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柳宗悦『茶と美』読解。28

『茶と美』読解。28
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⇒初版本第十三章(最終章)『陶磁器の美』抜粋と雑感 その4。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

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陶磁器は色においても美の心を示さねばならぬ。今日まで特殊な素地と釉薬とによって、最も美しい色を示したのは白磁と青磁とであろう。これは私には磁器の色の絶頂だとも思える。続いて私が好むのは「天目」の黒や「柿」の褐である。これらの単純な慎ましい色調こそ最も驚くべき美の贈り手である。
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色にも一般に「深み」というコトを云う。西洋式の顔料を用いたものには色調しか存在しないが、日本の美に於いては墨絵に代表される様に、濃淡や奥行きというものが大切になる。加えて墨の色彩が追及されるのは当然の話だ。これらは絵とは別の次元で評価される。どんな墨の色が素晴らしいものであるか、という探求は、色の探求に同じく、釉薬にも適合する。ここで彼の云う白磁や青磁とは、宋代や李朝の青磁・白磁を云うことは言うまでも無い。

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人は白や黒をただ一色よりないと思ってはならぬ。またそれらを最も色に乏しいものだと思ってもならぬ。白でいうならば、純白があり、粉白があり、青白があり、灰白がある。それぞれのものは異なった心の世界を示すのである。もしもこれらの至純な色の神秘が解けるなら、人はさらに多くの色を欲しないであろう。美への心が進むにつれて、人はいつもかかる至純な色へと帰って来る。
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青磁が高級品であるのは、宋がその模範として官窯青磁の至高を具現化したからに他ならない。白磁も定窯や李朝の白磁なくしては、その美を讃えられることは少ないであろう。何も最高の色を追い求めるのは現代の特徴ではない。遥かに800年も前の時代に完成され、未だにそれを再現することさえ出来ていない。もちろん純白における最高のもの、粉白による最高のもの、などなど方向性は様々であるが、種類だけでなく、よい色という「深みの程度」という尺度も存在する。結果、白一つでも無限に近い結果が導き出されることになる。白ければ何でもよいのなら、低質な磁器を買えばいいし、更に云えばプラスティックで構わないだろう。しかし実物を眼の前にすれば、人はより深い色を選ぶ。色の判別に於いては、注視する癖さえあればそれほど難しくは無い。春の青空と、夏の青空と、秋の青空と、冬の青空。これが見分けられるのであれば、そのまま陶磁器に適用するだけの話だ。花の色彩にこだわる人も居るだろうし、そも自然の色彩はどれも屈指の彩りを持っていて、人工の追随を許さない。赤であれば、畑のトマトの色彩などは唸る程に深い。野菜などの植物でさえそうである。我々は経験的に、最も優れたものを人生で見慣れてきている。美術品に囲まれて育った人物が美の感性を養えるのであれば、それこそ人類は美の宝庫に暮らしていると言っても過言ではない。特に田舎の自然風景というものは格別のものだ。

柳宗悦『茶と美』読解。27

『茶と美』読解。27
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⇒初版本第十三章(最終章)『陶磁器の美』抜粋と雑感 その3。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

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その美を形造る根本の要素はいうまでもなく「形」の美である。貧しい形はその利においても美においても、よき器となることはできぬ。ふくらかな円みや、鋭い角や、厳かな胴や、これらはすべて形の変化によって産み出される美である。
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表面的なものと、本質のもの。例えば花入と花では、本質は「花」になり、従属して「花入」が存在する。茶碗と茶でもそうである。棗と茶でも同じく。更に道具そのものの中でも、一定の序列がある。陶磁器であれば、第一は「形」。装飾、即ち「着物」である釉薬は第二義である。「器は料理の着物」と云う様に、料理のために器があるのだから、褒めるべきは料理の見栄え、その感覚を踏み台にしての賞味であろう。器を誉めるとすれば、その後の話。同じく、陶磁器において、まず最初に見るべきは「形」というコトになる。

塗師さんに聞いて驚いた話があるのだが、塗器は基本的に分業である。よって塗師は棗にしろ造形に関与する部分が非常に少ない。というか、選ぶだけの立場に在る。蒔絵師ともなれば、真塗の下地大半の部分は塗師が行っているわけで、表面の蒔絵だけを施していくことになる。最後の表面を塗り上げた者の名前が作者となる。しかし棗も、やはり本質は「形」であると聞く。第一に見るべきは「形」。塗りでは無く、蒔絵でもない。「形」の良否。実際、中棗一つでも良否は存外に多い。「伝・利休所持」の棗も形は様々であり、必ずしも型紙で遺されているものばかりではない。その形の線は微妙に異なっている。加えて、「特別に素晴らしい塗りが施されているわけでもない」という話も聞く。塗りモノに関しては、まだ良否を評価できるような眼が全く無いので、何とも伝聞を実感すべく励んでいる。

しかしなかなか、現在では「形」を見分ける人は少ない。おそらく棗で「形は?」と聞いても「中棗」という程度であって、「甲盛りの曲線が云々で愛用しているのです」というような話になる事は無いだろう。逆に造る方も、陶磁器にしてもそうだが、たいして拘っていない場合も多い。茶の一般的常識としても、茶碗であれば「井戸形」とか「熊川形」とか、定型に嵌めて分類するのが関の山という辺りも多く、これは「中棗でござい」と同じ判断に相当するのだが、一応はこれで通ることになっている。暗記も簡単ではないかもしれぬが、今少し進んで頂きたいものだ。例えば音楽で「今の演奏は?」と聞いて「バッハですよ」などという応答は素人論だ。繊細だの荘厳だの、演奏に関する話となるものだろう。茶道具を美術品として認識するならば、その道の専門家たる茶人は、やはり美術的視点を習得していてこその茶人ということになる。

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支那によって味わわれた形の美は、直ちに厳かな地の美をさえ想起させる。
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例えば「唐物」の本義。「唐物でござい」から一歩進めば、唐物の形状を評価する根本として、「荘厳」という伝統の文脈が在る。「真格」と云ってもよいだろう。すべからく宮廷文物としての発祥であり、遥かな昔に造られた青銅器の荘厳が、以降の器へ決定的な影響を遺している。実際、青銅器の威厳は恐ろしいものがある。よく知られる胡胴花入、青磁花入などもその祖形は青銅器であり、青銅器の荘厳を穏やかにしたもの、という感さえある。唐物の端然たる完成美が目指した理想郷。教養の視点として踏まえていれば、唐物に求められる美の様式も理解が容易となる。もちろん、唐物茶入は日用品の転用であるからして、必ずしも「荘厳」ではなく、むしろ素朴なものさえ多く感じるが、ともあれその上のもの。もちろん、「唐物茶入」の厳かな雰囲気ではアレコレの美術論はどうでもいいのだが、美を感じてこそ「御伝来は?」という話の意義が深まるというものだろう。

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素地は陶磁器の骨であり肉である。一般に素地は磁土と陶土との二種に区別される。
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基礎的な知識を解説するのも何であるが、よく質問を受ける。しかしこれを、何か物性的な「透光性が」とか「硬質で」などという言葉で言われても、サッパリ解らない人も多いだろう。携帯電話の取扱説明書みたいな説明は実際的なものではない。まず第一に説明すべきは「陶器は一般的な民間の焼物である一方、磁器は特殊な特上品として存在してきた。」という点であって、物性などは二の次である。専門家の悪い癖だ。今でこそ磁器は豊富に存在するが、かつては特殊材料であり、いや現代も同じく特殊な土である。中華の王朝文物に代表されるように、そこらの土を焼いたものであるわけがなく、特殊材料を用いた特上品。だから、磁器がどのように特殊であるかを覚えれば話は簡単に済むのである。まぁ、ここで展開してもしょうがないので、ここらで終わる。種類としては二種だが、磁土と陶土は地球上に50%ずつ存在しているわけではなく、その99%以上、限りなく全ての粘土が「陶土」であり、極めて僅かな量だけが「磁土」なのである。量産磁器というものは、貴重な天然資源の無駄遣いに他ならない。「雨だれ石を穿つ」というが、この速度が粘土原料生成の基本である。瀬戸キャニオンとして知られる様に、簡単に現代の量産陶器は「山1つ分」の浪費をしているのだが、これがどういうコトであるか、よくよく考えた方がよいだろう。安モノの茶碗一つでも、その原料たる粘土は大地の恩恵そのものである。それを骨として、肉として焼結させて用いるのが陶器というもの。

縄文土器が形を遺している様に、一度焼物となったものは、数千年程度で風化するものではない。地球規模の資源というような事を考えるのは昨今の進歩によるものであろうから、利休在世当時にかような事を考えていたとは思えない。ただ有田の磁器土、また中国の磁器土が貴重であるという程度の認識だっただろう。昨今は強制的に微細粉末に粉砕して、疑似粘土とする技術もあるようだが、そも焼物というのは、再生可能な鉄や木とは次元が違う、根本素材を用いているのである。作物などを造っていれば、土の神秘性を感じるだろう。種を埋めるだけで、日の光と水だけで、それが作物になり、樹木を造るのである。その土に、「炎」を加えたものが焼物である。


と、話が別の方向へと進んでしまったので、今回はここまで。

柳宗悦『茶と美』読解。26

『茶と美』読解。26
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⇒初版本第十三章(最終章)『陶磁器の美』抜粋と雑感 その2。
(柳が出版した初版本は、現在の『茶と美』と章建てが異なります。
ここでは、1941年初版に準拠して読解を進めています。)

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真に美しい作は作ることそれ自らを楽しんだ時に生まれるのである。器がただ利のために作られる時、それは醜さに陥るのである。作者の心が浄まる時、器も心も美しさを受ける。すべてを忘れる刹那が、美の至る刹那である。近世窯藝の恐ろしい醜さは功利の心が産んだ物質的結果である。陶磁器をただの器だと思ってはいけない。器というよりもむしろ心である。
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断っておくが、文章の中での言葉であるからして、この言葉だけを取り上げるとマスコミ宜しく意味を為さない。精神的視座が作品に決定的な影響を与えるという点については、こと茶陶におけるほぼ全ての大家が異口同音に唱えるものである。半泥子や魯山人なども同じことを著作で云うものであるし、また桃山の大家に於いても同じ話である。加藤唐九郎でさえ「茶道を馬鹿にする者は茶道具を作る資格が無い」と唱えている。小生が廻った著名作家からも、多くこの話を頂戴した。「究極的にはロクロを挽くよりも大事である」という話に帰結する。もちろん私もこの端くれを奉じる者だ。

陶工のみならず、茶道などでは特に精神性が要求されるものだ。その意味は、決して眉間にシワを寄せて難渋するようなものではなく、高尚に飾り立ててというものでもなく。全てを楽しむ点こそ大切になってくる。

もちろん、楽しいだけでは素人芸。技術を充分に習得してこそ、浄めた心が作品へと反映されていく。技術で苦労していれば、眉間にシワが寄るに決まっているのである。茶道で、点前も出来ない者がニッコリ笑顔で客と会話出来るわけがないのと同じ道理であって、技術稚拙なれば、見ている方がハラハラしてしまう。ここで功利を目指していると、どうしても腹黒い、何かを狙うようなものが感じられて、とても落ち着かないのである。これを柳は醜いと評する。人によっては「威圧感がある」などと云う。しかし本当の威圧感というものは、「本物が持つ威風」というものであろう。

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陶磁器の深さは常に冷ややかな科学や機械的作法を超える。美はいつも自然に帰る事を求めている。今日もなお美しく器を焼くものは自然の薪である。いかなる人為的熱力も薪によって得られる柔らか味を与えることはできぬ。かの轆轤も今なお自由な人の手や足を求めている。均等な機械の運動は美しき形を産む力に乏しい。釉薬を最も美しい効果に磨り砕くものは、あの不規則な遅々とした人の手の運動である。単なる規則は美を産むことはできぬ。石も土もまたは色も天然のものをこそ求めている。近世の化学が贈る人為的色料がいかに醜いかを吾々は熟知している。
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陶芸に関わらず、伝統的な工藝に携わると、第一の障害として登場するのは「素材」である。古きものと同じ材料が手に入らず、ために過去に劣るものしか作れないという事が、往往にして存在する。いざ手に入ったとしても、膨大な手間や金銭が必要で、とても自由自在に用いるには程遠い場合が多い。例えば桐箱一つにしてもそうだが、良質な桐材を自然状態でアク抜きした材料というものは、もはや壊滅的に手に入らなくなっている。昔は当然であった、「経年して美しいアメ色になる桐材」が、そも手に入らない。織物でも、手織りの西陣の柔らかさは驚く程のもので、今の様に堅くない。もちろん、昔は手織りの布しかないのである。陶器も、僅か100年前までは全てが原土で、手作りで成形され、それを薪で焼いていたのだが、今は薪窯でさえ難しいのが現状である。

何も復古的な、懐古主義的な話をしているわけではなく、薪炎とガス火では性質が違う。優劣はともかく、炎が違えば、電気、ガス、灯油、薪、更に電子レンジまで、焼き上がりは異なるものに仕上がる。だからもちろん、薪で焼いたものが何でもよいかと云えば、そうではない。要は最も適した選択が必要だという話である。例えばスッキリした焼き上がりが欲しいなら、薪よりもガス火の方が好いだろう。「現代はガス窯が一般的なのだから、ガス窯で焼くのが自然に適っている」などという言葉に騙されている。「自然に適う」とは、「自然に合わせる」というコトであるから、「焼締めは土味が命なのだから、薪窯で焼くのが自然に適っている」と唱えるのが正しいのである。現代の事情に合わせることが「自然」などというのは、よく改革を標榜する者が耳障りのよい言葉として使うのだが、それなら現代の陶磁器は「機械生産で十分」という結果になる。合わせているのは「自分の都合」であることが多く、「焼物の都合」ではない。

だから素材も、灰にしても何にしても、不都合なものは使わない事が多い。不均質・不均等で、手間ばかりかかるような原料は敬遠される。まぁ実際問題、良質な材料を使うには金銭面など妥協が必要な側面はある。だからまぁ、特別に非難するような話ではないが、あまりに皆がガス火では、火の神も面白くないだろう。

しかし当然だが、柳はわざわざ、皮肉的な表現で自然素材論を書いているわけで、実際は「人為的色料」の「機械製の完全品」を人々は求めるし、そこに金銭も集中する。それによって、陶磁器は尚更に、自然素材の使用から遠ざかっていく。柳の時代から半世紀の間の攻防があり、機械生産は圧勝を掌中に納めようとしている。庶民の器は「全てが薪窯の品」であった時代を越えて、「全てが機械産」へと変わってしまった。僅か100年の趨勢である。

論者:近江の苔

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。かつて古伊賀が焼成された集落に近在。詳細はWeb・交通案内記事など。

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