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富本憲吉の思想 総括

窯辺雑記、製陶余録より、富本憲吉の陶芸思想を見てきました。

窯辺雑記では、彼が故郷・奈良で本格的に陶芸に取り組む頃の思想が描かれています。それまでは楽焼。30歳の年でようやく本格的に陶芸に取り組んで、陶芸の奥深さに導かれます。ただただ夢中に入り込んでいく姿。それまで彼が海外遊歴などで培ってきた「建築」という分野から来る、「形」というものを「至高」とする思想を念頭に、陶磁器にもそれを適用して美術家になるべく、大いに自信を深めています。また同時に李朝に傾倒。同じくそれを評価した民藝派の感覚を取り入れ、自然なる形、自然なる陶器というものを大切にしながら、白磁の世界を歩んでいます。

当時、京都は伝統的に絵付師とロクロ師が分業で、ロクロを別人に挽かせる事が普通の事であったわけで、「陶芸作家」の始まりとされる板谷波山などもロクロ師を使っています。絵画を書くことこそが芸術という時代なので、絵付の仕事ならば芸術として許容される素地があったわけです。しかし彼は李朝・宋白磁に魅せられて白磁に取り組みます。白磁は模様も何も無い世界です。ロクロ師が挽いた壺に、ただ単純釉薬を掛けただけの仕事では作業です。芸術家と云えないという事を突き付けられ、自らロクロに取り組む必要性に迫られます。しかしそこから、実学の大切さ、実経験無しに語る事の愚かさを発見し、それを伝えるべくして周囲を批判していきます。

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時代としては大正時代。いわゆる財閥企業に大正数寄者が現れ、没落していく大名家や両千家から名画・名宝を買い漁り、珍品名宝をずらりと並べて茶会を行っていました。茶道を率いてきた千家が没落し、茶道は大金持ちの遊ぶところのものとなってしまい、富本は「もう茶道は潰れた方がいい」という事を唱えています。

やがて大正時代が終わる頃、彼は40歳を迎え、製陶余録に記載される時代へと入っていきます。彼は故郷を捨てて東京へ転居します。東京では、既に板谷波山が名声を高め、北大路魯山人が星ヶ岡茶寮を経営して陶芸家としての名を高めていましたが、そういった中、初窯まで二年半もの空白を持ちます。その間、彼は文展に対抗する展覧会派としての国画会を創設。白磁に取り組んだ彼はいつしか模様の考案者として、陶芸家ではなく図案家として、国家的な芸術政策に人脈を築き、文展の審査員を勤め、帝国美術院の会員として認められる。敵対していた文展の工芸指揮官となり、彼は民藝派を脱退。すでに庶民的器と対極である赤絵金襴の世界へと足を進めていました。およそこの頃までが、製陶余録に記載されている頃の状況にて、次第に戦争の機運も高まって行きます。

製陶余録以降の富本氏。既に東京転居の頃から畳生活を捨てていた彼は、日本美を出発点とする思想からも離れ、洋花を絵付する事で新しい伝統模様を探り、東京芸大の教授に。二次大戦に突入して東京からは疎開しているが、、彼は戦争とは無縁に過ごしています。

既にして彼は国家的な芸術家として扱われていたのですが、彼は戦後、その改革に失敗して辞表を提出。故郷の奈良へと戻り、一度は捨てた国画会に復帰するという荒技を駆使するが、国画会は民藝派との共闘を選択。富本一派はここをも追われる事になり、新たに「美術工芸会」を結成する。この頃、彼は自分の窯をも作らずに権力闘争。作品は窯を借りて焼いており、作家性がかなり希薄となっている。その仕事は京都芸大の講師であった。

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昭和30年、戦後になってようやく自分の窯を作ったのは無形文化財(人間国宝)の第一号として認められた年であった。時に69歳である。同時に文展への貢献から、文化勲章をも受章し、国家勲章を唯一両方保持する事になり、国家を代表する芸術家として国際展覧会への出品を行った。1963年、77歳で死去。

後半生は権力闘争とも云える時代。官展に反旗を掲げて国画会を創設し、そこから官展に入り込むという芸当を。更に内側から官展を改革しようと狙うが、これに失敗。かつての国画会は”反官展”の立場から民藝派と手を組んでいたため、派閥を引き抜いて工芸会を創設。そこから人間国宝制度の創設に関わり、官展(文化勲章派閥)と日本工芸会(人間国宝派閥)の両方に人脈を持って、その思想を普及させていった。彼は一口に「人間国宝と文化勲章の両方の勲章を持つ唯一の陶芸家」と云われ、それが一枚看板として通っている。およそその背景はこういったもので、本格的な作陶期間は僅かに20年から30年程度であろうか。その称号が権力闘争の賜物である事を想像させるに十分なものである。

ざっくりと見てきたが、およそ製陶余録の時代までが、彼が本格的に陶芸に取り組んでいた時期であった。その思想は「創作」にあり、古きものを参考にせず、しかし「奇抜」に陥る事もなく、「新しい伝統の芽を打ち立て続ける事こそが作家の生命である」というもの。それは理論としては「従来のものを再生産する仕事」の否定、即ち「茶陶や民藝を断罪」するものであった。それから半世紀を経て。当初、三派閥の合議から成立した工芸展も、茶陶が細い生命を保つ程度で民藝は駆逐されてしまっている。結果的に、彼の思想勢力が日本工芸界で勝利したという構図になって現代を迎えているのである。

彼が死の直前まで握っていたものは、芸大における教鞭であった。工芸界が後継者を芸大に送り出していた時代、その後進芸術家世代に対する思想教育を握っていたのが、彼の派閥である。およそ現代の作家意識、工芸会の意識というものの方向性が、この教育によって培われたものであるとするならば、「常に新しいもの」を求める現代の芸術家意識に、何か符号するものを感じる様な気がしないでもない。ただ1つ。彼の但し書きである「新しき伝統は奇抜ではなく自然の中から感得し、努力して得るものである」という難解な部分が欠落し、単純なる「新しき伝統」として劣化して次世代に伝わった時、彼の思想の本質も葬られる事になるのである。

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製陶余録より思想を探る 其の十三

窯辺雑記に引き続き、製陶余録の読解。その13。(最終回) 

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製陶余録、第21章「千九百三十年終わる」第22章「武蔵野雑草譜」第23章「長崎雑記」より抜粋。

・柿釉を見て濱田氏の釉を使ったと云う批評を受けた。何事も知らぬ新聞記者が職業からする工芸批評のあはれな一例である。

→当時のマスコミにおける工芸の教養水準。今も、それほど大差が無いのではないか。書籍で観たり、マスコミが適当に報じているままに、作家の使う土や釉薬は独自のもので、苦労して造り上げていると思っている人が多い。しかし現実は、市販の釉薬から選んできたものを、市販の粘土に掛けて、簡単にガス窯で焼いたものが大半なのである。改めて云うが、窯元ではなく、作家の仕事の話である。借り物の釉薬を使うという事は、着物を借りてくるという事だ。

・普通、人は花をつけた草木にのみ心を惹かれるが、それは間違った考えであって、灯篭を置かぬ庭を庭らしく思えぬと同一理であると思う。

→茶の花では枝的なものも多く使われる。また、花だけでは面白く無く、やはり葉も観賞点としてかなり重要に感じられる。物事が主役だけで成立しているのではない事を、常々教えられるものである。雑草といえど、初夏には素晴らしい緑色の色彩を魅せてくれるものだ。

・歌に調子取りながら踊る様な手つきでゴム版をおす若者、此の押し手1人が、毛筆の仕事の二十人に等しき仕事の由。十九人は失業である。ここに機械が人を苦しめ失業を多くする生きた実例がある。

→今では・・・もういいか。ローラーマシンは一日に万単位の製造能力。要する人材は1人で、特殊技能は不要。対して熟練職人は削り仕事を含めて一日に500個が限界。相応の修業期間と、無駄になる粘土がついてくる。

・此の多勢の人々は、夜十時まで働き続けて、朝まで一室に寝るのである。そして得る銭は僅少である。ああこの家内工業の残留者達。彼等が此の混然たるうちに平和な仕事を続け得るのもそう永い事ではあるまい。

→何と云う希望の無い終わり方をするのだろう。彼は既にして相当に高位に登っている。陶界を指揮する立場である。そういった人物が身を粉にして陣頭指揮を取り、革命を起こさずして、誰か別の人がそれを出来るとでも思っているのだろうか。こんな事を書いて、悲嘆に暮れて著作を閉じるのであれば、いっそ書かない方が宜しかろう。彼が歴訪し、絵付けしながら廻った窯元の人々は、これを読んでどう思うだろう。彼は文章では人々を扇動し、あるべき姿を示し、現状を批判した。しかし行動として果たすべき、求められていた仕事は放棄した。それを宣言するが為に、著作を出版したのである。そして美術界は、これを名著だと云った。

この時、彼は54歳。陶器家としては、ようやく「開花」の年齢なのである。

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以上、第21~23章より抜粋。『製陶余録』より富本憲吉の陶芸思想。

製陶余録より思想を探る 其の十二

窯辺雑記に引き続き、製陶余録の読解。その12。 

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製陶余録、第17章「リーチに就いて」、第18章「千九百十三年頃」第19章「友人リーチ」第20章「リーチ来遊」より抜粋。

・古人の「同じて和せず和して同せず」(※)という句を思い出した。他人を悪く云えば自分が偉く見えると思う人や、作品の批評に対してその作家自身が又批評の返答をする事の流行する今の世は実に、同じて和せずの頂上では無かろうか。仕事の事に於いてのみだけでも和して同せずと云いたい。
(※孔子の語。君子は和して同ぜず 小人は同じて和せず :協調関係にあっても意見を云う者は立派である。しかし、意見には同調するが協力はしないというものは下劣な行為である。)

→公開討論が流行だったわけで。声の大きい、理路整然とした者の鋭い意見に、大衆はしばしば内容の吟味無しに同調し、拍手喝采を送る。魯山人は無名・勲章無しで上がってきているが、多くの文化人と交流を行っている上に斬れ過ぎる刀を振り回しているわけで、何とも優勢であった事が推測される。現代でも、マスコミと同調した作家が取り上げられ、マスコミの底の浅い伝統論に人々が味方している。つまり富本氏は人々の「無責任な付和雷同」に怒っているのである。

・リーチは十年間の東洋生活を後に英国に帰り住むそうである。リーチを中心として何事かが生まれ出る事であろうと思う。地球の西と東に於いて此れ等が完全に出来あがった時初めて東西の融合は形づくられる事となる。然し大変である。その緒を初めたらばそれだけでその人は大変な偉い人と云わねばならぬと思う。

→国際派への熱烈な憧れがある時代。富本自身も若い頃に海外に数年間遊学した。東西文化の融合と云えば聞こえは良いが、事実は会社の合併に等しく、どちらかが食い潰されたり、対立が生じたりする事の方が多い。古くは中国元王朝や大清国、また現代中国制圧下にあるチベットやモンゴルが好い例である。ついでに云えば、日本はすっかりと欧米化した。これを東西文化の融合と云うならば、成功例という事か。富本氏の云う様に容易な事では無いし、そもそもその必要性がどこから来るのか意味がわからない。「美名に酔う」と言うが、「酒の上の話」で済む話と、済まない話がある。大東亜共栄圏構想など、この頃の日本は美名に酔っている時代ではないだろうか。

・(1913年頃を回想して)英国人である彼(リーチ)は本国を発つまで一切工芸に眼を触れなかったから、(英国の陶磁器書を見て)彼の驚きは大変なものであった。電燈の下であの書物を見入っている若い二人の眼は血走って燃え盛る焔のようなものであったろう。(1932年に書かれた回想)

→敢えてリーチに関して、民藝派にしても、富本にしても多く取り上げる傾向がある。一方で他の民藝作家である浜田や河井、柳の話は出て来ない。なぜであろうか。

・僕が東京で日本間の1つも無い新居を造った事につき何か理由があるだろう、とか、一昨年英国に送った近作を見てなぜ味の無い磁器の染付類を焼くかと書いてよこした彼の手紙に対して、返事もせずに置いてはあるが、会えば話してみたいと考えている。

→その後、会ったのかどうかは知らないが、「戦前なる時代」において、「日本間の1つも新居に無い」という生活を「意図的に」送った者が、日本の伝統工芸の旗手として託されたのかと思うと、非常に遺憾である。染付の指摘は、そも民藝は素朴なるを旨とするのに、富本の選択した技術は白磁・染付・赤絵金襴という、磁器土を扱う高級志向の器ばかり。民藝はその性質上、至上命題として日本各地に埋蔵されてる赤土の低級粘土を用い、特定の産地からしか得られない高価な磁器土を敬遠するのである。民藝に共鳴していた筈の富本は、「個人作家としての創作」という思想のみならず、磁器という技法選択にも矛盾を抱えていた。やがて民藝と決別し、更に高品位な種別である赤絵金襴へ進むのである。民藝を抱えて帰国したリーチが疑問に思うのは当然の事だろう。

・リーチが来春日本に来るという事を柳あてにいってきたというニュースが聞こえてくる。陶器家として英国よりもかえって日本でよく知られ人気がある。彼の作品は英国で作られ、作られたものは日本にやって来て一年に一度は友人達の手で展覧会が催され、国画会工芸部会員としても名を連ね、他の外国の美術家とは凡そ相違を持っている。この一文を通じて全国のリーチファンに報告することは私の義務とさえ信じられ此の文を書く。(1933年)

→なるほど、リーチはそういう人物であったわけか。これでは民藝派の広告塔である。そしてその人気者に親しきを強調する民藝作家。現実的に成功を収めた方策という事になろうか。リーチの作品には詳しくないが、おそらく見たことはある。しかし、残念ながら、記憶には一切残って居ない。普通に日本的な民藝作品を造っていたわけで、英国よりも日本で人気があった理由も、民藝派がこぞって宣伝したのも無理はない。この当時、「憧れの先進国の有名芸術家が、後進国日本の民衆陶磁器を認め、それを造るだけでなく、先進国英国で発表まで行っているのだ!」という影響力は凄まじいものだったろう。もちろん作品の輸出入に暗示される様に、この裏には日英同盟という国際政治の思惑が強く効いている。この策が非常に強力であっただろう事が容易に推測されるのである。



以上、第17~20章より抜粋。『製陶余録』より富本憲吉の陶芸思想。
論者:近江の苔

吉村祐


〆真の茶陶を求め、忍びの里にて古伊賀を追う日々。1980年生。
陶工:吉村 祐 (ユウ)
窯場案内:伊賀丸柱から北へ10分、信楽から東へ20分程の山中。かつて古伊賀が焼成された集落に近在。詳細はWeb・交通案内記事など。

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