肩を並べる事も難しい時代。

上記二点を勘案するに、「茶陶の隆盛」は「茶道の隆盛」に関連するとして、詳細に見れば、茶道の「茶道の本質隆盛期」よりも「茶道の経済面の隆盛」に依拠していると推論されます。桃山時代、茶道人口は上流階級に限定されていたと云っても、商人や大名クラスの超絶資産階級が支援していたわけで、やはり、一概に「人口」と「隆盛」を関連させるのは短絡的な結論です。御用窯の様に、藩や大名の支援が失われると同時に廃絶した窯場の存在が示す様に、何らかの支援が無ければ不可能、というものが本質。茶陶が独立独歩として自立した時代は、「極めて短期間」と見る方が自然な判断でしょうか。


とまぁ、そんな結論を想いつつ。現況の難しさというものが「至極当然」のコトなのだなぁ、という辺りに思い至り、少しく思い悩んでいた気分が晴れた感じです。今後としても減少傾向。茶道の青年部活動も、「ホトンド組織として成立していない」というものが大半であるとか。会社などでもそうですが、「20年後の経済状態」は判らないものの、「20年後の人材状態」は現時点で一定の推測が可能でしょうか。

そういった意味では。その20年後の推測程度を見据えながら、仕事も思案せねばなりません。小手先の需要喚起には、それ程の意味もなく。そも現代に於いてさえ、「飯碗1つ」の価値は「スナック菓子1袋」に等しく、「粗末なるもの」という価値観が普及しつつあります。割れたって大したことはない。「勿体ない」という言葉は、いつの間にか「御百姓さんへの謝意」ではなく「金銭喪失への悔悟」に換骨奪胎されています。

それを踏まえて。そろそろと、来年の計画を考えて行きましょうか。

骨董市散策と漆。

 今日は漆教室にて、またぞろと田舎者が街中へ。

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途上、日付が21日であった事を思い出して、午前中は東寺骨董市を散策。
まぁ、有名なトコです。クラフト系の人々も結構出店されてます。

まぁ・・・骨董もガラクタ的なものが大半でしたので、収穫無し・・・。
ここ近年は参入も簡単になったらしく、つまりは「全体的に売上が低迷」という
話を聞いておりましたが、実際、相当に難しい様でした。

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京都も少しく色付いてきましたか。
実はココのとこ、気分的に腐っていたのですよ。

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ともあれ。水指の蓋、ほぼ完成しつつあります。
何だか色々と気分転換。

う~ん、さてさて、現物と合わせてみましょうか。

2011年秋 伊賀焼成作品展 

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さて、今年は不景気という事もあり、個展もせずに修行に勤めて参りました。一方、献茶式や淡交会茶会を始め、様々に御使用の名誉を頂いて、「実用」の中で、多く展覧の機会を頂いた事に感謝しております。

例に依りまして、今作もWeb上にて、今窯の作品を御高覧頂ければ幸いに存じます。

※画像につきましては、通例よりも高解像度の画像にしております。
⇒写真画像をクリックして、拡大したものを御覧下さい。

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今窯では大振りの水指を思案しつつ、桃山時代の様な大振りの茶碗に対峙出来る様な水指を、という事で試みたものです。比較的用に優れた大きさのもの、そこから規格外のもの。種壺(左)・鬼桶(右)は、共に民間で用いられた雑器の転用です。元々が、持ち運びを想定したものではなく、大切な種を保管・貯蔵するための壺。本来の用途に忠実たらん場合、やはり薄作では困ることになります。今回は粗い土を選定した事もあり、総体的に重量のある作品が主体。

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水指、規格範囲内のもの。左が表面、右は同作品の裏面です。火表の自然釉も好いですが、火裏の色合いが深く、時節などによって選択可能な、好ましい色彩に上がりました。華美に過ぎない景色であり、茶器茶碗との相性も使い易いものかと思います。

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今回は比較的鉄分量が多かったのでしょうか。緋色が紫に近い色彩を得たものも。
これはこれで、やはり備前とは炎の温度が違うので、風情にも差が在りますね。

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御好評を頂く事の多い花入。左は有名な「生爪」の写し。焦げの景色を活かして、清楚な花を少し入れて頂くと好いのではないでしょうか。古伊賀に準じた規格として、28cmの大振り花入となっております。 右は経筒花入。蓋を添えれば細水指にも可能かもしれません。単純な筒花入ですから「伊賀」としては変化の少ないものとなりますが、経筒としては神仏の関連する場合など。伊賀や信楽の、最も古作として知られる花入は、単純な筒形となります。

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左、「寿老人」花入の写し。恒例の作品。今回は焦げの面が正面ではなく、側面に生じており、比較的穏やかな風情でしょうか。伊賀の古作は、その多くが口の広く開いたものとなっています。用途上では、竹筒や鉄筒などがあれば、簡便に中央に寄ってくれるかもしれません。それが入る程に、口の広い花入です。 
右は小生の昔からの定番形。少し景色の強いもの。とはいえ、当然に自然産物ですから、どの作品がどう仕上がるか、というのは確定的なものではありません。ある程度、全体的な傾向を左右する程度のもの。そういった意味では、今作では最も灰量の多い花入となりましょうか。写しではなく、臥翠窯としての基本形のものです。

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景色の穏やかなもの、表面(左)、裏面(右)。
裏面の方が景色としては強いかもしれません。

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掛花入なども、今回は緋色の面白味があります。

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小品・酒盃。派手さはありませんが、安定感があります。 

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左は伽藍香合。香合番付表のド真中、「頭取」を占める「伊賀伽藍」。 江戸時代は桃山系の、伊賀・志野・黄瀬戸の香合であります。 とはいえ、昨今は色絵香合が主流。焼締は滅多にありません。 香合特集でも、桃山系香合が掲載されていない場合があり、市民権は随分と希薄になっております。
右は茶入。土の配合によりビードロの載った作品になっております。瀬戸茶入に準じた少し大振りの国焼茶入として、ロクロにて仕上げております。

で・・・、

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伊賀大壺。火表(左)、側面(右)。少しサムネイルの画像は粗いのでクリックで拡大して御覧ください。久しぶりに展示の親玉が焼き上がりました。50cmサイズです。おそらくは玄関に居る事でしょうか。信楽焼祭りなどでも顔になります。焼締の本領は、やはり大壺に存在します。美しい炎の景色を楽しむには、やはり大振りの作品が愉しいもの。景色の変化としても見本帳の如くに表情が豊かなものであります。

是非、実物見物に、自宅展覧上へ御越し下さい。


今作は以上。御高覧、有難うございました。

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焼成:2011.10月 5日間焼成  臥翠窯 吉村 祐

御稽古。御道具の見方。

今日は茶道の稽古でありました。足が痛いです。

一日中、座って茶を点て、飲んで。言葉にすると随分と気楽そうであります。気楽じゃないですが。花月稽古の週でありまして、計六回程も稽古を付けて頂きました。

最近の稽古では、道具についての見分を深めるという辺りの課題もあり、色々と器について聞かれる事も多いのですが、色々頂く質問を総合してみると、基礎的な分類体系の知識が不足であるが為に苦労されている方が多いのだなぁ、と感じるトコロがあります。

まぁ例えば粉引ですが、「一盌の粉引」を見て、「当該の茶碗=粉引茶碗」と覚える方が多い。なので、「この茶碗は?」と聞かれて「粉引ですよ」と答えて、覚えて頂いたとしても、別の風合いの粉引が出て来ると、「粉引」であるという分類認識が出来ないコトになります。

作陶家にとっては常識的な知識ですが、粉引というのは一般に、

①赤土の上に、
②白土を掛けて、
③透明釉薬を掛けたもの」

であります。この手順を踏んだものを、総じて粉引と呼びます。どんな風合いであっても、この手順で作られているものは「粉引」です。民藝的には「白化粧」という呼び方をするコトもありますが、同じコトです。

その上で、粉引で特徴的な風合いを持つものを、萩焼・朝日焼(鹿背・御本手)などの呼び方をします。また、白化粧が刷毛で塗られている場合には「刷毛目」などと呼称します。そういった別称はありますが、ともあれ基本的には粉引という技法の範疇です。「三島」なども同じ技法です。

ややこしい様ですが、技法視点の分類では・・・

①赤土×白土×透明釉薬
②赤土×透明釉薬

僅か二種類の技法に収束します。ここに技法を加えると

①赤土×白土×灰釉薬
⇒およそ全体に白土が塗られている:粉引
⇒刷毛で塗られている:刷毛目
⇒全面に模様が彫られている:三島
⇒釉薬に特定の艶:卵手など
⇒紅斑が出ている:御本手
  ⇒⇒萩で作られたもの:萩
  ⇒⇒朝日焼窯元の作品:朝日焼
⇒形が呉器形:呉器

②赤土×灰釉薬
⇒形が見事な井戸形:井戸茶碗
⇒形が準井戸形:青井戸・井戸脇など
⇒形が呉器形:呉器
⇒灰釉薬が薄掛け:柿蔕・イラボなど

まぁ、書き殴りなので網羅出来ていないと思いますが、上記の様な基本的分類を理解していると、「謎の焼物」にも対処が容易になります。正確には細かい分類が付属しますがマニアックなので置くとして、雅称が無いと、御本手1つでも「白化粧灰釉二重掛紅斑茶碗」みたいになります。これはちょっと茶席で飛び交う言葉ではないようですね。

①白化粧の有無を判断
②形・釉薬の表面の特徴を確認

という二段階を踏めば、およそ本歌に程遠い様なものでも、「イラボを狙っているのかなぁ?」ぐらいに区別出来る様になります。後は詳細な特徴というか、約束というか。「見込みのロクロ目」であるとか、「白化粧の掛け外し」などの特徴を覚えれば、およそ分類出来ない、つまり「名前が判らない」という事は少なくなります。イラボなど、昔は刷毛目が施されているものも多いので、ザラっとした釉面で白化粧刷毛目であれば、「確実にイラボ狙い」という事が判断出来ます。残念なことに、現代作には「井戸茶碗には見えないけれど、井戸茶碗を狙っているのかな?」という辺りのものが多いです。

多くの名物茶碗が存在しているものですが、残念?なコトに、図録などでは技法面の解説が省かれているコトが多いので、この辺りの理解は陶芸書籍に頼る必要があります。でもまぁ・・・あんまり、体系的な書物は無いかもしれません。それほどに難しいものでは無いのですが、一応の作家であれば、見た瞬間に大半の技法は了解出来るものです。基本的に「分類」は「知識だけ」で可能です。「作品に対する目」は不要なので、勉強次第です。日本の焼物も、およそ灰釉を基本としているので、実は随分と簡単に分類出来ます。まぁ、長くなるのでやりませんが・・・。
 

あと・・・「釉薬」は”ユウヤク”と読みますが、茶席では釉(ウワグスリ)と読んだ方がシックリ来ると思います。原料はガラス原料の粉末みたいなもので、薬みたいな粒状のものが多いので、昔から「薬」という言葉が入ります。表面のガラス質の部分。「釉薬の表情が〇〇」では「美術館の解説」になるので、個人的には「釉(ウワグスリ)の景色(ケシキ)が〇〇」などの云い回しをオススメします。

当然ですが、基本的に焼締には釉薬(粉末ガラス)を用いないので、「釉(ウワグスリ)の景色」ではなく「景色」や「緋色・火色(ヒイロ)」です。伊賀や丹波などの焼締では、「降灰の景色」が在る場合が多く、敬意を込めて「自然釉(シゼンユウ)」や「自然灰」と呼びます。粉末ガラスを指している「クスリ」を挟まないのが肝要です。結果、「自然釉(自然灰)の景色」などの呼称になります。伊賀花入や丹波水指などで登場します。よく居られるのですが、「自然灰釉薬」を勝手に略して「灰釉」とすると「全くの別モノ」になりますので御注意下さい。「灰釉」は「一般的な伝統透明釉」に近いもので、井戸茶碗の出来損ない、つまり私の作る程度の透明釉薬茶碗などを「灰釉茶碗」と呼称します。なので、「別のもの」を指してしまいます。「え?これが灰釉に見えるの?」というコトになりまして、「井戸茶碗」を「灰釉茶碗」と呼ぶような、「格下」の呼び方です。自然降灰は自然産物による景色であって、人間の調合物ではありませんから、「自然美に対する敬意」という「暗黙の事情」が含まれています。自然と云っても勿論、出来・不出来はあります。しかし「灰釉」と呼んでしまうと、「敬意」の部分が省かれてしまいます。「自然釉」は美術館的なので、「灰の景色」や「灰の降りかかった景色」などを個人的にオススメします。


まぁまぁ、基本的な陶芸知識ですが、体系的な解説書もありませんから、その辺りが苦労の原因ではないでしょうか。淡交社さん辺りから、何か企画出版されたら好いのだろうなぁ・・・、と思いつつ。暗記だけでは苦しいです。


と、今日は少し、専門家らしい?記事を書いてみました。
同業にはツマラナイ話でスイマセン・・・。。

寒くなって。

いやしかし、寒くなりました。日の暮れるのも早いもの。

今日は作品の写真など撮りつつ。大壺の写真を撮り忘れていたので作品記事が書けないのでありますが、一応に納得をしております。写真も、もう少し、腕が良くならないと駄目だなぁ、と思いつつ。道具の使いこなしというコトであります。あまり写真ばかりが好くても仕方がないものですが・・・。

あとは少々、山野草の店に行ったら休店日だったり、折角だからとモクモクファームへ行ったり、そんなトコです。そろそろ何か、作りたくなるかなぁ、と思っているのですが・・・。窯焚き以降、半月くらい粘土触って無いです。無駄なものを作っても仕方が無いのですが。


まぁツマリ、話のネタがありません・・・。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00058710&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

適当にネタ探しをしてみました。

1925年当時の、不景気と京焼の新聞記事。やはり昔の記事というのは面白いです。今の京焼の土が全く京都に由来しないコトとか、1級品と2級品があるコトなどをザックリと普通に開陳してたりします。

しかし不景気と云うことで、大衆はセトモノで済ませてしまう。一部、所謂上流の固定された作家群は相変わらずの売上であるが、富豪と結びつかない作家群や工房は酷い惨状で、10年や15年の修行の果てに成る職人が、ロクロを挽けずにアイスクリームを売っているという話。セトモノってのは瀬戸の超絶な量産技術が確立していく時代でしょう。凄まじい勢いで量産を拡大し、機械を用い、極限まで生産の合理化を行った時代。今はあまり使われないけれど、”セトモノ”は量産食器の代名詞。昔の家々には、染付の飯椀や小皿が沢山ある。そういった時代。元々が染付は高級品だったものを、ブランドを叩き潰して安モノに貶めてしまったものだ。

何か、「好いモノが安くなって」という勘違いが引き起こすもの。なるほど、機械量産に依る器価値の低減、職人賃金の低下というものは、実に100年ほどの歴史があるというモノ。減らない様でいて、100均一の器って、よく更新されてます。一方で、スーパーや百貨店、陶器店の店先には、ホコリを被って、つまり長く売れていない状態が見て取れるものが並んでます。ホームセンターなどで買う様な、安いものが主体でしょうか。

しかし・・・器は・・・何だかツマラナイものが多いですな。昭和のモノの方が手も込んでいるし、面白い。今のものは、表面上の体裁は好いけれど、ロクロがツマラナイし、総的な安定感に欠ける。陶器も漆器も木地モノも、総体的に貧しい器の国になりましたか。

器は、極論を云えば縄文土器だって現存するものであって、常に過去の産物とも競合する。そういった意味では、茶道具などは骨董品が暴落中なので、正直云ってお手上げ。高位品種は不景気と骨董暴落。昔なら、一時的にアイスクリームを売っていれば好かったのでしょうけれど、転職ってのも大変な時代です。燃料費や粘土代なども、「年末一括払い」ということは無くなっているので、律儀に払っていく。借金は出来ないので、小さな規模でしか仕事も廻らない。

いやぁしかし、窮屈な時代だなぁ、と思います。

好日と爆発と。

今日は好日。しかし11月も後半になりまして、何となく名残の感があります。夕刻から青年部の会議へ行っていたので、すっかりと日付も変わってしまいました。

日中は、そろそろ作品の写真を撮るかと思いつつ、ハマ擦りなどをしておりました。窯出しから二週間程も経過して、色彩も一定程度落ち着いてきた様です。コンテナに入れたままの作品は変化が遅い様で、も少し時間を置きたいかと思いつつ。やはり窯出し後、屋外に少し置いたりする事も必要でしょうか。また桐箱に仕舞いっ放しというのは駄目なものだなぁ、と感じつつ。外に有れば、音1つでも振動を受け、僅かな熱をも受け、微量な水分を呼吸します。人の住まない人家の崩壊が早いのと同じ原理でしょうか。変化の少ない状況下では、器も無呼吸状態で死に絶えてしまいます。

ネタが無いので、先日の書籍から拝借しましょうか。
(「公開」になっていなかったコトに先程気付きました・・・。)

dokuso.jpg

贅沢に引用しましょうか。冒頭文と末文。

>
人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間には堆積物に埋もれて身動きができなくなる。
人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身とも無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。
>

禅で知られる思想が冒頭で展開されている。面白いモノだと思う。同じく無一物を標榜した作家と云えば、加藤唐九郎の「一無斎」が想起されるだろう。同じく豪放磊落にして常識に頓着せず、しかし繊細なる心を以て真摯に作品に取り組んだ作家である。作品としても一際に個性強く、アクの強いもの。その原理が「無一物」であるというのは、1つの逆説的な印象を受けるが、しかし事実であろう。遺された文章などを観る限り、彼らが宣伝や名利のために禅を学んだ形跡は感じられない。戒律・形式・伝統を重んじ、充分に知悉しながら、同時にこれを蹴り飛ばす。単純に蹴り飛ばすのではなく、「守破離」で知られる手順の通り、「守」を踏んだ上の「破」であろう。単純に頭から伝統を蹴り飛ばしているのではない。そこを見落としてはならないのだと思う。

>
一人ひとり、になう運命が栄光に輝くことも、また惨めであることも、ともに巨大なドラマとして終わるのだ。人類全体の運命もそれと同じ様にいつかは消える。それでよいのだ。無目的にふくらみ、輝いて、最後に爆発する。平然と人類がこの世から去るとしたら、それがぼくには栄光だと思える。
>

守ることにコダワル必要もないし、破ることにコダワル必要もない。それが守破離の「離」であるのだろうか。自ら「離」を強調するというのは噴飯行為になる。しかし、この書籍ではあくまで、「破」について説かれている。とかく現代人は「守」にコダワリ、防衛本能として金銭や蓄積に執着してしまう。それを「蹴り飛ばしたい」というものが、「著者の伝えたい想い」として繰り返し、最後まで述べられている。この書籍の意図・目的は、自己の伝記を知らしめたり、業績を誇るものではなく、”現代人への「破」のススメ”という辺りであろうか。少なくとも、「こうすれば芸術的なものが作れる」とか、「こうやって既存派閥や常識をブチ壊したんだ」とか、「こういうものが芸術だ」とか、そんな陳腐な書籍ではありません。


と。冒頭と末尾という、斜め読みの引用で申し訳ありません・・・。「五分で一冊読む」などの速読法。「上」なる書籍に対する礼儀としては極めて無作法ですから、是非に内容も読んで下さいな。



根本的にはなぁ・・・。常識の範疇に納まる人は納まってしまうし、納まらない人は納まらない。感動を求める情動的な素養だと思います。今日美味しかったものも、連日味わえば飽きてしまう。より新しいものを求めていくか、それとも悟った様に納得をしてしまうのか。昨日の味に改良を加えた程度では、すぐに飽きてしまう。根本的に組み立て直して、新しい味を作り出すコトに挑む。そうしないと、更なる感動は得られない。貪欲になる程に、既存物を斬り捨てる。保守になる程に、既存物に固執する。斬り捨てる程に新しくなり、固執するほどに古臭くなる。

まぁ云えば、大事に桐箱に仕舞っておけば新品のままである。しかし、外で風雨に晒せば古味がついて妙を増す。逆説的であるが、守り・大事にするほどに魅力は下落し、危機を冒すほどに魅力は増すのである。大衆には理解され難いものがあるけれど、これが伝統の核心思想となる両輪なのであって、両の中庸が必要。「破」に固執しても、「守」に固執しても、「離」(進化)には到達しない。根本的には「守」が無ければ「破」は存在しないし、「離」も存在しない。だから実質、人々が「破」に走れば、「破」が「守」になってしまう。皆が新しいコトをやっていれば、新奇なるモノを作るのが「守」となり、伝統保守が「破」に転じる。現代に於いては、むしろオブジェなどは「超保守的」と云う見方も可能だ。芸術論に対して極めて保守的。個性論に対して「保守の極み」である。芸術論の常識に捉われているのだ。逆に、伝統というものは少数派であって、新奇なる流れに対して「革命的」と見る事が可能でさえある。それが現代の本質ではないか。現代芸術というものの幻想というか、レッテル的な虚構がココに在る。どうだろうか。我々は子供の頃からオブジェを見慣れてきた。ともすれば時代遅れの産物に見えていないだろうか。少なくとも私の目には、オブジェこそ「古臭いもの」に映るのである。

時代の流転。常に革新を繰り返すことこそが伝統であると云う。少し言葉遊び的になるが、何が伝統で、何が革新であるか。結局は主観的な問題、つまり「人間の意識の問題」に収束する。人々が「芸術は個性的でなければ」と紋切形を思った瞬間に、それを斬り捨てる。個性があれば満足か?と反問する。「マニュアル」とか「ブランド」が好きな日本人には不得意だと指摘されれば、その通りなのかもしれませんね。

例えば、ですが。クラシックは調和の美。「和」の音。それぞれが規律ある静かな音。しかし、個性ある音も調和の美を奏でることが可能で、それがJazzにおける「和」の音。「個性と協調が対立関係に在る」なんてマニュアルを頭で考えていると、聞こえているものも聞こえなくなる。事実、jazzの即興演奏というものは、音の調和・戒律の範疇での即興であって、やったコトがあれば判るが、調和を崩さない様に出来ている。


常識に囚われない。自己の価値観を斬り捨ててこその自由。
常に自分を爆発させ、定形化させないコト。

それが、彼の云う「芸術は爆発」という言葉の真意かと。
古い言葉で云えば、「君子は豹変す」という辺りでしょうか。
つまり、常なる自己革新という事です。


以上、読書感想文の続きまで。

(※私は芸術家ではなく陶工です。それ以下は在り得ますが、以上ではありません。芸大で芸術学問を学んだ経験のない、世を斜に見ただけの素人論なれば、悪しからず御了承下さい。)

明月舎

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今日も早朝から京都。茶会にて、天満宮は明月舎。
八時半到着でも、二席目というあたりが京都でしょうか。

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宗道師の御席。今日は京都の稽古場社中の御歴々が御水屋方。
有難く御客にて入らせて頂きました。

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第一席から満席続きでありました。秋晴となりましたね。


茶席は三条実満公の「紅葉の歌」。公卿さんのコトまではどうにも知識が全くありませんが、「花園実満公」で通用して居られる方。江戸前期の公卿さんになります。位は参議。まぁ、三条家というだけで官位は無用の事でしょうか。

もちろん凡夫の私とは違って、御正客さんは、「寛永頃でしょうか?」という応答をされておられました。う~ん、正客さんが到着された瞬間から、「違うなぁ」と感じましたが、スゴイですね。言い回しから何から含め、あの様な応答・客振りが出来る様になってみたいものです。

炉開きの頃というものにて、白玉椿が伊部花入。香合は大振り赤で道八。点前座にては釜が与次郎、水指は桶形の古織部。凡鳥蒔絵の棗に、当代家元の「峰の松風」なる茶杓、茶碗は六閑斎手捏の赤楽にて「布袋」。江戸前期の道具を中心とした紅葉の一会。緑色と紅色の対比。二福の茶を頂いて、なんとも清々しい朝の席でありました。


遅いなぁ・・・と思っておりましたが、気付けば紅葉が各所にて。

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以上、今日の茶会記まで。

学ぶこと。

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今日は漆。水指の蓋が8割方完成、という辺りでしょうか。気が付いたら少々漆が付いたくらいでは、まぁ僅かにカブレるくらいなもので、ようやくに安心して仕事が出来るなぁ、と思いつつ。しかし、漆って難しいというか、何と云うか。ホコリが入ると・・・という話は聞くものの、実感してみるのでは大いに違うわけで・・・。

あとはツマミを付属させます。


今日は午前中から京都に。駅前の大型電気店で音楽関係などの設備を色々と試聴しておりました。最新型の高品位イヤホンに感動したり、今更ながらにMP3プレーヤーを物色してみたり。そういや電車に乗って思いましたが、イヤホンしてる人って多いんですなぁ。滅多に通勤時間帯に乗る事もないので、そんな事も知らない田舎者であります。相変わらず音楽ってのは人々への膾炙がスゴイってのを想いました。


あと、時間潰しに本屋で・・・

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コレを読んだり。まぁ、縁遠いかな?と思って敬遠している様なトコがあったのですが、平積みされていたので。少し読んで了解。まず生き様というか、思想だけでも十分に人を引き寄せるモノがある方なのですね。あぁ、これに「毒された」人は多そうだなぁ、という事をまず感じました。書籍ってのはやはり、その文章に下手な介在が無ければ、著者の思想や内面を読み取り易く、個性の在る人の文章は、技巧派ともかくとして面白い。正直、氏には特段に興味を持って来なかったのですよ。しかし、一般的感覚として、芸術家の代表格になるのでしょうか。

下手に論評などしようものなら、賛否様々な方ですから、小面倒?になるかもしれませんが・・・。実物も殆ど見ていない無知な状態でいうなれば、原色の絵はそれほど感銘しない。でも、書籍で挿絵にされている墨絵は面白い。んでも、正直、見ていて疲労感がある。好く云えば情熱的で横溢する気迫があるが、悪く云えば雑音が酷く、ウルサイ。そういった風情でしょうか。文章を読む限りの判断で云えば、情熱をそのままに衝突させたものを作品とされていた様ですから、そのものとして、まぁ静かなものであるわけもなく、綺麗であるわけもなく、でしょうか。そこは根本的な好みの問題かなぁ・・・。玉石混交の感を受けました。

話を本に戻すと、要点としては①金銭を度外視して、②敢えて危険な選択肢を選ぶことで、③人生(作品)は自由に充実する。という提言を、言葉を変えて様々に語っているもの。此の手の強烈な思想を読む場合、各論の言葉に振り回されてしまうと、「自由を目指した時点で自由ではなくなる」という言葉で語られている通りの「罠」に陥るという危険な「毒」が伏在しています。飽くまで、「己の毒を持つべきである」という話であって、「俺の思想に毒されろ」という話では無い。その辺りは、魯山人などにも共通する影響力の強い人物の言葉の特徴でしょうか。「岡本太郎の毒」を真似しようとしてしまえば、それは「自分の中に毒を持て」という言葉に反するものであって、彼の批判する「レールに乗った生き方」に属するものになります。単なる文章読解能力なので、誤解したまま影響下に在る芸術志望者ってのが、意外に多く発生してるんじゃないかなぁ・・・と感じます。

要は、無駄に伝統に反旗を掲げたり、そういう事が芸術だと想っている人々というか・・・。彼の思想に基づいて解釈すれば、「反伝統こそが己の人生を高めると確信した者」の行動になります。そんな人って居るか?。「伝統に拘泥しない」というコトと、「反伝統」は別物であり、論理力の弱い方などは気をつけないといけません。「芸術は爆発だ」という言葉は、「俺は芸術は爆発だと思うが、お前はどうだ?」という「宣言」であり、「問い」。ここに至り、「私も爆発だと想う」なんてのは、利休に云うところの「私が丸釜を使ったからと云って、丸釜ばかり用いるのは全く駄目な弟子である」というものと同質な話になるでしょう。

表題で彼の云う「自分の中の毒」ってのは、「”己自身が構築した”人生哲学」と判じます。それを「恐れる事無く貫き通せ」という叱咤激励であり、「金銭の誘惑が最もそれを阻害する」という警告と共に、「俺の哲学はコレで、こう貫いたぞ!」というもの。彼は伝統に反旗を示したと云っても、「伝統に反旗を掲げて否定するのが芸術だ」みたいな、「安っぽい思想」はどこにもありません。既存への懐疑・反発というものは、即ち「日々新」であり、「自己の常なる更新」という意味で語られている。文中で用いられる伝統は「固定観念の保守」の「象徴句」として使われてます。要は「伝統」に彼の好むものが無かったというだけの事。「自分自身が本当に好きであれば、それが伝統であれ、革新であれ、異端であれ、金銭も人生も放り出して全身全霊の勝負をせよ!」という話。その勝負する対象が、これも「芸術作品であろうが、恋愛であろうが、仕事であろうが、政治であろうが・・・」という話になっています。芸術礼讃でも、反伝統でもなく、「人生哲学」の書籍。



とまぁ、一冊読んだだけのニワカが愚言を弄してみました。
色々な意味で、刺激に満ちた言葉。愉しい書籍。

以上、今日は読書感想文まで。

CD一枚に想うこと

思った事を今少し。

今の日本各地において、「芸術祭」と云えば「楽団による演奏」というものは比較的よく認知されたもので、「芸術文化祭」においては何らかの楽団が登場するのが恒例となっている。しかして、そういった場にオブジェなどの工芸品が主役となる事は稀であって、どこか端のギャラリーや展示中で、書や絵画と一緒に工芸品が展示されるに過ぎない。

同じく、そういった芸術団体というものは不景気の中で「存続の危機」に在るものが多いと云う。演奏しなければ楽団の意義は無い。しかし、会場を借りて客を集めるのは至難のこと。それもクラシックなど交響楽団ともなれば、その意義を認める人は数多く、その存続に拍手を送る人は多いけれど、金銭を払ってまで・・・という人は随分と少なくなってしまう。

よって、市や県の税金補助を受けたり、スポンサー企業が必要ということになる。楽団構成員はチケットノルマなどに苦労されていることだろうか。まぁ、この辺りは少し、茶道団体とも似ているかもしれない。芸術事業で黒字を獲得するのはなかなかに難しいものなのだろう。


音楽に於いても、やはりクラシックというものは経済的に苦労する分野であろうか。茶道や茶陶と同じく、過去の名品を改めて演奏するもので、指揮者と演奏者によって、同じ曲が様々に表情を変える。同じ曲でも、Aの楽団が演奏する場合は好く、Bの楽団による演奏は気に入らない、という事が往々にして存在する。「名品の再解釈」という事では古典に対するJazzの即興演奏も1つ、近いものがある。原曲を愛好する人からすれば気に入らぬ場合もあろうけれど、個々人の演奏を愉しむには非常に魅力的だと思う。

現代的、というか、一種の芸術代表格であるクラシックやJazzに於いては、「古典名曲の再演奏や再解釈」というものが、至極当然のこととして、全くファンは当然のこととして、広く大衆にまで受け入れられ、それを認知されている。「古臭い」などと思う者は居らず、多少の正装に身を包んでコンサートに行くことを毛嫌いする者は居ない。演奏が終われば誰もが拍手を贈るものである。

しかし茶陶や茶会に於いては、同じ「古典名品の再演や再解釈」というものでも、随分と対応や目線が異なる。大衆は少しく「冷ややか」である。時に「古臭い」などと、敢えてマナーなどを踏み倒すような行為を勧奨する者も跡を絶たない。「ジーンズでは駄目だとか、サッパリ興味が無い」などと服装1つでも冷淡な態度となる人も居る。茶会が終われば、拍手どころか「あぁ、堅苦しかった~」という人は多い。

一種、日本人の「芸術理解」の程度が感情論的であり、ブランド従属思考である事を示しているかに想うが、まぁそれは別に私が指摘する必要もない周知の事実。


しかしまだまだ、茶道や陶芸というものが「芸術」と認知されていないのだなぁ、と感じないわけには行かない。どこか胡散臭いというか、そういった「ブランド」である。誰もが認めるブランドには成っていない。陶芸も、ともすれば胡散臭い「壺売り」の様な、一種の詐欺師的色彩を帯びて観測されている側面がある。

こういうことを書くと敵を作るだけですが、個人的には某「〇〇鑑定団」なる人気番組を槍玉に挙げたい。詐欺の被害者をニコニコしながら笑いモノとしているが、その中核は茶道具であって、茶道・茶道具全体への不信を抱かせている。他人事として笑うのは自由だが、厳たる事実として、どう考えても「娯楽」の犠牲になっている。数百万や数十万円を「騙し取られた」というものは、事件以外の何物でもない。そういった事が日常茶飯事としてきた骨董業界もどうかと思うが、それを娯楽とした長寿番組も、さすがに数十年来の歴史となれば、子供の頃からそれを観て来た若者が、茶道具や茶道に対して不信感や反感を刷り込みの様に持って敬遠する事は想像に難くない。小さな悪意を積み重ねた巨悪だと断じても問題ないのではないか。

茶道講座など高尚な番組と、詐欺不幸を笑う娯楽低俗番組。共に真実を感じれば、「表裏の共存」を疑うのが常であろう。そうした上に実際、騙された方が悪い、目の無い者が悪い、という骨董屋・道具屋の理論は、時に茶人さんの価値観さえ支配していることがある。一介の商売人の価値観を、仁徳者と崇される指導者が気軽に用いるのは危険である。

更に個人的な見地を云えば、如何なる名品とて、そういった道具屋を経由した来歴のものが、「和」を標榜する茶席に存在するのは、一種の寒気がする。勿論、作り手に悪意の存在することは少ないし、モノに罪は無い。けれど、道具の来歴や出自を大切にする茶道に於いて、その道具を支配し、差配しているのが詐術を辞さない骨董業界であるというのは、やはり抵抗がある。茶道具に於ける古陶磁に、そういった筋の通らない背景が見え隠れする事があるのは悲しいものだ。モノも、来歴も大事にするならば、気味の悪い古陶磁は多くなる。そして、本当の名品は随分と少なくなる。


無駄な批判を書いてしまった。不景気ともなれば、利益確保のため、道徳心は一層の低俗に陥るのが常とされてきたもの。大衆の十分な信用・敬意が無い中で狡猾な金銭計算をやれば、それは芸術でも何でもなく、「商売」として認識される。抹茶一服の原価云々、人件費云々。そう云った中で、陶芸はすっかりと商売根性の中に取り込まれてしまった感がある。最近の陶芸には、芸術の仲間入りをしようなどという気風を感じない。好く云えば現実的・理性的で、ツマラナイものが多い。人の心を動かすのに作為や計算高い演出やイベントが付随している。金銭の計算を差し挟むと、感動出来るものも出来なくなる。これは基本だと思う。


古典の再演奏・再解釈。音楽には古典の再展開でも人々を感動させる。
新曲であろうと、古典であろうと、そんな事は関係が無い。古典も好い。
新しいくても古くても、駄目なものは駄目、好いものは好い。その線引き。

器もまた、そういった自由な世界で解釈してほしいものだと、我田引水的に思うのである。大きく云えば、芸術・工芸の各種も自由なる視点で解釈をして欲しい。茶道的に云えば人間の相対する時の在るべき心構えを、道具や芸術に対して展開する事である。そうしてこそ、眼前の世界に青空の愉しさが在るのではないか。

不景気の曇天に、青空を想いつつ。


以上、長文失礼。

畑の様子とCDと。

今日は昨日に引き続いて庭の清掃。午前中一杯は草刈り仕事。中途半端に自然に任せてしまうと雑然とした状態になってしまって、非常に面白くないものでしょうか。お?と思ったら畑に農薬が少し使われてました。畑を始めてからは、年々と野菜を主食とする虫が増加してきます。同じ場所、同じ作業でも、同じ結果にはならない。維持というのは意外に大変な事で、上辺は同じでも、日々は進んでいるのだなぁ、と思いつつ。

最近は色々と。将来展望への不安要素が多いので微妙な気分。「漆による微細なカブレの痒み」がイライラ感を募らせているのかなぁ、と思いつつ。リーマンショック以降の連続的な降下作用を想って見ると、何が杞憂で、何が杞憂で無いのか、サッパリと判らなくなります。「何が起こるか判らない」ってのは、面白い時は面白いわけですが、疲れている時には辛いもの。他人事という観点で押し留めていますけれど、茶道具が商売として成立しない様な、そういった時代の到来が、どうも半永続的な状態に固定化してしまうのではないか、と、そういった不安は、確信に近いものを感じています。半世紀かけて絶対安泰の防波堤を築いたかに見えていた茶陶の雄が、実は想像を遥かに越える苦労をされている。弱肉強食の結果というよりは、全体衰微の結果と思われるものでした。

およそ、王道的に築かれたものは強固です。密度の高い石垣。同じ様に、王道的に衰微してくる勢いも強固。「怪我」は一時の事ですが、「衰え」というものは永続的。「怪我」と云えども、その修繕措置に失策を繰り返していれば、怪我も固定化して、「衰え」としての「王道的な衰微」に変貌していく。

古伊賀が壊滅したのは、品質の低下でも、職人の喪失でも何でもなく、「大飢饉」という「経済上の致命傷」でありましたか。同じく戦国期を風靡した備前長船の刀鍛冶壊滅も、「大洪水」でありました。「景気が回復すれば復活させればいい」という論議は、工芸品に於いて容易な事ではなく、遠州七窯を始めとする過去の名窯を復活させた各地の再興窯を見れば、その差異は瞭然。その品質低下は随分なものであります。これは日本に於いてのみならず、中国に於いても同じ。異民族支配や王朝の変遷、流行の転換など、主に外的な要因で喪失や衰微に転じてきました。

現代はともすれば、自己責任的な追及が多いもの。芸術家だろうが職人だろうが、「営業力が無ければ生き残れない時代」としての側面が要求されているかに見受けられるもの。ですが、史上に於いては、各個の努力に関わらず壊滅するという結果が多いものです。例えば先だっての地震では相馬焼は壊滅ということになりした。土がもう、使えません。天変地異に在らずとも、多くの名品を生み出した窯というものが、「流行」という経済要因によって壊滅しているのが現実です。 とても脆弱です。

何事も平等ということはありません。大枠で見た場合、日本国という家庭に於いて、稼ぎ頭は経済人であって、工芸家などは論外のボンクラです。農業などは隠居のお爺さんがやってる感じです。どれも大事な家族でしょうけれど、危機となった場合、生存能力が最も低いのが芸術・工芸の世界。結局のトコ、誰かの力を借りなければ十分な収入を得る事は出来ないものです。

元より、同じ人間ではありますが、工芸ってのはそういう位置に在ります。

「陶を以て政を観る」という言葉がありますが、元は中国の言葉。繁栄期にこそ陶は華を咲かせ、人倫の充実したる時代にこそ名品を送り出してきました。太古には青銅器を用い、溢れんばかりの繁栄期には溢れんばかりの色彩を描いたもの。日本もまた、太古には神秘なる縄文土器をつくり上げ、戦国の世には侘びの器を、桃山時代には豪放な器を、江戸時代には瀟洒な器、明治には技巧の器、昭和には機械の器・個性の器を送り出しています。

「鏡」でありますから、例えば拝金主義的な時代には、拝金的な、大衆に媚びたる器が登場する事になります。紋様の派手なるを好む皇帝の元では派手な器が賛美され、紋様の禅的たるを好む皇帝の元では禅的な器が登場します。いつもがいつも、善良なる側面を写すわけではないもの。

しかし大枠、中国語で云う処の「政」とは「国家」です。国家の繁栄期に陶磁器も繁栄する。昭和の巨匠がその精華を競った時代は、やはり経済も絶頂期です。逆に、争乱期に陶磁器が繁栄した例はありません。昭和の巨匠にしても戦前に壮年期を迎えつつ、手投弾を作る他に為すすべもなく。好き時代在ってこそ。混沌の時代に芸術工芸が繁栄するというのは、不可能では無いにしても、「宿命的に難しい課題」と判じる方が自然なものでしょう。国家の危機にボンクラの居場所はありません。

そういった意味で想うのですが。まぁ、CDが売れなくなっている事と、茶道具が売れなくなっている事ってのは、「根本的に同じ」なのではないかなぁ、と思います。マスコミの力を借りるとか、そういった「奥の手」を用いるに巧みな者だけが、単純な商圏から脱しているものの、根本的な環境の改善には縁遠い感がありまして、そも芸術工芸が育つことの出来る環境が失われてきている。


「売れない理由」というものを、細かく挙げることの無意味。


要は人々が、「音楽」とか「工芸」などを充分に楽しむ余裕が無いのが根本。気が付いてみれば、自分自身も、久しくCDを求めることから遠ざかっていたのだなぁ、と。音楽は好んでいたし、変わらずCDを流しているものの、しかし「CDを買わない人間」、「コンサートへ聞きに行かない人間」、つまり「音楽を実質的に支える人間」では無くなっていたのだなぁ、と。音楽が好きで、愉しんでいても、実は「支える人間では無くなっていた」。


一枚のCDに、そんな事を気付かされました。まぁ、元々熱心にコンサートへ足を運ぶ様な熱心な人ではありませんけれど、市民楽団に所属していた事があるくらいには、各地の楽団なども運営は厳しいもの。市民楽団などもどうなっているものかなぁ・・・。

時代の「流れ」というもの。現状維持の苦労。

さてさて、陶芸もどうしたものかなぁ、、、、と思いつつ。

収穫と種蒔

今日は畑作業です。

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収穫ってのは有難い。んでも、年々と収率も好くなっているので、同じ面積でも収穫量が随分と増えてきました。椎茸は少し食傷気味。大根が好い具合に成っております。チンゲン菜は今年からのものですが、簡便で美味しいものですね。

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収穫と同時に、種蒔。あ。別に1人孤独に耕しているわけではありません。土日は親が来て手伝ってくれるので、畑作業を進める事が多いです。玉葱の苗が育ってきたので畑に植え替え。玉葱は一年分の収穫になるので、好い物を作っておきたいもの。基本的に木灰にしても堆肥肥料にしてもモミ殻にしても、原料は須く植物です。土と灰で生成されるものですから、器と同じ材料。地の土に、地の植物。畑も同じく、第一に土でありましょうか。


ちょっと最近は勉学仕事ものあるので夜更かし。
基本的に深夜に勉強する癖があるので、昼間が眠いです。

ボチボチと、音楽聞きながら勉強をしております。

疲労気味?

今日は稽古。気付いてみたら茶関係の割合が相当に多い・・・。気分的な感覚ですが、最近は落ち着いた時間が少ない様な気がします。秋なのになぁ・・・。たまには縁側で、ボーっとした時間が欲しい気分なのですが、「雨が降ってるから、今の内に椎茸を収穫に行かないと・・・」という調子です。とまぁ、椎茸が大漁で困ってます。

稽古は四ヶ伝。台目向切の炉。茶道巧者の点前に相応しいものであるとか。その辺りの茶室設計?の知識もサッパリなので、意味を学ぶと覚えが早いです。昔からなのですが、単純暗記力に関しては群を抜いて「悪い」です。なので、単純に英単語を暗記するとか、歴史の年代を暗記するとか、詩歌を諳んじるとか、この手の学力は人が驚く程に「サッパリ」であります。歴史学なぞでは「人間の記憶なんかアテにならんのだから、覚える苦労は無駄。確固たる辞書を多く所持し、辞書の位置把握を確実に行って、何時でも調べられる様にしておくべきである」という事を教わったもので、まぁ陶芸に関する図録はそういった感じで用いてます。昨今はネットなども重宝しますが、「確固たる辞書」とは云えないのが難しい。

まぁしかし、茶道巧者って・・・。う~ん。半世紀くらい先の話でしょうか。そもそも茶室建築自体が縁の遠いものであります。建てたことでもあればまぁ、茶室を見る目も違うのだろうなぁ・・・と思いつつ。


う~ん。疲れているのか、話題が浮かびません。
 
「落ち着かない生活」って疲れるんですよ・・・。


今日はここらで。
論者:近江の苔

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。かつて古伊賀が焼成された集落に近在。詳細はWeb・交通案内記事など。

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