• 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31

老子読解 その八

よし、老子の勉強をしよう。

>
微明第三十六
之を廃せんと将欲せば、必ず固(シバ)らく之を興す
>

衰退の前には隆盛の時期がある。陶芸史などでもそうであるが、伝統工芸全般に於いて、常に隆盛していたものというのはホトンド無い。十数代を数える名家といえども、多くは江戸時代に衰退期がある。歴々たる茶道宗家なる千家でさえ衰亡の危機があった程であるからして、何事も一時の隆盛ばかりを夢見ていては難しいのだろう。最近の陶芸史に於いても、例えば21世紀の前半は凄まじいまでの瀬戸窯隆盛期であるが、21世紀の末、バブル期を過ぎて自らの膨張を制御しきれず、以降は墜落するが如き凋落の憂き目を見ることとなった。バブル期を経て、その過剰なる大量生産技術が機械と共に中国に渡り、日本どころか世界の窯業を苦しめている。目先の利益に囚われてしまう事の愚かしさであろうか。

>
為政第三十七
欲せず以て静かなれば、天下将に自から定まらん
>

無欲に、鎮かにしていれば天下は自然と安定に向かうもの。先の三十六の例を見ての様に、淡々と自分の手仕事を守っていれば今の凋落も無かったであろう。あれよあれよと、作れば売れるというような時代に任せて好き放題をしてしまった結果が現在のもの。町や村にそれぞれ小さな職人が居て、それぞれの領分で仕事をしていた時代であればこそ、天然資源である良質粘土の枯渇など生じるわけもないのである。この緑豊かな日本で山林資源が枯渇したことがあるわけだが、やはりこれも戦国時代の大量消費。田舎の役所は人口増に躍起になって、新興住宅地の開発にいそしんでいるわけであるが、税金が欲しいがために街並や住民環境は悪くなる一方である。伝統的な木造住宅の衰亡も同じ理由だったという話であり、まぁともあれこの手の切り口が色々な伝統を破壊してきたのである。明治維新とて、古来の日本文化を捨てずに改革出来ればこそ最上であっただろうことは言うまでも無いだろう。古来の寺社仏閣仏像を壊したあの革命が、「西洋的な観点では理想的な革命」であるらしく、今も左様に歴史教科書では教えるわけだが、さてどうだろうか。

>
論徳第三十八
上徳は徳とせず、是を以て徳有り。下徳は徳を失わざらんとす、是を以て徳無し。
>

自然に振舞って徳に叶ってこその仁徳。仁徳者として人に認識させるような行為は本物の徳ではない。茶道にも「叶うはよし、叶いたがるは悪し」と云う言葉を聞き及ぶのであるが、おそらくこの思想が根底になっているのだろうかと思う。茶陶にも「無作為」と「無作為の作為」の違いが指摘されるもので、非常に難解なもの。上辺だけそれっぽくするのは容易であるが、淡々と作って自然とにじみ出るようになるまでには遠い修練が必要だとされるもの。現代は「上辺さえよければよい」として、ちょっと「見分ける力」の欠如を感じるといいますか、見る方もネットやらの即席知識で色々なことを知ったつもりになってしまう面がある。そんな時代だからこそ大切にしたい言葉でしょうか。

>
法本第三十九
玉の如くならんと欲せざれ。落々として石の如くあれ。
>

栄誉を求めることなく、路傍の石の如くなろうとすべきである。宝石は確かに美しいもの。しかし路傍の石、例えば御地蔵様、また古い寺院の苔蒸した燈籠石も劣らずに美しい。桜の華やかさに対して枯淡の美を賛美するのは茶道の特権と思われ勝ちであるが、思想原典とも言うべき老子にしてその思想を見出す事が出来る。「落落として」とは枯れ果てた状態の事を示すものであるそうだ。その賛美が仁徳、道徳へと繋がる道であるという点、全く道教と茶道は軌を同じくしているように感じる。

>
去用第四十
天下の万物有より生じ、有は無より生ず。
>

全てのものは無(道)から生じている。茶道というものは奥深いもので、様々な自然からも道徳を学べと訓えてくれる。そうして実際、例えば苗1つにしても、若い頃に添え木をしてやるだけで真っ直ぐに伸びるし、樹木も不要な枝を払ってやれば高く太く成長する。人間だけが道徳だのを心得ているわけではなく、むしろ自然に学ぶことは多くして、「人間どころか、万物にこそ道徳が在る」と言われれば、なるほど感心し、学ぶ様になったこの頃であります。最高の美にしても、多く自然のものが最高美を持っています。日々変化する青空、夜の星空、風の音に気温、虫の音。歴史を越えて愛され、いつまでも変化を失わないもの。誰もが毎日眺めることが出来る。何も代価は要らないし、それぞれの場所に、それぞれの青空があるわけです。なんと贅沢なものでしょうか。その上にして、そこには学ぶべき道徳が在る。これこそが老子道教の思想の根幹でありましょうか。


今日はここまで。

老子読解 その七

たまには老子の勉強を。

>
偃武第三十一より抜粋
兵は不祥の器、君子の器に非ず。
>
偃武とは「武を休める」の意。「武器というものは不吉な道具であり、止むを得ず用いる道具である。」という辺り。現代も随分と強権発動と申しますか、弱肉強食と申しますか、相手を攻撃する事で自らの目的を達成するというコトが、まずまず「当然の権利」の如くに横行していることを感じることがあります。商売1つでも、近江商人的な三方良しではなく、相手の弱点を突いて、例えばコンビニ1つにしても、家電量販店にしても、共存という世界ではないようで、わざわざに近接して店を構える事例が、どうも田舎でさえ見られる世の中。著名作家、売れている作家の作品を模倣して、より安価で販売する。こういったコトも日常茶飯事です。それぞれが、それぞれの腕を磨いてこそ、名工の多き時代となるのでしょうね。

>
聖徳第三十二より抜粋
候王若し能く之を守らば、万物将に自から賓せんとす。
>
「道を踏まえて行けば、万事がうまく運ぶ」という辺り。王や候、現代で云えば大臣や知事という辺りでしょうか。高い地位に在る人が道を踏まえているかどうかというものが、老子の思想では非常に重要視されています。現代の政治家さんにも道を守って、信頼されるべく道義を大事にして頂きたいものでしょうか。実際、日本にせよ中国にせよ、過去の大半の歴史に於いて、政治を任される者というのは道徳学問の探究者でありました。実際色々と思うのですが、例えば工芸界1つを取って見ても、大きな権力を持つ方々が子弟の引き上げに注力したり、自己の好む系統ばかり、また対立派閥の意図的な妨害など、惜しむらくは様々な側面があります。「上座に据えるべき人物を誤まると、万事が逆に滞ってしまう」と解釈することも可能でしょうか。

>
弁徳第三十三より抜粋
人を知る者は智、自らを知る者は明なり。人に勝つ者は力有り、自らに勝つ者は強し。
>
他人の事を知っているよりも自らの事を知る者こそが本当の知者であり、他人を打ち負かす力持ちよりも自らに克つ者こそが本当の強者である。という辺りでしょうか。禅は自己修養を基本とし、他者への祈祷なども行わない。何より自己修養。そういった思想の根源を示している文章かもしれません。三十二の文言と合わせれば、自己の徳道を守る先に、万物の慈雨を見ているという話。自分の事というのは指摘されなければ分らない点多くして、自らの欲望にもなかなか打ち勝てないという日々。こんなことではイカンのでありますが、なかなか難しいもので御座います。

>
任成第三十四より抜粋
聖人、終に自ら大とせず。故に能くその大を成す
>
以前にもこの問答は在ったかに思います。大きな功績を得ても尊大とならず、功も誇らないでいてこそ、聖人として大道を成すことが出来るという話。陶芸では「無作為の作為」が相当するもの。自ら無作為を狙えば、それは作為。無作為を狙わずに、ただ淡々と自らの眼を磨き、腕を磨いていく先に、「本来の無作為なる美」が宿るものでしょうか。昨今は芸術的な観点から個性だの創作だのと申しますが、狙い澄ましている限り、言葉ばかりを並べる限り、また上辺ばかりの無造作を無作為と言い換える始末。ここに於いて、さてさて歴史的な名品の如きものは産まれる筈もなし、と、そういったコトを想うのであります。「成るに任せる」という章で在ります。

>
仁徳第三十五より抜粋
楽と餌とは、過客止まる。道の口より出づるとき、淡としてそれ味無し。
>
人々の耳目を集め、立ち止まらせるもの。楽曲に御馳走。西洋風のレストランには美味なる食事に流麗なある音楽が鳴る。華美な装飾に人々は喜び、平凡な黒一色の色彩には見向きもしない。得てして国宝を始めとする茶碗にせよ、全く地味なもの。仁清などの装飾ばかりは喜ぶ一方で、なかなか黒楽や井戸茶碗の美を喜ぶ人は少ない。儒教論語が日本の教育から去って、果たしてこういった美学を理解出来る人々が今後どれほどに育ってくるものでしょうか。「長次郎の精神美」などという話を、どれほどの若手陶芸家が理解しているでしょうか。でも実際、人々が足を止めるものが、年々と華美なもの、楽しいもの、娯楽性に富むものへと流れております。「時代に適応する」などと言えば聞こえは好いのですが、果たしてこのままでよいものなのでしょうか。最近は「淡」という言葉の奥深さが、浅いながらに少し見えてきたように感じます。


老子読解 その六

夏の勉強を少し。

>
重徳第二十六より抜粋
軽ければ則ち臣を失い、噪がしければ則ち君たるを失う
>
解説に拠れば、「樹木に譬えれば軽々しいモノは枝葉であり、重々しいものは幹であり根である」という説明となっている。陶芸に於いても、いたづらに軽々しいものを作るよりも、やはり珍重されてきた名品には重厚感のあるもの、存在感が根を張った様な名品が多く、昨今近現代らしい作品にこそ喧噪に溢れんばかりのものが含まれてくる。

>
巧用第二十七より抜粋
聖人は常に善く人を救う、故に棄人無し。常に善く物を救う、故に棄物無し。
>
陶芸も全ての素材を活かしてこそ最高のものが出来て来る。例えば土味を最も引きだしてくれるのはホトンドの場合に於いて薪の炎である。「巧く用いる」とは、「技術そのものの巧拙」より「技術の用い方が巧い」という面を重要視した方が、より名品の存在に近いものが出来て来るように感じる。目の前の土を活かしたものを考えること。自分がやりやすい土だけを選別している限り、自分に合った土しか用いるコトが出来ず、精製された工業粘土ばかりを用いることになる。現代の陶芸家は技術の「応用力」の面で著しい退歩を見せつけている。

>
反朴第二十八より抜粋
常徳すなわち足りて、朴に復帰す。朴散ずれば則ち器と為る
>
解説によれば朴とは材木そのものであり、素朴なることの意。切り出された材木を加工してこそ器になる。聖人は自然の木のままの朴に還った人のことだと論じている。世の人々は「加工された器」であり、それを用いるのが聖人の役割であるとされている。ここで重要視されているのは、一度器に削りだされた者が、「朴に返る」こと。茶道で云う「稽古とは、一より習い手て十を知り、十より帰るもとのその一」という言葉であるが、道の根本は常に枝葉ではなく根幹に在るが、しかしそれは一度「十に到達して返って来たもの」である点が指摘されている。苦労なくして名品の上辺だけを模倣しても、なかなかに巧くは出来ないものだ。

>
無為第二十九より抜粋
聖人は甚だしきを去り、奢を去り、泰を去る。
>
甚だしいこと、奢れること、驕慢なことから身を清めるというのは、聞くならく茶道を修める目的であると聞き及ぶのであるが、正にこれに合致するものだ。これは茶道者としての心身のみならず、器に於いても同じ。甚だしい華美や行き過ぎた軽量化を嫌い、豪奢な素材や絵付けを避け、謙虚な姿の色形を尊重するのが茶の器であろうか。

>
倹武第三十
道を以て人主を佐くる者は、兵を以て天下に強くせず
>
君主を補佐する者の心得。現代式に云えば「兵」は権力や金銭に相当するだろうか。そういったもので天下の名声を得ても、それは本道ではなく、早晩に亡びるものだと説かれている。茶道でもそうであるが、権力者の華美な茶道は廃れてしまって、利休の提唱した侘び茶道だけが脈々と生命を保っている。その道具は、金銭に任せたものでもなく、名誉に溢れた逸材でもない。表題は「武をつつましくする」という意味になるが、利休の名も「利(鋭利)を休ませる」という意味であると聞き及ぶものだ。

本日は以上まで。
論者:近江の苔

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。かつて古伊賀が焼成された集落に近在。詳細はWeb・交通案内記事など。

記事内容の分類
過去の記事(月別)
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
来訪者数(2006.5~)
LINK
リンク
メール送信はこちら
・来窯時などに御使用下さりませ

御芳名:
貴アドレス:
本文の件名:
本文:

不在時・繁忙期などは返信が遅くなる事もあります。悪しからずご了承下さい。もちろん、迷惑メールは駄目ですよ。