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「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の32

本日2件目の更新。こちらで感想文も最後になります。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の32
>『正法眼蔵』道元
人の鈍根と云ふは、志の到らざる時の事なり。
(力量がないというのは、やる気のないときのことを言うのである)
>『正法眼蔵随聞記』
人をも言い不折、我が僻事にも謂いおほせず、無為にして止めるが好也。
(相手を言い負かしもせず、自分の間違いとも言わず、何事もなくそのまま止めるのがよい)
~~~~~~~~~~~~~~~

「善いこと」を語るのは簡単だけれど。それを実際に実行するとなれば、
それはとても思案の深いものが必要であるし、十分に思案した結果でも、
はたして本当に良かったのかといえば、やってみて後悔することもあるし、
数年経って間違いだったと気付く事もあるし、一長一短である場合も多い。

そんな難しいことをやっていこうというのだから、本当の、本物の善いこと
をやろうと思ったら、その人に相当量の「志」を持つ必要がある。

例えば、いかに道徳的に正しくても、それで人を言い負かしたり、人を
批難して貶めたり、傷つけたり、見下したりするということをやるのは、
途中から、自分を高位に置いたり、怒りに任せたり、そういった感情が
主体になっていっているというものであるから、それなら何もやらない
方がよい、ということを道元は言っている。

茶道は、実情はともかく、宗名を取得して「準教授」となって、教える
ことが出来る。それは、人を教え、導いていくことの難しさでもあるの
でしょうか。今は、点前を覚え、年数を経て、相当の金額と共に申請す
ればそれほど難しくないというか、多くの人が普通に資格を持っている
けれど、その点は今の3日修行のお坊さんと同じような感覚でしょうか。

私も、結局は未熟なままに子供を教えていかないといけないから。
やはり、怒ってしまうことも多々あるし、うまくいかないこともある。
そういった中で、反省することも沢山あって、仏心には程遠いもの。

でも、善いことを教えていこうと思ったら、仏教には勉強になることが
本当に沢山あって、そこには伝統文化、伝統工芸にも通じる奥深さが
あり。「日本人の心」などと書くのは簡単だけれど、その実践ともなれば、
簡単に様々な欲望に揺れ動いて、何が核心なのか分からないままになる。

人と争いになった時に、相手を傷つけず、自分も卑屈にならず。

ついつい、勝つことを目標としてしまう現代において、
仏教はその目標さえも新鮮に映ってくる。

それを1つ1つ、学んで、実践に反映していくのが修行なのでしょうね。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の32

娘がノロウィルスに罹って。私も発症して、昨晩から随分と苦しい思いをしておりました。
数年前は文字通りの一家全滅となりましたが。その際の教訓を活かして被害は広がらず。
簡単なことでも、経験の有無で随分と変わってくることは身近にも沢山ありますね。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の32
>『正法眼蔵』道元
而今の山水は、古仏の道現成なり。
(今ここにある大自然は、仏の修行している相であり、
仏の説法している声である。)
~~~~~

筆者が最終章で改めて選んだ言葉。禅語には、自然を題材としたものが
沢山あって、茶道ではそれを季節分類して選ぶような風習も見受けられる。
例えば正月には松にかかわる禅語、初夏には山水を題材としたり。

仏教が「自然の姿から生き方を学ぶ」という姿勢があり、禅語にそれが反映
されているというのが筋道で、季節にそって自然の美しさを讃美をしている
という解釈とは、ちょっと違うということが分かる。

自然に訓えられることは、もちろんあるけれど。

澄みわたる青空や、豊かな田園風景、鮮やかな紅葉に、静かな雪景色。
広大な海の景色に、夕焼けの色彩、日の出の艶やかなる光。

自然物でなくとも、壮大な花火や、巨大な近代建造物、伝統建築など
様々な景色や風景もそうであるし、子供の笑顔や、猫の姿。
そんな身近な所にも、心を温かくさせるものがある。

難しい禅の言葉を解釈することも修行であるかもしれないけれど。
大自然は、それ自体だけでも、人々の心を癒してくれる。
そんな姿こそ、在りたいと願う存在の、根本ではないかなぁ、と。

息子には和やかに晴れた空のようにと名付け、
娘には澄みわたる夏空のようにと名付けましたが。

青空のように、それを見る人々までも温かくしてくれるような、
そんな人間に成長してくれたらなぁ、と思っています。
私もまた、その手本になれるように、励んでいきたいと思いつつ。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の31

歳を重ねて体重が増えてきて、やっぱり病気療養のせいかな、
と思っていたのですが。計測しても、それほどでもなかったりして。
健康的な生活を送れているのは確かなことです。

「禅のすすめ 道元のことば」角田泰隆著より 読書感想文の31
>『正法眼蔵随聞記』道元
「仏の道に入ったならば、ただ仏法のためにいろいろな修行をして、
その代償に何か所得があるだろうと思ってはいけない」
~~~~

巻末の、内容を復習する章です。以前にも出てきた「無所得」の思想。
経済を基盤とする現代に、「金銭対価」の扱いは難しいですよね。
道元も「仏の道に入ったならば」という、「条件」をつけていますが、
今は税金もあるし、道元のように「出来る限り自給自足」ということは、厳しい。
まして、出家した仏僧でもない普通の人々には、普段の生活だけでも、
特に家族子供がいれば、子供の養育費だけでも数千万となります。
道元の時代には可能だった自給自足も、現代には夢物語です。

ここまで読解してきた中で、色々な仏教の道徳があるわけですが、
「見返りを求めない心」という「無所得」というのは、
「善行をしっかりと行って、仏僧になった者が習得するべき思想」
というわけです。

金銭必須の現代でなくとも、寺院などでも、修復なり仏具なり、
ちゃんと支払をします。「見返りを求めないこと」と「見返りがないこと」
は、全く違う話です。謝礼も何もないのは、「失礼」ですからね。

金銭必須の現代では、支払い無しでは、お経だって上げてもらえない。
寺院、仏事の関係では、きっちりと金銭を集めているんですよね。
場合によっては、普通に値段表というものが用意されているものです。

ただ、不思議と。檀家や、茶道の弟子など、基本的に無償奉仕です。
それは修行という面もあるのでしょうけれど、草刈りなら、ガソリンに、
草刈りの刃も必要ですし、集めてもゴミに出すにしても費用が要ります。
茶道でも着物は必要ですし、礼金の出費や交通費、仕事を休むことも。
基本的には出費があり、収入にはなりません。実費も自己負担です。

その一方で、仏僧は、実費どころか、むしろ実費の数倍、それどころか・・・
という費用を、しっかりと請求していく。「無所得」を心得た仏僧が、です。
更にいえば、高僧をお招きした時ともなれば、その謝礼金などは膨大です。
お布施?人件費?芸能人?なんでしょうね。

陶芸でいえば、「茶道具だから高額なんです」なんていう商売根性の作家は、
まぁ結構多いんですが・・・、こういうのも、これに乗ってるわけです。
元々の価値に、なぞの高額費用を乗せて、請求していくという姿勢。

今の時代は、正直、薪窯で焼いたからといって、その高額な手間賃を勘案
してもらうというのは、許されないというか、そんなものは計上されないですよ。
その手間賃に見合うだけの、特別な価値のものを焼き上げないといけません。
茶道具が高額というのは、それに見合うだけの手間と価値を出さなければ。
そうすると、茶道具は難しく、熟達も必要で、赤字にもなりやすいです。

まぁそれは愚痴ですけれど。

寺院側は、しっかり請求しつつ、在家や弟子は無償奉仕をする構造に、
あれ?「無所得」っていう、見返りを求めず、欲のない姿は、どこにいった?と。
そして「権力をもっている側に都合のよい話になっているんじゃない?」と。
そんな論法で、人々の勘ぐりが進んでいくのも仕方のない話です。
特に、「お経に効用価値が認められていた」昔とは違うわけですから、
価値が下がっているのに、費用は高額なままで、実費の数倍の請求。
ちょっと・・・ずるくないですかね。それってどうなん?って、思いますよ。

・・・この辺りの疑問というのは、正直、禅の「無所得」を学んでみて、
解消というより、むしろ深まったと、言わざるを得ないです。

今の権力層、高齢層は、「バブル時代の金銭の有り余る感覚」からして、
「一々に金銭を云々」という態度は、如何にも「浅ましい」と見えてしまう。
そういった感覚があったように思います。現代でも富裕層にあるものです。

茶道具のバブルな価格高騰も、そういったものでした。茶道具なんだから、
「金銭を惜しまずに良いものを買うんだ」と、いうような、半仏教、半富裕的な。

そういった慣習から、寺院のことは、お金を惜しまずに出せばよい、
戒名だって、お経だって。そうしていくと・・・
「実費請求なんて、とんでもない」という感覚が養われていきます。

茶道などは特に、上流階級の方々が多いので、この感覚は顕著ですね。
この辺りは、私のような凡夫には辛いところですが、まぁ仕方無いです。
茶道は「衆生の行うもの」ではなく、「上流階級の嗜み」が歴史的身上です。

とはいえ、その仏教自体は、人々を救うことを目的としているもの。
戒名だの何だの、現代の寺院・仏教に対する不信感というのは、
それが上流階級、富裕層のものであった特権感覚の名残りを発端に、
金銭にまつわる甘えた感覚に対する嫌悪感が元凶の1つかと。
その嫌悪が、更に仏教思想や、文化の「仏教色の排斥」まで進んで。

そういった見地も、1つ成立するのではないでしょうか。
経済中心の世の中だからこそ、金銭の違和感は注目されやすい。
金銭面の不透明な処理は、政治家はもちろん信頼を失いますが。
道徳を求められる寺院においても、同じことではないかと思います。
簡単に、責められるべきところが見い出されてしまう。

仏教要素が排除された状態で、伝統文化、伝統工芸が語られている。
そんな異常な状態の解除には、金銭関係をまず正常化して、寺院が、
経済中心の社会の中に入っていくことが、まず必要なのかなぁ、と。
そこを抜きにして、寺院がいくら善いことを語っても、通用しないですよ。
このままじゃ、寺も仏壇も墓も、失われていくばかりです。
日本文化の根底たる仏教を抜いていく試みは、今のままでは止まらない。

檀家の負担って、現代には相当に重いですよ。上流階級に頼った体制のまま、
「衆生を救う」「社会を救う」と言われても、ちょっと厳しいのではないかと。
要はちょっと「金銭感覚が違いすぎるんやなぁ」というのが、実感として思う次第。
寺院関係についても、茶道方面についても。

「どう工夫しても、バブルの時代には戻らんのやで。」

そんな感想文です。
論者:吉村祐

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。

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