おっと。もうGWじゃないですか。

いつの間にか金色週間ではないですか。気が付いたら明日は信楽焼祭りの搬入日。

祭りは2日3日4日5日の4日間です。4日はちょっと不在します。


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とりあえず焼いてます。バーナーの掃除が出来てないのですが。

あと、茶碗のアップも出来ていないのですが。

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この前の柿蔕と

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見込みにブクがある数寄者向け?伊賀と・・・

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これまた焦げなので向付とか飲用器に使ってもらうくらいの伊賀碗。 


あ・・・。三分の二が普通には使えない茶碗だ。
夜中に窯を焚きつつ更新します。

その内に、使えるやつも載せることにします。とりあえず準備、準備。

今日は何を書こうか・・・

宣伝記事にしましょうか。

ここ数日、少しWeb販売「臥翠庵」のサイトを更新したのでお知らせです。

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追加したのは小物4点。詳細は臥翠庵まで足を運んで下さいな。


http://gasui.jp/hanbai/index.htm

まぁ・・・アクセス数は低空飛行しておりまして・・・。騒音被害が心配?
サイトの文章を増築してアクセス数の増加を目論んでいます。

あと・・・
最近になって気が付いたのですが・・・
地震の後?かな。ツイッターやってる陶芸家が急に増えてる様な気が。

ひょっとして、皆さん普通にiPhoneで呟いてる時代?


とりあえず
明日辺りには茶碗を載せる予定です。

変わり種の茶碗とは

今月の「淡交」(裏千家の月刊誌)より茶碗論まで。

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「貝形貼文白楽茶碗」銘「潮干」。

さて、こういった茶碗をどう見るか。高度な問い掛けだと思います。

①「淡交の雑誌巻頭を飾ると云う事は、これは正しい茶碗という事ですよ!」
②「いやまぁ、駄目だろ。利休が現代に生きていても使わないよ。千家茶道だよ?」
③「遊び心が効いていて、何とも現代的な茶碗だ。面白い。」
④「かわいらしい。何か問題でも?」

作者は楽慶入。11代。明治文明開花によって日本文化が壊滅的打撃を受け、茶道滅亡の危機を迎えた時代。楽家は酒屋の御子息を婿養子に迎えて後継者とした。ちなみに今年の「淡交」の巻頭監修者は楽の当代さんです。また、「淡交」といっても家元が編集しているわけでもないので、時折に誤まった記事が掲載されたりする事があり、様々な声があるようです。焼物の技術面などにおいては、そういった事を感じる記事が時折あります。

で、表紙の解説が当代によって行われます。

楽慶入は不遇の時代に茶の湯復興に勤め、精進深く最高位の「皆伝」を授与されているくらいであり、自ら茶事を頻繁に行って楽しんだのである。

技術的な事を陶工的に見れば、この手の茶碗というのは女性に作らせると見事なものを次々と作ってくれます。細工物が得意というか、コーヒーカップに動物が乗っていたり、取っ手が猫であったりするものを見た事があると判るかと思いますが、ああいった分野は女性の独壇場に近い感覚があります。とてもとても、武骨な手では全く手に負えない世界です。

その辺り、解説文では「洒脱」「遊び心」「茶筅は通る」という表現がされています。


と、およそ思いつく情報を出してみましたが。その上での判断は、各個人のものでしょう。


参考までに私の場合、ですが。

やはり直感的には②を感じました。利休茶道の世界とは違うのではないか?と。現代式の作家が、この様に見込みに物を置いたものを造って、「現代感覚の茶碗」としているものを見た事がある。まずそれが頭をよぎり、苦い感触を受ける。

で、以降の解説を読んで・・・

慶入は、陶芸家でありながら、同時に茶道家としても優れ、茶事を多くこなしていた。つまり、「陶芸作家の開く茶事」において使う目的で制作したと見た方が良い。およそ、陶芸作家として茶事を開くとなれば、友人知人を招くわけであるからして、普段知ってもらっている自分の作品を使っても、面白味に欠ける側面がある。特に楽家ともなれば黒一色、赤一色が基本であるから、新作として出すにも限界がある。

そういった中で頻繁に茶事を行うとなれば、「陶芸家としての茶事」においては、やはり「一会のための特製茶碗」という演出は魅力的。もちろん、黒や赤は伝統の格式があるので、遊びに使うには抵抗があるかと。もちろん、普通の茶人なら楽茶碗を外して他の茶碗を使えば好いのですが、楽家なればこそ、客からは当然に楽茶碗が期待されるわけです。すると、白楽の選択肢が最右翼。そういった中で、常から家元なりを招いている中の工夫として、「吃驚」という趣向もまた1つ。そうして、特別にこういった茶碗が出来てきたのではないか?と解釈しました。

私の場合も、販売に出すものとは別に、手元には「割れキズがあったり、ブクがあったりして面白いもの」が、いつの間にか残って来るものでして、そういったものを呈茶で使う事があります。皆さん、こういったものは買う側としては躊躇されますが、飲む側となると素直に楽しんで頂ける方が多いです。

そういった意味で。「陶芸家としての作者が行う茶事」という場合に限り、こういった茶碗は「アリ」なのではないか、と解釈してみました。監修の御当代も陶芸作家にて、茶会も頻繁に行われている様子。

まぁ・・・決まり切った黒楽茶会に、少々飽いている様な客を迎える時に使う。そんな感じではないでしょうか。出すならやはり、こういった趣向茶碗は正客に出さないと、ですからね。客と親しき茶事なればこその、巧みな演出というものかなぁ、と、一人合点しておりました。

さてさて、どんなものでしょうか。作り手はおよそ②の反感では。客巧者なら③が多いのかもしれませんね。

勝手な解釈の上で云えば、「利休の茶」ではなく「楽家の茶」の世界でしょうか。
「淡交」は「千家・利休茶道」ですから、少し場が違う様な気がしてしまいます。

消化不良?

nijisai.jpg あれ?なんか虹彩が出てる。


takenoko.jpg よく見たらタケノコも出てる。

takenokomuzan.jpg 油断大敵、無惨で御座る。御命頂戴。

takenokohonntai.jpg 身ぐるみ剥いで・・・。

ajimi.jpg 味を確認して・・・

oeyouei.jpg 真っ二つに成敗。

takenokoryouri.jpg 御馳走様でした。



う~む。さすがに消化が悪い・・・。今年の初獲りでした。

試作色々柿の蔕

 昨日焼いたもの。

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イラボ。形は柿蔕ですが。実は三度焼。作品としては手を掛けます。
まぁ・・・、必ずしも三度焼かねばならぬものではありませんが。
ついでに云えば、こういう事をやるのは馬鹿陶芸家だけです。

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三度焼はさすがに趣味的。一度焼が基本です。本歌の柿の蔕も大小あり、色違いあり。茶褐色から明るい赤まで。好みとしては暗褐色なので、狙いはそちら。

単純焼成のものは今度の陶器祭り販売用。直売価格で送料不要。試作在庫も貯まっているので1碗につき1,200円くらいを思ってます。量産式稽古茶碗を駆逐するための尖兵になってもらう予定。飯椀に使おうが何だろうが自由。値段を上げるだけが仕事じゃない、と思っとります。数茶碗として10碗組(桐箱付)としても、二万円以下。元が量産性の高い器なので、民藝派の純思想を実践してみます。

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引き合いに出すのもどうかと思いますが、十雨さんのは20万。
有名な方ですからね。やはり物足りない感じあり。

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前にも載せた柿の蔕の本歌。「京極」と「毘沙門堂」。 本歌の良さ。 
見ての通り、十雨さんのは「京極」を狙ってますね。
 
kakihetagiron.jpg 本歌はやはり、良いですね。

色無しですが、本歌の「大津」という銘のもの。近江の都の銘。。
見たら判る様に、小生の柿の蔕の形状は「大津」を基準にしているのですよ。

作品としての柿蔕も、茶碗としては安価。陶器祭りで一緒に売ると「なんで?」と聞く人が多いので、こちらはWebの方で販売する予定です。値段差があるものを一緒に売るのって、結構難しいんですよ。

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あと・・・前回のガス窯でも焼いた南蛮手。昨今の作家物では「南蛮焼締」と書かれる事が多い。無釉。しかし最も有名なのは”南蛮芋頭”でして、それは施釉陶なんですよ。釉調は非常によく溶けていて、永き伝世を経ても鉛ガラスみたいな柔らかいテカリが出ています。実物を実見した事がないので判断は未熟ですが、個人的には芋頭が造りたいだけ。釉薬ありは、今の作家としては異色の狙いかも。手掘り粘土と薪窯の灰という、純自然物だけで構成されております。イラボも、柿の蔕も、原材料は同じです。地の土に木灰釉を掛けただけの原始陶器です。

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片身替りの三度焼。イラボでは、古いものは粉引で片身替りをしたものが多いのですが、個人的に微妙だと思ってます。単色釉の方が景観として優れていると思う。 一度やってみても好いか。粉引は調合済みですので。


あと・・・最近バーナーの調子が悪いので困ってます。一本詰まり気味。掃除機で効果なし。自分で分解してみて好いものやら、どうなんでしょうね。当面、別に残り五本のバーナーで焼けるのですが。

終わったので

ようやく終わりました。富本憲吉の陶芸思想。元々、このブログの表題であります「陶芸の思想」ってのは、こういう解題をやっていこうという目的で付けた名前で、このブログの最初の内容だったのです。専門用語も混じっているし、旧漢字などの表記もあるので、多少は編集したものの、なかなか読み辛いトコが多いかと思います。作家が勉強する内容ですから、専門的なトコは多いです。


暇に任せて、というよりは。まだ漆のカブレが痒いので、動かしていないと辛い。で、疲れ果てて寝ないと、眠れない日々。腫れは随分と収まっているだけに、何ともやるせない気分です。



とりあえず、今日からは元通りのブログに戻ります。

富本憲吉の思想 総括

窯辺雑記、製陶余録より、富本憲吉の陶芸思想を見てきました。

窯辺雑記では、彼が故郷・奈良で本格的に陶芸に取り組む頃の思想が描かれています。それまでは楽焼。30歳の年でようやく本格的に陶芸に取り組んで、陶芸の奥深さに導かれます。ただただ夢中に入り込んでいく姿。それまで彼が海外遊歴などで培ってきた「建築」という分野から来る、「形」というものを「至高」とする思想を念頭に、陶磁器にもそれを適用して美術家になるべく、大いに自信を深めています。また同時に李朝に傾倒。同じくそれを評価した民藝派の感覚を取り入れ、自然なる形、自然なる陶器というものを大切にしながら、白磁の世界を歩んでいます。

当時、京都は伝統的に絵付師とロクロ師が分業で、ロクロを別人に挽かせる事が普通の事であったわけで、「陶芸作家」の始まりとされる板谷波山などもロクロ師を使っています。絵画を書くことこそが芸術という時代なので、絵付の仕事ならば芸術として許容される素地があったわけです。しかし彼は李朝・宋白磁に魅せられて白磁に取り組みます。白磁は模様も何も無い世界です。ロクロ師が挽いた壺に、ただ単純釉薬を掛けただけの仕事では作業です。芸術家と云えないという事を突き付けられ、自らロクロに取り組む必要性に迫られます。しかしそこから、実学の大切さ、実経験無しに語る事の愚かさを発見し、それを伝えるべくして周囲を批判していきます。

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時代としては大正時代。いわゆる財閥企業に大正数寄者が現れ、没落していく大名家や両千家から名画・名宝を買い漁り、珍品名宝をずらりと並べて茶会を行っていました。茶道を率いてきた千家が没落し、茶道は大金持ちの遊ぶところのものとなってしまい、富本は「もう茶道は潰れた方がいい」という事を唱えています。

やがて大正時代が終わる頃、彼は40歳を迎え、製陶余録に記載される時代へと入っていきます。彼は故郷を捨てて東京へ転居します。東京では、既に板谷波山が名声を高め、北大路魯山人が星ヶ岡茶寮を経営して陶芸家としての名を高めていましたが、そういった中、初窯まで二年半もの空白を持ちます。その間、彼は文展に対抗する展覧会派としての国画会を創設。白磁に取り組んだ彼はいつしか模様の考案者として、陶芸家ではなく図案家として、国家的な芸術政策に人脈を築き、文展の審査員を勤め、帝国美術院の会員として認められる。敵対していた文展の工芸指揮官となり、彼は民藝派を脱退。すでに庶民的器と対極である赤絵金襴の世界へと足を進めていました。およそこの頃までが、製陶余録に記載されている頃の状況にて、次第に戦争の機運も高まって行きます。

製陶余録以降の富本氏。既に東京転居の頃から畳生活を捨てていた彼は、日本美を出発点とする思想からも離れ、洋花を絵付する事で新しい伝統模様を探り、東京芸大の教授に。二次大戦に突入して東京からは疎開しているが、、彼は戦争とは無縁に過ごしています。

既にして彼は国家的な芸術家として扱われていたのですが、彼は戦後、その改革に失敗して辞表を提出。故郷の奈良へと戻り、一度は捨てた国画会に復帰するという荒技を駆使するが、国画会は民藝派との共闘を選択。富本一派はここをも追われる事になり、新たに「美術工芸会」を結成する。この頃、彼は自分の窯をも作らずに権力闘争。作品は窯を借りて焼いており、作家性がかなり希薄となっている。その仕事は京都芸大の講師であった。

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昭和30年、戦後になってようやく自分の窯を作ったのは無形文化財(人間国宝)の第一号として認められた年であった。時に69歳である。同時に文展への貢献から、文化勲章をも受章し、国家勲章を唯一両方保持する事になり、国家を代表する芸術家として国際展覧会への出品を行った。1963年、77歳で死去。

後半生は権力闘争とも云える時代。官展に反旗を掲げて国画会を創設し、そこから官展に入り込むという芸当を。更に内側から官展を改革しようと狙うが、これに失敗。かつての国画会は”反官展”の立場から民藝派と手を組んでいたため、派閥を引き抜いて工芸会を創設。そこから人間国宝制度の創設に関わり、官展(文化勲章派閥)と日本工芸会(人間国宝派閥)の両方に人脈を持って、その思想を普及させていった。彼は一口に「人間国宝と文化勲章の両方の勲章を持つ唯一の陶芸家」と云われ、それが一枚看板として通っている。およそその背景はこういったもので、本格的な作陶期間は僅かに20年から30年程度であろうか。その称号が権力闘争の賜物である事を想像させるに十分なものである。

ざっくりと見てきたが、およそ製陶余録の時代までが、彼が本格的に陶芸に取り組んでいた時期であった。その思想は「創作」にあり、古きものを参考にせず、しかし「奇抜」に陥る事もなく、「新しい伝統の芽を打ち立て続ける事こそが作家の生命である」というもの。それは理論としては「従来のものを再生産する仕事」の否定、即ち「茶陶や民藝を断罪」するものであった。それから半世紀を経て。当初、三派閥の合議から成立した工芸展も、茶陶が細い生命を保つ程度で民藝は駆逐されてしまっている。結果的に、彼の思想勢力が日本工芸界で勝利したという構図になって現代を迎えているのである。

彼が死の直前まで握っていたものは、芸大における教鞭であった。工芸界が後継者を芸大に送り出していた時代、その後進芸術家世代に対する思想教育を握っていたのが、彼の派閥である。およそ現代の作家意識、工芸会の意識というものの方向性が、この教育によって培われたものであるとするならば、「常に新しいもの」を求める現代の芸術家意識に、何か符号するものを感じる様な気がしないでもない。ただ1つ。彼の但し書きである「新しき伝統は奇抜ではなく自然の中から感得し、努力して得るものである」という難解な部分が欠落し、単純なる「新しき伝統」として劣化して次世代に伝わった時、彼の思想の本質も葬られる事になるのである。

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製陶余録より思想を探る 其の十三

窯辺雑記に引き続き、製陶余録の読解。その13。(最終回) 

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製陶余録、第21章「千九百三十年終わる」第22章「武蔵野雑草譜」第23章「長崎雑記」より抜粋。

・柿釉を見て濱田氏の釉を使ったと云う批評を受けた。何事も知らぬ新聞記者が職業からする工芸批評のあはれな一例である。

→当時のマスコミにおける工芸の教養水準。今も、それほど大差が無いのではないか。書籍で観たり、マスコミが適当に報じているままに、作家の使う土や釉薬は独自のもので、苦労して造り上げていると思っている人が多い。しかし現実は、市販の釉薬から選んできたものを、市販の粘土に掛けて、簡単にガス窯で焼いたものが大半なのである。改めて云うが、窯元ではなく、作家の仕事の話である。借り物の釉薬を使うという事は、着物を借りてくるという事だ。

・普通、人は花をつけた草木にのみ心を惹かれるが、それは間違った考えであって、灯篭を置かぬ庭を庭らしく思えぬと同一理であると思う。

→茶の花では枝的なものも多く使われる。また、花だけでは面白く無く、やはり葉も観賞点としてかなり重要に感じられる。物事が主役だけで成立しているのではない事を、常々教えられるものである。雑草といえど、初夏には素晴らしい緑色の色彩を魅せてくれるものだ。

・歌に調子取りながら踊る様な手つきでゴム版をおす若者、此の押し手1人が、毛筆の仕事の二十人に等しき仕事の由。十九人は失業である。ここに機械が人を苦しめ失業を多くする生きた実例がある。

→今では・・・もういいか。ローラーマシンは一日に万単位の製造能力。要する人材は1人で、特殊技能は不要。対して熟練職人は削り仕事を含めて一日に500個が限界。相応の修業期間と、無駄になる粘土がついてくる。

・此の多勢の人々は、夜十時まで働き続けて、朝まで一室に寝るのである。そして得る銭は僅少である。ああこの家内工業の残留者達。彼等が此の混然たるうちに平和な仕事を続け得るのもそう永い事ではあるまい。

→何と云う希望の無い終わり方をするのだろう。彼は既にして相当に高位に登っている。陶界を指揮する立場である。そういった人物が身を粉にして陣頭指揮を取り、革命を起こさずして、誰か別の人がそれを出来るとでも思っているのだろうか。こんな事を書いて、悲嘆に暮れて著作を閉じるのであれば、いっそ書かない方が宜しかろう。彼が歴訪し、絵付けしながら廻った窯元の人々は、これを読んでどう思うだろう。彼は文章では人々を扇動し、あるべき姿を示し、現状を批判した。しかし行動として果たすべき、求められていた仕事は放棄した。それを宣言するが為に、著作を出版したのである。そして美術界は、これを名著だと云った。

この時、彼は54歳。陶器家としては、ようやく「開花」の年齢なのである。

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以上、第21~23章より抜粋。『製陶余録』より富本憲吉の陶芸思想。

日和。

今日はガス窯焚いて、少しだけロクロを挽いて。

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まぁ・・・売る場所を造らないと在庫が貯まってます。
去年の信楽祭りから、食器を売りに歩いていません。
何とかせにゃぁなりません。

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あと、昔に作った応接室。ここにあった、昔の作品を順次引き上げてます。
最近は家に案内しているので秘密の部屋になっていますね。
窯焚きの時の仮眠室になっている程度。居心地は良いのですよ。


昔の作品が・・・結構出てきたので。さて、どうしたものか。
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このクラスのものです。個展やりたいなぁ、と思っていた頃に仕舞っておいたやつ。


まぁ、とりあえず蔵に放り込むしかないですけどね・・・。

製陶余録より思想を探る 其の十二

窯辺雑記に引き続き、製陶余録の読解。その12。 

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製陶余録、第17章「リーチに就いて」、第18章「千九百十三年頃」第19章「友人リーチ」第20章「リーチ来遊」より抜粋。

・古人の「同じて和せず和して同せず」(※)という句を思い出した。他人を悪く云えば自分が偉く見えると思う人や、作品の批評に対してその作家自身が又批評の返答をする事の流行する今の世は実に、同じて和せずの頂上では無かろうか。仕事の事に於いてのみだけでも和して同せずと云いたい。
(※孔子の語。君子は和して同ぜず 小人は同じて和せず :協調関係にあっても意見を云う者は立派である。しかし、意見には同調するが協力はしないというものは下劣な行為である。)

→公開討論が流行だったわけで。声の大きい、理路整然とした者の鋭い意見に、大衆はしばしば内容の吟味無しに同調し、拍手喝采を送る。魯山人は無名・勲章無しで上がってきているが、多くの文化人と交流を行っている上に斬れ過ぎる刀を振り回しているわけで、何とも優勢であった事が推測される。現代でも、マスコミと同調した作家が取り上げられ、マスコミの底の浅い伝統論に人々が味方している。つまり富本氏は人々の「無責任な付和雷同」に怒っているのである。

・リーチは十年間の東洋生活を後に英国に帰り住むそうである。リーチを中心として何事かが生まれ出る事であろうと思う。地球の西と東に於いて此れ等が完全に出来あがった時初めて東西の融合は形づくられる事となる。然し大変である。その緒を初めたらばそれだけでその人は大変な偉い人と云わねばならぬと思う。

→国際派への熱烈な憧れがある時代。富本自身も若い頃に海外に数年間遊学した。東西文化の融合と云えば聞こえは良いが、事実は会社の合併に等しく、どちらかが食い潰されたり、対立が生じたりする事の方が多い。古くは中国元王朝や大清国、また現代中国制圧下にあるチベットやモンゴルが好い例である。ついでに云えば、日本はすっかりと欧米化した。これを東西文化の融合と云うならば、成功例という事か。富本氏の云う様に容易な事では無いし、そもそもその必要性がどこから来るのか意味がわからない。「美名に酔う」と言うが、「酒の上の話」で済む話と、済まない話がある。大東亜共栄圏構想など、この頃の日本は美名に酔っている時代ではないだろうか。

・(1913年頃を回想して)英国人である彼(リーチ)は本国を発つまで一切工芸に眼を触れなかったから、(英国の陶磁器書を見て)彼の驚きは大変なものであった。電燈の下であの書物を見入っている若い二人の眼は血走って燃え盛る焔のようなものであったろう。(1932年に書かれた回想)

→敢えてリーチに関して、民藝派にしても、富本にしても多く取り上げる傾向がある。一方で他の民藝作家である浜田や河井、柳の話は出て来ない。なぜであろうか。

・僕が東京で日本間の1つも無い新居を造った事につき何か理由があるだろう、とか、一昨年英国に送った近作を見てなぜ味の無い磁器の染付類を焼くかと書いてよこした彼の手紙に対して、返事もせずに置いてはあるが、会えば話してみたいと考えている。

→その後、会ったのかどうかは知らないが、「戦前なる時代」において、「日本間の1つも新居に無い」という生活を「意図的に」送った者が、日本の伝統工芸の旗手として託されたのかと思うと、非常に遺憾である。染付の指摘は、そも民藝は素朴なるを旨とするのに、富本の選択した技術は白磁・染付・赤絵金襴という、磁器土を扱う高級志向の器ばかり。民藝はその性質上、至上命題として日本各地に埋蔵されてる赤土の低級粘土を用い、特定の産地からしか得られない高価な磁器土を敬遠するのである。民藝に共鳴していた筈の富本は、「個人作家としての創作」という思想のみならず、磁器という技法選択にも矛盾を抱えていた。やがて民藝と決別し、更に高品位な種別である赤絵金襴へ進むのである。民藝を抱えて帰国したリーチが疑問に思うのは当然の事だろう。

・リーチが来春日本に来るという事を柳あてにいってきたというニュースが聞こえてくる。陶器家として英国よりもかえって日本でよく知られ人気がある。彼の作品は英国で作られ、作られたものは日本にやって来て一年に一度は友人達の手で展覧会が催され、国画会工芸部会員としても名を連ね、他の外国の美術家とは凡そ相違を持っている。この一文を通じて全国のリーチファンに報告することは私の義務とさえ信じられ此の文を書く。(1933年)

→なるほど、リーチはそういう人物であったわけか。これでは民藝派の広告塔である。そしてその人気者に親しきを強調する民藝作家。現実的に成功を収めた方策という事になろうか。リーチの作品には詳しくないが、おそらく見たことはある。しかし、残念ながら、記憶には一切残って居ない。普通に日本的な民藝作品を造っていたわけで、英国よりも日本で人気があった理由も、民藝派がこぞって宣伝したのも無理はない。この当時、「憧れの先進国の有名芸術家が、後進国日本の民衆陶磁器を認め、それを造るだけでなく、先進国英国で発表まで行っているのだ!」という影響力は凄まじいものだったろう。もちろん作品の輸出入に暗示される様に、この裏には日英同盟という国際政治の思惑が強く効いている。この策が非常に強力であっただろう事が容易に推測されるのである。



以上、第17~20章より抜粋。『製陶余録』より富本憲吉の陶芸思想。

製陶余録より思想を探る 其の十一

窯辺雑記に引き続き、製陶余録の読解。その11。 

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製陶余録、第14章「時計屋になろうとした話」、第15章「この頃考えている事」第16章「春芽ぐむ」より抜粋。
奈良を離れ、東京に窯を築いて以降の話。

・私は時計の裏をひらき機械を見ることを1つの楽しみとしている。少年時代は時計師になろうと本気に考えたものだ。一種の好奇心をそそり出されただけでなく、あの精密を極めた世界から美しさを楽しむということも与えられたのではなかろうか。少年はすべて、汽車、汽船、飛行機、自動車に向かって異常に興味を持つものであるが、それは単なる機械学的興味だけではないと思う。

→この論法で行くと少女はどうなるの?話になりそうです。女流陶芸作家さんが増えているけど、愛らしい食器、綺麗な食器を作られる方が多いような。それはさておき、私自身は船が好きなものでしたが、船や飛行機などの美というものは、およそ翼にしても船体にしても実用美です。「工芸ではない処にある美」の1つだと断じて問題はないでしょう。むしろ意図的に美を狙っている筈の自動車などが「作為的」な感じがしたりするわけで、現代において民藝派の主張を実感しようと思えば、機械美というのは感得するに相応しいものだと思います。個人的には、「風の動き、波の動きなどの自然工学=自然法則に従うが故に美しさがあるのではないか」、などと考えてみたりします。「自然に逆らわない形」、「自然を活用する形」という事です。

・人間は何事にも定石通りにやって必ず出来るというものにはあまり面白味がもてなくて、殆ど成し遂げ難いと思われるものに特別な面白味をもつものではなかろうか。私にとって陶器をつくるということは、定石を知りつくし三十年やり続けて、もはや熱中出来ない仕事であり、病みつきになりだした写真用レンズ製造が最高に興味ある仕事である。

→憐れむべし。宋白磁に遠く及ばぬ作品で以て、彼は得々と満足したらしい。彼の最盛期が終わった事を意味しているし、実際にそういった評価がなされている。様々、「何事にも情熱を傾けずにはいられない」という変人が陶芸家には多い。しかしこうなってしまったら伸びしろは失われ、陶器への情熱は失われる一方で、全く堕落の一途をたどる事になるだろう。不景気など、様々な理由で情熱を失い、才能を抱えたまま離脱する者は多い。それが一時的に起る事はある。しかし、発表までしているというのは致命的であり、彼の支援者に対する裏切りである。あえて援護するならば、戦争へ向かっている時に、一人安穏と陶器をしている、などとは書き辛かったのかもしれない。(レンズ光学は重要な軍事技術の1つ)

・私は陶器の装飾文様を造るのに、必ず自然から採る習慣を持っているので、冬はどうしても出遅れるけれど、これからは周りにモーティフが豊富にあるので楽しい。 大和からここに移って13年になるが、その頃の春がそのまま今だに残っているのは実に有難いことだ。

→彼は沢山の模様を造り出したが、有名なものは極めて僅か。新しき伝統模様を造ると宣言しつつ、同時に模倣してはならん!という矛盾した思想を含んでいる。それにしても、先の陶芸家卒業の如き発言の跡では、もはや何をも虚ろな言葉としてしか響いてこない。何だか文体にさえ迫力や勢いが失われている事を感じる。侘びの境地へ行くならばともかく、彼の仕事はその方面ではないのだから。


以上、第14~16章より抜粋。『製陶余録』より富本憲吉の陶芸思想。

製陶余録より思想を探る 其の十

窯辺雑記に引き続き、製陶余録の読解。その10。 

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製陶余録、第12章「東京に来りて」、第13章「感想」より抜粋。
奈良を離れ、東京に窯を築いて以降の話。

・近頃は今までに間違った無理な個性の捻出に不要な力コブを入れてきた事を思ふ。支那人は古い大家のものをしき写して、絵を習いおぼえ、大家となり堂々として一家をなし得た人物でも、誰の筆意を模すとか、或いは誰の風、誰のやり方と、1つ帖に数人の風を書き分けることさえやる。自然に出てくる創意というものについて私の考えは今変な説明し難い両頭蛇で巻きつかれている様に思える。

→何を造ったとしても、無作為にものを造る限りにおいて、そこには作者の個性が自然と出てくる。当然、それは崇高なるものでなければ名品とはならない。模倣だから駄目だとか、創作だからOKだとか、全く次元が違う。個性は出るものであって、出すものではない。この手の思想は魯山人の視点。比喩として出されているのも書の話であるし、あるいは、上京した地で活躍していた魯山人の思想に触発されたのかもしれない。彼はそれまで、民藝派に共鳴していた。

・田舎から来たらしい老女が紺ミジンの手織木綿を着ている。その傍らに若い都会人らしい女房が安い人造絹糸のショールをして立っているのを見た。人絹のケバケバしい光が、かえって周囲の光景といかにもある種の調和あるものの様に光っているのをみて驚いた。自分の感触が誤まっているのではないかを繰り返し考えてみたが、そうでなかった。手に取り静かに味わい永年用いて初めて美しさの解るようなものは、急速度の現代から死滅し尽し、人絹お時代が生命づけられているのでなかろうかと思うた。

→如何に美しいものも、あるべき場所になければ輝かない、という事がある。魯山人の食器などは美術館に飾っても、料理が想像出来なければあまり魅力的ではない。同じく、黒楽の茶碗は侘びたる茶室にこそ相応しい。西洋式の豪奢な彫刻テーブルは、古民家に置いてもその美を発揮しない。この事は、茶道の死滅と共に茶道に相応しい道具が失われる事をも示す。即ち、文化が工芸に多大なる影響を与えている事の証左でもあるし、都会的住宅に住んでいる限り侘びの茶道具に踏み込めない理由でもあろう。茶道具は、どこまでも茶道と運命を共にしてこそ、茶道具なのである。

・三越の飾窓(ショーウインドー)に並ぶ登山用具を見て思った。作為ある素朴の標本。こんな絵や陶器が世に多い。ああ作為ある素朴。

→解り易くいえば、無印である。作為ある無印。堂々たる無銘宣言。堂々たる素朴宣言。これがこれが、まぁ一世を風靡した時代がありましたが、要はそういう事です。一見して何でも無いようですが、要は民藝の打ち立てた看板、信用というものを勝手に借りて商売をしたわけです。弱肉強食に名を借りて、こういったものが、あらゆる文化を金銭に転化して、本家の屋台骨をへし折るのです。民藝という家屋が潰れた後は、また別の寄生先を探すのですよ。機械量産に商売人が結びついた時の恐ろしさ。しかしそれにしても、民藝派が人間国宝になる前、戦前から「作為ある素朴」が横行していたのですね。今も同じく、「割りました」の陶器が横行してます。「割れたもの」と「割ったもの」は、天然絹糸と人造絹糸の違いです。

・所謂趣味ある陶器が床や棚に並び、読む書物、着る衣服から室までを、現代のものを使わずに金にあかし心を労してよせ集めた古いもので飾り立てて住む人がある。この種の人々に限って、味と云うことをやかましく云う。私よりみれば、これこそ憐れむべき俗物の一種であると断定する。現代を本当に考えるならその人の云い望む工芸の殆ど全ては死んだ殻に同じく、決してこの現代に生きてはおらぬ事を知るであろう。私共と同じ方面の如く見えて、じつは遠き人々。

→やはり魯山人の事ですね。この時代は「出版物で堂々と批難合戦をやる」という面白い時代です。しかし凡そこの当時、富本の主張する陶磁器もまた、「殆ど凡て死滅」と嘆いているわけですから、およそ似た者同士です。魯氏は、冷徹な知性で以て民藝派の矛盾点を完膚無きまでに批判しており、民藝派はこれに沈黙を以て答えた、という話だったかに思うのですが、民藝派と組んでいた富本氏が黙って居なかった様です。知識人を自負していたであろう富本氏や柳氏が、ほとんど何の反論も出来ずに、「憐れむべき俗物」、「我々とは方向が違う」という、「批判にもならぬ批判」しか出来なかったというのは、何とも情けない話であります。ただこの様相を見るに、魯氏に共鳴する素質があった富本氏を突き放したのは、魯氏の毒舌かもしれません。富本氏もまた、後に民藝の思想にも愛想を尽かし、断交します。魯氏は批判しながらも、民藝活動を買っていた節があり、共闘出来た可能性を思うと、惜しい事であります。

・いかにもがき躍進を志したところで、太いものは太いように、細いものは細い様に、或いは創り出し得る人と模倣から模倣に生きなければならぬ人とは生まれたその時から決まっていると思える。42歳になって私の考えがここまで来たような気がする。

→魯氏の言葉で云えば、「わかるやつには一度云えばわかる。わからんやつには、百回云ってもわからん」という事で。「不惑」という己の年齢を意識しての決意でしょうか。作家にもそれぞれ、出来る方面と、出来ない方面があります。天分というもので、例えば富本氏が商売人をやっていたら、おそらく普通に失敗して「凡庸なる烙印」を押されていたのではないでしょうか。


以上、第12章より抜粋。『製陶余録』より富本憲吉の陶芸思想。

製陶余録より思想を探る 其の九

窯辺雑記に引き続き、製陶余録の読解。その9。 

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製陶余録、第10章「工場にて」、第11章「感想」より抜粋。
奈良を離れ、東京に窯を築いて以降の話。

・ロクロし絵付けする仕事場を飾り立てて応接室のようにしている陶器家があるが嫌いである。制作と云わずに仕事と云い、工房などと称えずに工場(コウバ)と云うのが永年の習慣である。

→大した差は無いが、名前にコダワル時もある。しかし普通の方と話をする時に「陶工」と云っても通じないので、「陶器を造ってます」と云う。それに近い。正直、同業者の間でさえ通じない事があるのだから。

・人が見ると実に楽しい仕事に見えるらしく、楽しんで仕事をしてその上にそれを売って生きていけると云う事は中々しあわせだとよく羨まれるが、私は実に不満である。如何に私が泥にまみれ、身をすり減らすようにして仕事をしているか。

→実際のトコ、格好をつけたがる陶芸家が多いわけであるが、同じく実際のトコ、泥にまみれる程にド真剣にならなければ土の事は見えてこないのである。汚れたり怪我をしたりする事を恐れていては、薪窯も十全には出来ないもの。あらゆる工芸、およそ共通してこういった性質がある様です。

・西洋画家が皿に上絵具で絵付けしたと云うものを余り多く見ないが、二三見る所では、絵具を知らず、焼付のなんたるかを知らず、実に言語道断であった。平気で焼きつけている陶器家はその罪百倍である事は論を待たない。

→ピカソと陶九郎の事か。しかし富本氏も時折に書画を書いた様だが、言語道断だと云われたらどうだろう。ためにする批判はよろしくないと思ふ。もちろん、ピカソの絵付が宜しく無かった事は、唐九郎だって指摘していたかと記憶する。それで出来れば苦労はない。

・非凡な人が平凡な事をやるのはよい。然し普通人が非凡な事をやったのは実に見苦しい。新奇な事を目新しい事と解した人が、自分を知らず、盲目に外国のものを取り入れたほど見苦しいものは無かろう。どちらに倒れたって創り出せる人なら、やり方は平凡な事であってもやった事は必ずよろしい。

→走泥社のことかと思ったが、それは戦後ですな。

・政治屋の様に久しきズルクなり切って救うべからざる人間でさえ、時には喧嘩して分裂を来たす事があるのに、一人の工芸家が最初から官営展覧会に反対してあの妥協、あの情実(縁故のこと)、あの手法本位に対し戦う気持ちを持たないのは不思議に耐えない。第一条件の衣食が彼等を先ず抑えるのか、団体で一杯になる会場を見て名誉心を起こさしめるのか、私には解らない。貧乏の事をはなれて日本の美術工芸を思う時、私の心はかなしみに満ち、自分の力の小さく不足な事をつくづく感じる。

→官展方面では板谷波山の存在があっただろう。早くも明治から頭角を現していた彼は、富本と同じ色絵の分野にて、陶芸史上に卓絶した芸術陶器を造り上げていく。それは最も彼がやりたかったであろう作品本位の仕事だった。そうして、彼は官展の領分である文化勲章の、陶磁器第一号となる。また同時に、人間国宝としては「非伝統」である事を理由に色絵磁器の認定を辞退。一方、富本は人間国宝制度と共に、その実質認定団体として日本工芸会を創設に関わるが、文化勲章は断らずに受賞した。故に彼だけが唯一の両勲章保持者となったのである。そして工芸会もまた、妥協・情実・手法本位に陥っていく。彼は一体、どういうつもりで弟子の多くを人間国宝に推薦したのだろうか。桃山復興派・民藝派との権力渦中に在って、対抗するべく勢力を強化したという見方も出来るが、それならば、彼は人間国宝を放り投げるべきであっただろう。魯山人、唐九郎といった茶道理解者は、むしろ工芸会に距離を置く事で名声を高めて行ったかに思う。


以上、第10・11章より抜粋。『製陶余録』より富本憲吉の陶芸思想。

製陶余録より思想を探る 其の八

窯辺雑記に引き続き、製陶余録の読解。その8。 

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製陶余録、第9章「窯辺随筆」より抜粋。 奈良を離れ、東京に窯を築いて以降の話。

・私の幼少の頃、農家では藁を燃料としていた。一掴みほどの藁を丸く輪にして、一くべづつ大きな竃にくべて煮焚きをする。藁火を使ってとろりと煮上げた粥が有名な大和粥で、その旨さは比を知らぬ程だ。村の人たちは三度三度その粥を食べる。火の柔らかさと、なかなか消えない火の余燼が、このうまい粥をつくるやうに思う。

→ん。何だ。旨そうではないか。ちょっと奈良まで行くべきか。ウチの田舎であれば、正月の餅は檜の薪火で焼く。表面がオカキの様になって、ガス火では味わえない旨さになる。これには驚いた。その手の旨さを想像したら、本当に食べないことには何とも云えぬ。→→現在の大和粥は「焙じ茶」で米を炊いた「茶粥」を指すらしい。別途、「藁で炊き上げる飯は旨い」という記述あり。藁は本当に柔らかい炎で、香りも少し独特。きっと、味に重要な役割だったと思うのですよ。 問題は、藁火で茶粥をやる店があるかどうか、ですな。自分でやった方が早いか?。気になる人はこちらを是非。
http://homepage1.nifty.com/yotchan/chagayu.html (茶がゆ研究室)

・こんな時代では、いつなんどき石炭も松薪もなくなるか予知出来ない。それを思うと実に不安でならないが、そうなったらその時はその時で、木屑、木の根、なんでもいい、燃えさえすればその手数はさぞたいへんなことだろうが、焼いて焼け無いことはなかろう。

→世界大戦が予感される時代にも関わらず、焼く事だけを考えている。こういう馬鹿でなければ、何かの仕事を極めることは出来ないと思われる類の発言だ。売れるとか、売れないとかで焼くわけではない。彼の陶芸狂が見て取れる、とても頼もしい名言。問題は現実に直面した時、彼は「焼かなかった」という点だけだ。ここは敢えて、決意だけでも買っておきたい。

・石炭コンロを使用してきたが、いよいよ戦争となれば石油など安々と使ってなど居れなくなる。不便この上なしであったが、思い切って薪を使う竃をそれに代え、木炭竃も使うことにした。どころが薪は日増しに値が上がって来る。

→大戦に突入する頃には、完全に窯の火は停まり、やっと焼成が許されたものが「手投弾の外殻部品」だった。並み居る桃山再興の功労者も、戦時中は火を止め、戦争に協力する事になる。軍資金を得るために模造品を由緒ある品の如くにする「偽物制作」さえ行われたと云う話があるくらいだ。その年月が無ければ、如何ほどに、桃山再興の道が進んだ事であろうか。そういった時代背景を感じさせる描写である。

・逞しい薊(アザミ)一輪、自分の焼いた白磁の壺にさして眺めてみると、貧乏も少しは忘れる、薊の一茎。

→花の美は古来からのもの。現代に芽生えた花だって、変わらずに美しい。自然は素晴らしい。

・喰うために、矢張り私も自分の考えとは正反対な陶器を造っている。口に念仏しながら猟師をしている様で実に心苦しい。考えは考えとして、口に念仏して居ながら殺生を職としている。

→正直なる告白。窯辺雑記の頃に多くあった虚栄が、東京へ来てなくなっている。豊かなる実家の奈良に、家族をも捨て、孤独となって東京へ転居する一方、戦争の足音も近付いて、薪も満足に手に入らない時代の到来。そんな彼の生活はどういったものであったのだろうか。

・用途だけで必然的に美は生まれ、特別に添加された何物をも必要としない工芸品が現れ、既成工芸品の凡てを追いまくるのも遠くはあるまい。

→突如として希望なる未来の吐露。しかし現実は厳しい。彼等が人間国宝となって一世を風靡した時代を経て、再び機械製品が圧倒的優勢の位地を占めている。陶界は、再び英雄なる人物を欲している。

・焼けつくように、焦げ付く様に、親鸞上人が山から京都に下って来た時の様に、苦しみ首うなだれて新道のために今まで積んだ自分の心に薪を燃やしつつ、死に物狂いにならないか。寒風に飛び出して自分の体に出来たその殻を血の出るまでガリガリ引き剝がす勇気はないか。「模様より模様を造るべからず。」

→おそらく、多くの人に語りかけた事だろう。叱咤激励は多くの人を動かしたかもしれない。しかし最終的に、彼は自らの理想を掲げるために、自分が頂点に登る事を決心した、という事になる。一応断っておくが、この言葉は、桃山再興などの一派に対する、創作陶器の劣勢状況。そこにぶつけられた苛立ちの言葉である。

・先ず骨董を焼き打ちし、無一物となって、なお古きものがその人に湧き上ったもの、それが本当のものでは無かろうか。苦しみを知らない多くの人々には、私の云おうとする処が如何に千万言を費やしても解ってもらえる道理がないからよす。私は骨董を排斥する。

→当初、人間国宝には富本らの創作系、桃山再興系、民芸系の三派から、選定委員の小山富士夫が作家を選んだ。最初から思想対立があった。彼は民芸も、骨董(再興系)も否定した。民藝も、創作や桃山再興を「作為的」として拒絶した。最終的に、民藝は民藝らしさを犠牲にする事で派閥を遺し、桃山系も茶陶を捨てる事で妥協を行った。成立の当初より、工芸会には「三派の思想対立」という難しい問題があったという事である。

・入場料まで払って絵を見に行く人がなくなるだろう。終いには何か音楽か手品の様なものをやって絵を見て貰う様な時代が来はしないだろうか。私だけの考えではその時代がモウそろそろ来ている。実にあはれである。

→彼は予言者か。ロクロ実演で販売するというくらいならまだしも、今の時代、何か別の手段によって陶器の需要を掘り起こす行為が少なくない。それほどに、今の陶器の美は頼り甲斐が無いのだ。京都社寺のライブ演奏もまた然り。他人事などとは言っていられないのですよ。陶器を並べて、ウンチク無用で黙って売る。それが本来のものであるが、なかなかどうして、日本の美術教育は罪な事をしてきたものである。

ん?ひょっとして魯山人の星ヶ岡茶寮への皮肉か。彼が奈良から東京に来た頃、魯山人は星ヶ岡茶寮を経営する様になり、大いにその食器制作が有名になっていく。一方の富本氏は、窯を作るだけで弐年半の歳月を無為に過ごしている。しかし彼も、どっから金銭が湧くのか、壱ヶ月~数ヶ月単位で家族旅行や窯元探訪を行っている。同時期、貧乏な中で頑張っていたのは板谷波山や若き唐九郎である。

・美も用途という母体によって産み出された美でない限りそれは皆、嘘の皮の皮という感がする。用途第一

土の性質など、生まれるべくして自然に生まれてきた特質はとても深い。茶道と云う侘びの実用に応じて生まれた竹花入。無作為と作為。その理解。「個性の表現」という母体によって茶道具を産み出した時、それはやはり、嘘の皮の皮という感がする。用途には、用途の道がある。簡単な事だが、決して疎かにしてはならない。それが「外道・邪道なるもの」と、「王道なるもの」との差異ではないだろうか。


以上、第9章より抜粋。『製陶余録』より富本憲吉の陶芸思想。

製陶余録より思想を探る 其の七

窯辺雑記に引き続き、製陶余録の読解。その7。 

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製陶余録、第8章「陶片集」より抜粋。

・凡ての工芸が道具の時代から器械の時代に遷った。陶器だけが小部分だけ道具時代を続けている。漆器は亡びる方に近いらしい。手織と機械織が殆ど凡ての人に解らなくなった。陶器でもその時が近くは無いか。

→陶器も今や99%が機械製ですね。昭和の頃は機械が開発されていなかったので、安いものでもロクロの製品が多いのですよ。他業種、漆器も本漆でさえ中国製で、偽漆やら合成木地やら。織物も糸からして中国製で、手織りのものは希少。同じ工芸という事で、話を聞けばそういった回答です。作家が頑張ってやってるだけです。でも、器械製か手作りか、普通の人には分からない時代になっています。「器械でいいんじゃないか?」と、そう云われないだけ良い時代なのかもしれません。

・転写の容易は模様の1つの資格と思う。むかしの下手物模様、あれが一般に日常に使用された頃の日本人の模様を造る能力に感心する。

→今は、およそ如何なる斬新な図柄も量産が可能です。過去の名品に描かれた、天下一名人の手による細密な絵画でさえ転写出来るのです。陶器にだって転写出来ます。彼の時代の機械能力では、単純な模様と、単純な形しか量産に載せることが出来ない時代。今はもう、当時の手製転写さえ「味がある」として立派な骨董品になっています。

・下手ものがコバルトの輸入によって毒を一部に挿しこまれた(ドイツ製の純度の高いコバルト)。機械轆轤の使用によってその手足をもぎ取られた(動力ロクロ。型を用いる。)。僅かに残った部分は所謂図案家という洋服姿の先生に完全に息の音を止められた(いわゆる陶器デザイナー)。明治から大正初期へかけての下手もの(量産大衆食器)を集めてみれば、その病歴を判然と知る事が出来る。

→但し、分かる人にしか、分からない。

・自分のやりたい事がどうも巧く行かないのに、別の人が余りに安々とやっているのを見るのは閉口だ。私は下手ものを見るとそんな気もする。その位下手ものが、私のやりたい事をうまくやり遂げているとも云える。

→下手ものに限らず、茶道具などの上手ものでも同じ事が云える。昔の人が易々と出来たものが、何故現代に出来ないのかと云われれば、我々は閉口するしかない。しかし、人間国宝が一生を捧げても古陶磁に敵わなかった。それが20世紀の陶磁史である。

・亡びかけた民族の数人を呼んで来て、都の楽堂(ホール)で着飾った男女が、輝く電燈の下で彼等の歌を聴くほど馬鹿げた腹立たしいものはない。下手ものも、人々に此の調子で弄ばれない様、私は心から祈る。

→結果から云えば、見事にこの予言も的中した。民芸品がガラスケースに放りこまれ、”絶滅危惧種”として高額な値で取引された。今は、伝統工芸が大衆と共に無く、ブラウン菅 液晶パネルの中に放りこまれ、薪窯を始め様々な工芸が”これが絶滅危惧種です”などと放映されている。そうなる前に、何とかしなければならなかった。陶界の最高位に上り詰めた者が鳴らした警鐘でさえ通用しなかったという歴史を、我々は反省しなければならない。



以上、第8章より抜粋。『製陶余録』より富本憲吉の陶芸思想。

なかなか終わらないもので

「製陶余録」が思いの外に長くなりそうです。まだ三分の一くらい。この本を開くのは二年ぶりくらいでしょうか。富本氏の書き方も皮肉が多く記載されています。私も様々、過去にザックリと、窯業界の問題を様々提起してきましたが、そういったものを改めて記載している様な処があります。

問題提起、などと偉そうな言い回しをしましたが・・・。およそ、色んな方から聞いて来たものや、自分で調べてきて行きあたった事、窯元経営者から聞いた話、百貨店のベテラン販売員さんから聞いた内情やバブル時代の茶道具の話、などなど。多く、実は当事者の方が「自らの業界として清浄化せねばならない問題」として認識し、悩んでいるもの。そういった悩みを聞いて、それを問題提起という形で記載してきたものです。

色んな話を聞いて、「それは許せない!」と、私も若さに任せて激情を誘発される事が多くありました。およそ、陶芸というものに関わって仕事をしている人々は、一種の抑圧された生活であるわけで、自由とは少し異質な、囲い込まれた世界です。多くの方が問題を知る事で、少しでもそういった状況が改善されて、抑圧されてきた人々が解放されるといいなぁ、と思いながら、少々痛烈な表現で批判を掲載して。

通常記事では矛を収めることにしております。今しばらく、小生の高座に御付き合い頂ければ幸いに存じます。

製陶余録より思想を探る 其の六

窯辺雑記に引き続き、製陶余録の読解。その6。 

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製陶余録、第6章「白磁の壺」、第7章「我等の工芸」より抜粋。

・壺を見る上で最も肝要なことは、その壺の形であり、釉や模様は本体である形の上を飾るに過ぎない。形は生命の源泉である。模様や色で飾られた衣服を脱ぎ棄て、裸形になった人体の美しさは人皆知る処であろう。あたかも白磁の壺は人で言えば裸形でその美しさを示すものと言えよう。

→白磁は磁器土の扱いが表に出る厳しい世界。単一色のものはすべからく苦労する。特殊で豪華な服、綺麗な化粧をしている方が判り易く美しいというのは、大衆の偽らざる感想でもある。白磁や焼締は、「化粧さえ出来ない器」であると思うと判り易い。化粧しないでも通用するだけの本質=「器の形」が要求されるという事である。

・先頃、コーヒ茶碗(珈琲カップ)を作った。茶碗を取ると匙(スプーン)が(コーヒー皿の)真ん中へ滑り落ちてくる。茶碗を置く度に不便を感じた。用途を考慮に入れぬ工芸は有り得ないと私は思う。

→その通り。肝要なのは用途です。美術館に展示する用途に対しては「スゴイ来歴」が実用的機能。茶の湯においては「侘びの有無」が実用上の重大観点。大衆食堂では、「割れない事」が実用機能なわけでプラスティックに軍配が上がったわけです。 コーヒーカップも、それが「自己満足感」を用途とする限り、スプーンが落ちるなどと云う事や、使ってみて不満に思って棚に仕舞われる運命にあるという事は、正直どうだっていいのです。「自己満足感」さえあればいい。そんな器が主流になりつつあるような気がします。余談で言えばプラスティック食器。あれは一種、客を赤ん坊扱いしているみたいなトコがあります。判らんではないですが、嫌いです。「用途」ではなく「金銭」を考慮に入れた器という感が強いですよね。

・展覧会だからとて作の大きさを競う事はない。小さくても会場で見劣りがするなどとは考えない。反対に色を強くしたりなどする当て込みの会場芸術は排斥する。

→残念ながら、彼の思想は受け継がれなかった。展覧会では、「大御所以外」は最低40cm以上の大作でなければならないという不文律がある。展覧会によっては、記入寸法単位が「メートル」である。茶入を出品しようものなら、「0.083メートル」などと記入する事になる。「大御所以外」 は、歪んだものや茶道具を出してもバッサリ落とされる事が決まっている。以下は憶測であるが、大御所が毎回茶碗を出してくれると、審査員は「大御所作品に落選の印を押す」という「派閥における重大事件」を回避出来る。大御所が大壺ばかりである際には、作風が変わると区別出来ず、「同系統の無名作家品が突如として入選し、作風を変えた大御所が落選」という事態が起きる。時折観測されていると思うのだが、おそらく私の勘違いであろう。何十年も特定の派閥からしか入賞者が出ていないとか、茶入・茶碗の入選者が必ず特定作家である事なども、きっと公平なる審査の結果なのだ。

展覧会の目的はなんだろう。大作を端正に造り上げる技術は大切だし、素人には出来ないものだ。しかし結局、名誉を与えるために、また、名誉を受け取るためにあるのだろう。この認定が無ければ茶道具が売れない時代もあった。美術家が茶道具というものを茶道から切り離し、茶という名前さえ玩具にする様になった一因に、この展覧会が大きく関わっていった。権力・名誉・金銭の揃い踏みしたる処において、人間の堕落せざるは稀なるものと思うべし。それは中華王朝が数千年の歴史で証明してきた事実である。


以上、第6~7章より抜粋。『製陶余録』より富本憲吉の陶芸思想。

製陶余録より思想を探る 其の五

窯辺雑記に引き続き、製陶余録の読解。その5。 

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製陶余録、第5章「陶器雑感(二)」より抜粋。

・明朝のものと清朝のもの。単純な焼成法、只それに深く入り込み、完全な駆使によって現わされたものに優品の多いのは歴史の語るところである。陶器家の注意を要する点と思ふ。

→核心的な視点。およそ素人流には、「多岐に渡る技法を習得して駆使した」などと尤もらしく書かれたものを信用するが、伝統系作家の間では単純に「何でも屋」として揶揄される。「斬新な造形で云々~」も同義である。突出して優れたるものを造るには、主軸たるものを追いに追う姿勢が無ければならない。伝統系作家の常識。深きに潜る事に何十年の歳月を傾け、誰もついてこれない程に尖鋭化したものが「歴史上の優品」となる。それが伝統作家の条件。そういった「突出」の無い者は尊敬されない。ヒラメキとか斬新というものは、そもそも相手にしていない事が多い。

・このあたり害虫であるコオロギを、百姓たちは枯れた蔓類を畠の中央に集め、先づそれに此の虫を誘い置き、突然周囲から火をつけて焼殺する。

→田舎で端然としていると、自然の脅威に呑みこまれてしまう。常に雑草が田畑を脅かし、果ての作物を何十匹という野生動物の群れが食い散らかしに来る。山中に在りし陶工は、そういった中から薪の扱いに習熟していったのだろう。それにしても、さすがに大地主たる庄屋さんは気楽なものだ。

・私共がやっている、出来得る限り器械力をさけてものを造る事が、1つの罪悪として一般に認められる世が、余り遠くなり事を私は予感する。取り越し苦労であれば、いや恐らく取り越し苦労にはなるまい。

→彼の予感の通りになった。薪窯などはその最たるもの。金銭と手間をかけて、歪んだ陶器を造り出すなどという仕事を、「資源の無駄」、「環境に対する害悪」などと指弾し、馬鹿にする陶芸作家も多い。環境に於いては寧ろガス窯よりも優れているが、それを理解する者は少ない。人々の要求は高度だ。「端正なるものが機械生産」と知るや否や「手作りがいい」などと翻すが、「手作りの歪み」に遭うと「重ねられないし不便」であると云う。近年、それに応えるものとして、機械製の「均一に歪んだ陶器」が開発され、既に大量生産されつつある。これはプロから見ても手作りに見える。しかも重ねられる。機械を駆使する事こそが、大衆の求める要求を最も確実に、そして安価に対応出来る手段。大衆は、「現実的に器械を使うしか選択の余地が無い処」まで窯業を追い詰めていった。今となってはロクロを挽く窯元は僅少。体裁上行ってはいるが、利益としては計上されていないだろう。数百年の歴史を誇った「ロクロ師」という職業が、「器械の方が安く早く巧い」という理由で、ここ10年の内でほぼ消滅したのである。大衆は温情を以て悲しむが、結末は得てして冷酷である。今現在、その器械を操作し、日本の誇りたる変幻な食器を製造しているのは日本人でさえない。アルバイトの外国人労働者なのである。

・仲秋の満月が東の松林を離れ、雲の無い青空に浮かんでいた。私は月を見る処の風流気もなく、只一心にこの大物を失敗すればという事におされる様な気持で、薪の燃え方や、煙の出かたに注意を集注しつくし、月のことなんか一切忘れて十一時まで作業し続けた。

→職人仕事といっても風流なものではない。日々勤労されている方々と同じく、眼の前の仕事に全力を傾けるものです。疲れて一息ついた時、美しい夜空が待っていてくれるというのは、何とも慰みになるものではありませんか。今や芸術家と呼称される我々陶工も、その多くは日々を風流に過ごしたいと願う仕事人なのです。


以上、第5章より抜粋。『製陶余録』より富本憲吉の陶芸思想。

製陶余録より思想を探る 其の四

窯辺雑記に引き続き、製陶余録の読解。その4。 

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製陶余録、第4章「陶器雑感(一)」より抜粋。

・二百回ののち陶土が砲弾型となる頃、若者といえども顔赤く息切れ、額に汗するを見るべし。

→土練りは右100回に左100回が職人原則。こういうのは基本的に口伝になっている事が多い。弟子にやらせる場合に厳守され、彼もまた、若者にさせていた様である。つまり、自分で練る場合は回数が減るものだ。腕に力がつくが、しかし冷たさには勝てないわけで、冬はこの作業が辛い。

・直接陶器したる事なき人と、この(窯詰め)作業の困難さを語り得ず。又信楽、有田などの陶業地は我等の如き小窯の苦しさを語るべからず。熱の高低が前後の位置の高低によりて生じ、器物の大小高低がサヤの容積の関係にて変化す。心の苛立たしさ、語る由無し。

→実際のトコは、信楽などの大きな登り窯でも温度差がある。大体、詰めるものが決まっているので人海戦術でサッサと詰まるのである。窯も大きいから、立ったまま通れる。温度が低くなる処には、低い温度で掛ける釉薬が用いられている。しかし作家の方は、多種の品種を詰め無ければならないから、非常に手間が掛かる。また更に言えば、窯の中は天井までしっかりと詰め無ければ温度が上がらないため、嵌められる物が決まって来る場所が出てくる。空隙は基本的に許されない。だから、頭脳を使ってパズルを行うわけだ。サヤを使う場合はまだいい。伊賀に於いては、その置き方によって自然釉の降灰量が変わる為、更に複合的な思考を要求される。臥翠窯の場合、這って窯の中に入るのだから一苦労である。現代式に云えば、ガス窯→登り窯→穴窯(サヤ有り)→穴窯(サヤ無し)の順になるだろう。

・進め投げよ、火を見よ、煙突は高鳴り、汗は眉を越えて眼にしみ入る。窯は白熱す、我ら粗野ならざらんとするも、得べけんや。

→薪窯における攻め焚きの事。一種の戦場となる事も多い。1300℃の炎に平然として対峙するには、炎や痛みに対する恐怖を払い除ける必要がある。疲労と共に、粗野になる事でそれを達する事も多い。数分に一度の作業。窯を開けた瞬間に中を確認し、その状況に応じた投入を即断する。それはとても静かな仕事であるが、一歩間違えれば危険なる事は承知の上で、神経は逆立っている。大人数で交代しながら、疲労も無く見学者を交えてガヤガヤやる処もある。しかし窯場というのは火の神との対峙。元々は神聖なる場所である。趣味ならざる処では見学を謝絶するものだ。

・開窯の結果よき時は当たり前なりと思い、悪しき時は先づその金銭の損失を如何にして補給すべきやを思い煩う。未だ熱ある窯に栗、銀杏など焼きて子供らと楽しむ。

→安定度の高いガス窯でも、窯の蓋を開ける時は不安なものである。しかし凡そ、結果は見えているものだ。薪窯ではサヤを使ったとしても不安定要素が高い。ただ、彼の白磁で云えば透明釉であるわけで、黄瀬戸が青磁になったり、その逆に青磁が黄瀬戸になったりする事はない。比較的安定なるが故に、「よき時が当たり前」という事になる。平穏なる時に神が不要の如く扱われるのに似ている。窯焚きの前には火の神に祈っているのだろうから、良好なる結果は神に感謝したいものだ。


以上、第4章より抜粋。『製陶余録』より富本憲吉の陶芸思想。

製陶余録より思想を探る 其の参

窯辺雑記に引き続き、製陶余録の読解。その3。 

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製陶余録、第3章「模様と工芸」より抜粋。

・私自身の模様を見る時以下の事を念として取捨する。模様から模様を造らなかったか、立派な古い模様を踏台として自分の模様を造りその踏台を人知れずなげ散らして、さも自分自身で創れた如く装うては居ぬか。もし他の人に未だ解かって居ない様なものでも、或いは一部の開削だけで出来た場合でも、思いきって原稿を捨てる。

→有名なる「模様から模様を造らず」の宣言であり、この思想は現代工芸の基礎となっている。簡単に云えば、オリジナルとは何か、という命題に対する回答である。当時も、現代もそうであるが、例えばペルシアの銀製品を陶磁器で作って素知らぬ顔で発表してみたり、古陶磁の名品を模倣しただけのものを、さも知らぬ顔で個展に並べるという事が行われている。この時、富本氏はそういった事の一切を否定し、自らの創作を掲げ、それを新たなる伝統と考えた。対立する思想は魯山人だ。古陶磁というものを踏台ではなく神棚に載せ、あくまでそれに敬意を払いながら、その道を外さぬ中で生まれるものを新しい伝統と考え、新しい食器類を開発していった。現代に伝統を標榜する人間国宝会派・日本工芸会は、創立時でこそ茶陶作家を招聘したが、最終的には富本の思想を採用し、古陶磁の匂いが強いものを却下する様になっている。

・骨董の貝殻が工芸家の全身を包み込む程恐るべきことは無い。造るに容易であり、衆愚の眼に適切であり、食うにはたやすく、名誉を得ることも非常に早い。

→当時の流行は骨董、及び名陶の技術再興であった。名陶の再現程度は充分では無かったものだが、衆愚の眼にのみ、それは再現として映った。そういった器がマスコミの手で踊り、百貨店の自作自演に踊らされ、富裕家の投機対象に仕立て上げられた。故に、金銭を得る処も非常に大なるものがあった。千家十職という言葉が百貨店によって命名された事実は隠れもしない。人間国宝になれば価格が10倍になるという伝説は、正に百貨店自身の自演であった。名誉(人間国宝認定)が、観光行政や、政治家、官庁との金銭取引によって行われていく。しかしまさか、その発生点に彼が座る事になろうとは、彼自身、思いも拠らぬ事であったのかもしれない。彼に連なる者が名誉を得て、食うに容易い生活を得る事になるのである。それはこの当時に抱いた悔しさに起因する反動なのだろうか。 ついでに云えば、「造るに容易」と言いながら、彼の倣古作は到底、本歌の足元にも及ばないものであった。古陶磁の再現は容易ではない。彼は一体、何を見ていたのだろうか。見えていたならば、上口愚朗が指摘した如く、「再現は充分に為されていない」と叫ぶべきであった筈であるが、彼にはそれを叫ぶだけの腕前も、考えにくいが、更には眼も無かったという事だろうか。

・利休の精神には陶器を愛する為の標準となるべきものがある如く考える人が多い。茶道の精神は立派なものであるが、その当時を背景として有用であって、現代では役立たぬものと思う利休が夢にも見なかった現代、その現代で役に立たぬ銘刀を振りまわすよりは、一発で数千人を殺しうる大砲を研究して日本を守るべきではないか。

→それこそ、利休の精神は現代にも有用だろう。刀は時代遅れかもしれぬ。だが、その誇りが日本人の文化を象徴し、世界に冠たるものとしたのだ。銘刀は時代を越えても銘刀である。大砲の方が有用であるからといって、誇りとすべき銘刀を捨てるべきだろうか。別の言葉で言いかえれば、大砲は「実利」である。彼は商業陶器を批判し、精神崇高なる陶器を「是」としながら、ここでは全く逆の言葉を発している事に気付いていない。非常に感情論的である。彼は残念ながら茶道の上辺だけを見て判断したのだろう。結果から云えば、この後に起る二次大戦において、世界が驚いたのは科学技術、そしてその背景に在る日本人の精神だった。その職人的気質精神があってこそ、高度な科学の開発、耐え忍ぶ日本兵や国民という事になる。精神こそが資源である。大砲がいくらあっても、人間が堕落してしまえば大砲なんか当たりはしないのだ。いささか精神論的だが、日本文化の本質はそこにあると思う。日本の勤勉なる性情がどこから来ているのか、そしてその成果は何か、よくよく考えた方がいい。護るべきは大砲よりも銘刀である。人は石垣、人は城。人間が駄目になればどうなるか。如何に堅固な城も、内側から門が開かれれば落城するのだ。



以上、第3章より抜粋。『製陶余録』より富本憲吉の陶芸思想。

(対話の筈が、ここ数回、「富本思想を斬る!」みたいになってます。すいません・・・。)

論者:近江の苔

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。かつて古伊賀が焼成された集落に近在。詳細はWeb・交通案内記事など。

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